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神代基層(じんだいきそう)  作者: 久遠 玲
第三章 満ちる祈り
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第二十三話 祓戸




祓詞(はらえことば)


()けまくも(かしこ)き 伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)

筑紫(つくし)日向(ひむか)(たちばな)小戸(おど)阿波岐原(あはぎはら)

(みそ)(はら)(たま)ひし(とき)に ()()せる 祓戸(はらへど)大神(おおかみ)たち

諸々(もろもろ)禍事(まがごと) (つみ) (けが)れ あらむをば

(はら)(たま)(きよ)(たま)へと (まを)すことを ()こし()せと

(かしこ)(かしこ)みも(まを)






――およそ一月前――


この日、睦貴は滋賀県大津市に来ていた。

名古屋から名神高速道路へと車を進め、京滋バイパスを通り南郷ICで降りる。

瀬田川沿いを走る宇治川ラインを少し引き返すと、右手に目的地である佐久奈度(さくなど)神社が姿を現した。


瀬田川のほとりの駐車場には、神聖な山気が満ちていた。

急峻な山々のあいだを縫う瀬田川のせせらぎが、静かに胸の奥へと染み込んでくる。


鳥居まではわずかな距離だった。


それでも睦貴はすぐには歩き出さず、しばし川面を見つめた。

流れは絶えることなく、ただ淡々と、過去も迷いも押し流していくかのようだった。



佐久奈度神社は、小高い丘の上に鎮座している。

もとは川沿いの低地にあったが、天ヶ瀬ダムの建設に伴い、現在の地へと遷された。


睦貴は鳥居をくぐり、ゆるやかな上り坂を歩き出した。


坂を登りきった瞬間、視界がふっと開ける。

そこには、空へ向かって広がるような境内があった。

隅々まで清められたその神域は、古来より祓いの神を祀るこの地らしい、静かな威厳を湛えている。

同時に、不思議なほど柔らかな気配が、訪れる者をそっと包み込んでいた。



少し歩みを進めると、右手に展望台があった。

展望台に立つと、眼前に立木の峰を仰ぎ、眼下には瀬田川の流れを望むことができた。




睦貴は瀬田川の流れに視線を落とした。

川の中腹あたりの岩肌に、一人の女性が立っていることに気付いた。


そこに立つ姿は、まるで川そのものが形をとったかのようであった。


長く流れる黒髪は背を越えて垂れ、ゆるく束ねられた組紐が、かすかな風に揺れている。

身にまとう衣は深い紫の単衣。

広い袖と長い裾は静かな水流を思わせ、わずかな動きに合わせて柔らかく波打った。

その姿は、どこか現世のものではない清らかさを帯びていた。


その場に立っているだけで、周囲の空気が澄みわたっていく。

まるでこの世の穢れが、音もなく水に溶けて流れ去っていくかのようだった。


女性が静かに右腕を肩の高さまで上げると、川面から一筋の水流が立ち上る。

やがてそれは女性の周囲を旋回しながら、水龍のように天へ向かって昇り、その身体を包み込んだ。

次の瞬間、水が弾けるように霧となって散る。

そして、霧が消えた時には、すでに女性の姿もそこにはなかった。



高雅なその姿の余韻に、睦貴はしばし呆然と川面を見つめていた。

やがて、無意識のうちに言葉がこぼれ落ちる。


「…瀬織津姫(せおりつひめ)命」


しばらく展望台に立ち尽くした後、ようやく本殿へと歩き出した。




睦貴は拝殿の手前で立ち止まり、改めて社殿を見上げた。


朱塗りの柱と白壁の対比は、山あいの澄んだ空気の中でいっそう鮮やかに浮かび上がり、静かな光を帯びて佇んでいる。

端正な造りでありながら、その佇まいには古社ならではの荘厳さが宿り、同時にどこか瀟洒で気品ある美しさを感じさせた。

清められた境内の空気と相まって、社殿はまるで神威そのものを形にしたかのようである。

賽銭箱や神前幕には、この社の神紋である心櫻十六菊が静かに配され、古来より続く祓いの神の座であることを、控えめながらも確かに示していた。

拝殿の中は吹き抜けとなっており、本殿の御扉を正面に拝することができる。



佐久奈度神社は「祓戸四神」を祀る神社である。


瀬織津姫(せおりつひめ)命、速秋津姫(はやあきつひめ)命、気吹戸主(いぶきどぬし)命、速佐須良姫(はやさすらひめ)命。


祓いと浄化を司るこの神々は、総称して祓戸大神(はらえどのおおかみ)たちと呼ばれている。

主祭神として四柱すべてを祀る神社は極めて珍しく、ここ佐久奈度神社はその中心的な存在として、古くから全国の崇敬を集めてきた。



もう一つ、この社を語るうえで欠かすことのできないものがある。

神道で最も知られた祝詞の一つ、大祓詞(おおはらえのことば)である。


その成立については諸説あるが、一説には、この佐久奈度神社を創建した中臣(なかとみの)金連(かねのむらじ)がこれを作り、後の時代に幾度かの改編を経ながらも、今日に至るまで大切に奏上され続けてきたと伝えられている。

