第二十三話 祓戸
【 祓詞 】
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる 祓戸の大神たち
諸々の禍事 罪 穢れ あらむをば
祓へ給ひ清め給へと 白すことを 聞こし召せと
恐み恐みも白す
――およそ一月前――
この日、睦貴は滋賀県大津市に来ていた。
名古屋から名神高速道路へと車を進め、京滋バイパスを通り南郷ICで降りる。
瀬田川沿いを走る宇治川ラインを少し引き返すと、右手に目的地である佐久奈度神社が姿を現した。
瀬田川のほとりの駐車場には、神聖な山気が満ちていた。
急峻な山々のあいだを縫う瀬田川のせせらぎが、静かに胸の奥へと染み込んでくる。
鳥居まではわずかな距離だった。
それでも睦貴はすぐには歩き出さず、しばし川面を見つめた。
流れは絶えることなく、ただ淡々と、過去も迷いも押し流していくかのようだった。
佐久奈度神社は、小高い丘の上に鎮座している。
もとは川沿いの低地にあったが、天ヶ瀬ダムの建設に伴い、現在の地へと遷された。
睦貴は鳥居をくぐり、ゆるやかな上り坂を歩き出した。
坂を登りきった瞬間、視界がふっと開ける。
そこには、空へ向かって広がるような境内があった。
隅々まで清められたその神域は、古来より祓いの神を祀るこの地らしい、静かな威厳を湛えている。
同時に、不思議なほど柔らかな気配が、訪れる者をそっと包み込んでいた。
少し歩みを進めると、右手に展望台があった。
展望台に立つと、眼前に立木の峰を仰ぎ、眼下には瀬田川の流れを望むことができた。
睦貴は瀬田川の流れに視線を落とした。
川の中腹あたりの岩肌に、一人の女性が立っていることに気付いた。
そこに立つ姿は、まるで川そのものが形をとったかのようであった。
長く流れる黒髪は背を越えて垂れ、ゆるく束ねられた組紐が、かすかな風に揺れている。
身にまとう衣は深い紫の単衣。
広い袖と長い裾は静かな水流を思わせ、わずかな動きに合わせて柔らかく波打った。
その姿は、どこか現世のものではない清らかさを帯びていた。
その場に立っているだけで、周囲の空気が澄みわたっていく。
まるでこの世の穢れが、音もなく水に溶けて流れ去っていくかのようだった。
女性が静かに右腕を肩の高さまで上げると、川面から一筋の水流が立ち上る。
やがてそれは女性の周囲を旋回しながら、水龍のように天へ向かって昇り、その身体を包み込んだ。
次の瞬間、水が弾けるように霧となって散る。
そして、霧が消えた時には、すでに女性の姿もそこにはなかった。
高雅なその姿の余韻に、睦貴はしばし呆然と川面を見つめていた。
やがて、無意識のうちに言葉がこぼれ落ちる。
「…瀬織津姫命」
しばらく展望台に立ち尽くした後、ようやく本殿へと歩き出した。
睦貴は拝殿の手前で立ち止まり、改めて社殿を見上げた。
朱塗りの柱と白壁の対比は、山あいの澄んだ空気の中でいっそう鮮やかに浮かび上がり、静かな光を帯びて佇んでいる。
端正な造りでありながら、その佇まいには古社ならではの荘厳さが宿り、同時にどこか瀟洒で気品ある美しさを感じさせた。
清められた境内の空気と相まって、社殿はまるで神威そのものを形にしたかのようである。
賽銭箱や神前幕には、この社の神紋である心櫻十六菊が静かに配され、古来より続く祓いの神の座であることを、控えめながらも確かに示していた。
拝殿の中は吹き抜けとなっており、本殿の御扉を正面に拝することができる。
佐久奈度神社は「祓戸四神」を祀る神社である。
瀬織津姫命、速秋津姫命、気吹戸主命、速佐須良姫命。
祓いと浄化を司るこの神々は、総称して祓戸大神たちと呼ばれている。
主祭神として四柱すべてを祀る神社は極めて珍しく、ここ佐久奈度神社はその中心的な存在として、古くから全国の崇敬を集めてきた。
もう一つ、この社を語るうえで欠かすことのできないものがある。
神道で最も知られた祝詞の一つ、大祓詞である。
その成立については諸説あるが、一説には、この佐久奈度神社を創建した中臣金連がこれを作り、後の時代に幾度かの改編を経ながらも、今日に至るまで大切に奏上され続けてきたと伝えられている。
そして社の由緒によれば、この大祓詞は、まさにこの佐久奈度神社をその発祥の地とするという。
睦貴は拝殿の奥にある本殿の御扉を静かに見つめた。
やがて懐から勾玉を取り出し、胸の前に掲げる。
そして、深く頭を垂れた。
勾玉に呼応するかのように、圧倒的な神威が降りてくる――
――はずだった。
だが、何も起こらない。
勾玉も反応を示さず、静かなままだ。
わずかな沈黙が流れる。
胸の奥に芽生えたかすかな焦りを抑え、睦貴は頭を上げた。
頭を上げた睦貴の目に飛び込んできたのは、正面の御扉ではなかった。
そこにあったのは、漆黒の瞳だった。
気がつけば、顔が触れるほど近くに、一人の少女が立っている。
その瞳には白目がなく、深淵だけを湛えた闇が、まっすぐに睦貴を見つめていた。
瀬田川で見た女性と同じように、長い黒髪が背を越えて静かに垂れている。
髪は風もないのにわずかに揺れ、どこか遠い流れに引かれているかのようだった。
身にまとうのは淡い灰色の長衣。
粗い麻布で織られた飾り気のない衣は、静かに地へと垂れ、その長い裾は大地をなぞるように引きずっている。
最初は少女のように見えた。
だが目線は睦貴と同じ高さにある。
少女にしては背丈が高い。
見る者によって、その姿は違って見えるのかもしれないと、睦貴は直感的に感じた。
現世の理から外れた存在であることは、すぐに理解できた。
それでも恐怖はなかった。
むしろ、その瞳に見つめられていると、心が静かにほどけていく。
このまま、この漆黒の瞳にすべてを委ねてしまいたい。
身体も、魂も、何もかも。
そんな願いが、抗えぬほど強く胸の奥から湧き上がってくる。
睦貴は夢遊病者のように、少女へ向かって一歩踏み出した。
『やあ、驚かせてしまったようだな。すまなかった。あまり現世の人に会うことはないから、珍しさが勝ってしまったのだろう』
その声が睦貴を現実へと引き戻した。
いつの間に現れたのか、少女の隣に精悍な青年が立っていた。
長い黒髪は後ろで束ねられ、肩の上で荒々しく揺れている。
風が吹いているわけではない。
それでも周囲の空気は絶えず流れ、青年の周囲だけが見えない風に満たされているかのようだった。
身にまとうのは黄の衣。
厚く織られた麻布の長衣は大きく胸元を合わせ、広い袖と長い裾がゆったりと垂れている。
だが、その衣は時折ふわりと持ち上がり、まるで強い息吹に押し上げられているかのように揺れ動いた。
『そなたは今、我々が目の前にいるにもかかわらず、なぜ何も感じないのか――少し戸惑っているようだな』
睦貴は自身の混乱を見事に言い当てられ、かえってさらに戸惑った。
「いえ、決してそのようなことは。ただ、少し驚いているのです。今までお姿を拝した神々とは、どこか気配が異なりますので…」
言葉にしながら、睦貴は確信していた。
この漆黒の瞳を持つ女神こそ速佐須良姫命。
そして現世へと引き戻してくれたこの男神こそ、気吹戸主命であると。
睦貴の率直な答えに、気吹戸主は穏やかに微笑んだ。
『日々、人々の祈りは我らに届く。そして我らは、その願いを聞き届けるため人の世へ赴く』
気吹戸主は静かに続けた。
『だが、気配は感じさせてはならない。よほど強き者でなければ、人は耐えられぬのだ。神の気配とは、本来それほどに強いもの。強すぎる力は、時として人に災いすらもたらしてしまう。禍事を祓うために現れて、かえって害を与えては本末転倒だ』
睦貴は祓戸大神たちの慈愛に感服し、思わず一礼した。
顔を上げた時、さらにもう一柱増えていることに気づき、睦貴は困惑した。
『君は出雲の水狭のところの童じゃないか。懐かしいな。すっかり大きく成長して、立派になったものだ』
優しい笑みを浮かべ、睦貴の前に現れたその女神は、躍動する水の気配をまとっていた。
しかし荒々しさはない。
だが、近づくだけで心の奥に溜まった濁りを見透かされるような、澄みきった気配がある。
衣は淡く、白にも水色にも見える不思議な色合いで、揺れるたびに水面の光のようなきらめきを帯びる。
思わず頭を垂れたくなるほどの神聖さが、その御姿から自然と放たれていた。
まるで人の力では抗えない、大きな渦潮を前にした時のような、澄み切った畏れを睦貴は胸の奥に覚えた。
この女神こそ、速秋津姫命であろう――睦貴はそう思った。
「私を、御存じなのですか」
睦貴の実家である水狭神社の名を挙げられ、嬉しさと驚きの混じった感情が胸を満たした。
『知っているも何も、君は毎日のように我らを呼んでいたではないか。君の願いに応えようと、我らも力の限りを尽くした。だが、すでに君の母は、幽世へ旅立つ定めにあったようだ』