そして社の由緒によれば、この大祓詞は、まさにこの佐久奈度神社をその発祥の地とするという。



睦貴は拝殿の奥にある本殿の御扉を静かに見つめた。

やがて懐から勾玉を取り出し、胸の前に掲げる。

そして、深く頭を垂れた。


勾玉に呼応するかのように、圧倒的な神威が降りてくる――



――はずだった。


だが、何も起こらない。

勾玉も反応を示さず、静かなままだ。


わずかな沈黙が流れる。


胸の奥に芽生えたかすかな焦りを抑え、睦貴は頭を上げた。



頭を上げた睦貴の目に飛び込んできたのは、正面の御扉ではなかった。

そこにあったのは、漆黒の瞳だった。


気がつけば、顔が触れるほど近くに、一人の少女が立っている。

その瞳には白目がなく、深淵だけを湛えた闇が、まっすぐに睦貴を見つめていた。



瀬田川で見た女性と同じように、長い黒髪が背を越えて静かに垂れている。

髪は風もないのにわずかに揺れ、どこか遠い流れに引かれているかのようだった。

身にまとうのは淡い灰色の長衣。

粗い麻布で織られた飾り気のない衣は、静かに地へと垂れ、その長い裾は大地をなぞるように引きずっている。



最初は少女のように見えた。

だが目線は睦貴と同じ高さにある。

少女にしては背丈が高い。

見る者によって、その姿は違って見えるのかもしれないと、睦貴は直感的に感じた。


現世の理から外れた存在であることは、すぐに理解できた。

それでも恐怖はなかった。


むしろ、その瞳に見つめられていると、心が静かにほどけていく。

このまま、この漆黒の瞳にすべてを委ねてしまいたい。

身体も、魂も、何もかも。


そんな願いが、抗えぬほど強く胸の奥から湧き上がってくる。

睦貴は夢遊病者のように、少女へ向かって一歩踏み出した。



『やあ、驚かせてしまったようだな。すまなかった。あまり現世(うつしよ)の人に会うことはないから、珍しさが勝ってしまったのだろう』



その声が睦貴を現実へと引き戻した。

いつの間に現れたのか、少女の隣に精悍な青年が立っていた。



長い黒髪は後ろで束ねられ、肩の上で荒々しく揺れている。

風が吹いているわけではない。

それでも周囲の空気は絶えず流れ、青年の周囲だけが見えない風に満たされているかのようだった。


身にまとうのは黄の衣。

厚く織られた麻布の長衣は大きく胸元を合わせ、広い袖と長い裾がゆったりと垂れている。

だが、その衣は時折ふわりと持ち上がり、まるで強い息吹に押し上げられているかのように揺れ動いた。



『そなたは今、我々が目の前にいるにもかかわらず、なぜ何も感じないのか――少し戸惑っているようだな』



睦貴は自身の混乱を見事に言い当てられ、かえってさらに戸惑った。


「いえ、決してそのようなことは。ただ、少し驚いているのです。今までお姿を拝した神々とは、どこか気配が異なりますので…」


言葉にしながら、睦貴は確信していた。

この漆黒の瞳を持つ女神こそ速佐須良姫命。

そして現世へと引き戻してくれたこの男神こそ、気吹戸主命であると。


睦貴の率直な答えに、気吹戸主は穏やかに微笑んだ。



『日々、人々の祈りは我らに届く。そして我らは、その願いを聞き届けるため人の世へ赴く』



気吹戸主は静かに続けた。