睦貴の脳裏に、幼い日の情景が鮮やかによみがえった。
母が重篤な病に犯されていると知った時の嘆き。
毎日、母を連れて拝殿で「祓詞」を奏上し、その病を祓ってもらおうとしていたこと。
母が歩ける最後の日まで、少年の睦貴は拝殿で祓戸大神たちに祈りを捧げていた。
結果、母は幽世へ旅立ち、睦貴は神に背を向けた。
しかし、大神たちは力の限り、願いに応えようとしてくれていた。
胸の奥に、当時の感情が静かによみがえる。
そして大神たちの尽力への感謝が込み上げ、睦貴はそっと涙を拭った。
『そなたの望みはわかっている。我らの力を求めているのだろう。そなたの願いに応えよう。童の時と同じようにな』
気吹戸主は慈愛に満ちた眼差しで、静かに睦貴を見据えた。
睦貴は勾玉を取り出し、祓戸大神たちの前へ両手で恭しく捧げた。
『我らが人の前に姿を現すのは、いつぶりであったかのう。たしか人は――元寇と呼んでいたな』
懐かしむように、速秋津姫がどこか無邪気な調子で語る。
『それは違う。我らが赴く前に、すでに級長津彦が片付けてしまっていた』
気吹戸主が、すぐさま静かに言葉を差し挟んだ。
速秋津姫はへそを曲げてしまったのか、頬を膨らませた。
『おお、そうであったな。後の世で神風などと呼ばれておった。なんと小癪なことよ。我らが出向いておれば、あの程度のもの、跡形もなく消えておったものを』
睦貴は、神々の会話をただ呆然と聞いていた。
遠い歴史の出来事が、まるで昨日のことのように語られている。
速佐須良姫だけは、何も語らない代わりにずっと睦貴を凝視していた。
漆黒の瞳は深く静まり、そこからは一切の感情を読み取ることができない。
時折、顔が触れるほどの距離にまで近づいて、睦貴を大いに困惑させた。
やがて気吹戸主が一歩前へ出る。
『さあ。我らの力を、しっかりと受け取るがよい』
静かな声が空間に響く。
気吹戸主が静かに手をかざすと、睦貴の身体を一陣の風が吹き抜けた。
風と言うには、あまりにも強烈だった。
まるで、大型トラックに衝突されたかのような衝撃が襲う。
睦貴は姿勢を保つことができず、思わず数歩後ずさる。
直後、凄まじい神威が睦貴を包み込んだ。
意識とは無関係に両膝が崩れ、身体が地へと引き伏せられそうになる。
「(これが…祓戸四神の神威か…!)」
跪いた睦貴の周囲を、疾風と激しい水流が渦を巻くように旋回する。
風と水は目で追えぬ速さで巡り続け、やがてその奔流は、睦貴が捧げた勾玉へと吸い込まれていった。
すべての神威が勾玉へ注ぎ込まれた瞬間、睦貴を押し潰していた圧が消え、静寂が戻った。
気吹戸主が、穏やかな声で告げる。
『よく、我らの気配に耐えたな』
祓戸四神の重厚な神威を受け、いまだ睦貴は茫然としていた。
地面に折れた膝は、しばらく動きそうになかった。
『それにしても数奇な定めよのう。国津神よりこの地を天津神が譲り受け、そして時を経て――国津神の器に、天津神が収まるとは』
速秋津姫は、どこか愉快そうに笑った。
『我らの力は、そなたらの祈りに応えよう。そなたらの祈りが満ちれば、力もまた満ちる』
気吹戸主はそこまで語ると、ふと視線を空へと向けた。
まるで遥か遠い何かに思いを巡らせるように、しばし静寂が落ちる。
やがて静かに睦貴へと視線を戻すと、再び口を開いた。
『そなたらは、ただ祈るだけでよい。祓うは我らの務めだ』
気吹戸主の言葉には、念を押すような響きがこもっていた。
その神意を完全には掴めぬまま、睦貴は深く頭を垂れる。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
だがその時には、すでに祓戸大神たちの姿は消えていた。
ただ静かに、社殿の荘厳な気配だけが残っている。
睦貴はなおも跪いたまま、改めて深く平伏した。
駐車場に戻った睦貴は、瀬田川の流れをふたたび見つめた。
岩肌に立つ瀬織津姫が、慈愛に満ちた眼差しで静かにこちらを見送っている。
その姿は、次の瞬間にはもう川霧の中へ溶けていた。
睦貴は、ただ静かに川面を見つめ続けた。
佐久那太理に落ち多岐つ速川の瀬を――
作中に登場する祓戸四神の神名は、『大祓詞』に見える表記とは少し異なっています。
本作では、近江国・佐久奈度神社に伝わる主祭神の表記をもとに記しました。