『だが、気配は感じさせてはならない。よほど強き者でなければ、人は耐えられぬのだ。神の気配とは、本来それほどに強いもの。強すぎる力は、時として人に災いすらもたらしてしまう。禍事(まがごと)(はら)うために現れて、かえって害を与えては本末転倒だ』



睦貴は祓戸大神たちの慈愛に感服し、思わず一礼した。

顔を上げた時、さらにもう一柱増えていることに気づき、睦貴は困惑した。



『君は出雲の水狭(みなさ)のところの(わらべ)じゃないか。懐かしいな。すっかり大きく成長して、立派になったものだ』



優しい笑みを浮かべ、睦貴の前に現れたその女神は、躍動する水の気配をまとっていた。

しかし荒々しさはない。

だが、近づくだけで心の奥に溜まった濁りを見透かされるような、澄みきった気配がある。

衣は淡く、白にも水色にも見える不思議な色合いで、揺れるたびに水面の光のようなきらめきを帯びる。

思わず頭を垂れたくなるほどの神聖さが、その御姿から自然と放たれていた。


まるで人の力では抗えない、大きな渦潮を前にした時のような、澄み切った畏れを睦貴は胸の奥に覚えた。

この女神こそ、速秋津姫命であろう――睦貴はそう思った。



「私を、御存じなのですか」


睦貴の実家である水狭神社の名を挙げられ、嬉しさと驚きの混じった感情が胸を満たした。



『知っているも何も、君は毎日のように我らを呼んでいたではないか。君の願いに応えようと、我らも力の限りを尽くした。だが、すでに君の母は、幽世(かくりよ)へ旅立つ定めにあったようだ』



睦貴の脳裏に、幼い日の情景が鮮やかによみがえった。

母が重篤な病に犯されていると知った時の嘆き。

毎日、母を連れて拝殿で「祓詞(はらえことば)」を奏上し、その病を祓ってもらおうとしていたこと。

母が歩ける最後の日まで、少年の睦貴は拝殿で祓戸大神たちに祈りを捧げていた。


結果、母は幽世へ旅立ち、睦貴は神に背を向けた。

しかし、大神たちは力の限り、願いに応えようとしてくれていた。


胸の奥に、当時の感情が静かによみがえる。

そして大神たちの尽力への感謝が込み上げ、睦貴はそっと涙を拭った。



『そなたの望みはわかっている。我らの力を求めているのだろう。そなたの願いに応えよう。童の時と同じようにな』



気吹戸主は慈愛に満ちた眼差しで、静かに睦貴を見据えた。

睦貴は勾玉を取り出し、祓戸大神たちの前へ両手で恭しく捧げた。



『我らが人の前に姿を現すのは、いつぶりであったかのう。たしか人は――元寇と呼んでいたな』



懐かしむように、速秋津姫がどこか無邪気な調子で語る。



『それは違う。我らが赴く前に、すでに級長津彦(しなつひこ)が片付けてしまっていた』



気吹戸主が、すぐさま静かに言葉を差し挟んだ。

速秋津姫はへそを曲げてしまったのか、頬を膨らませた。



『おお、そうであったな。後の世で神風などと呼ばれておった。なんと小癪なことよ。我らが出向いておれば、あの程度のもの、跡形もなく消えておったものを』



睦貴は、神々の会話をただ呆然と聞いていた。

遠い歴史の出来事が、まるで昨日のことのように語られている。


速佐須良姫だけは、何も語らない代わりにずっと睦貴を凝視していた。

漆黒の瞳は深く静まり、そこからは一切の感情を読み取ることができない。

時折、顔が触れるほどの距離にまで近づいて、睦貴を大いに困惑させた。


やがて気吹戸主が一歩前へ出る。



『さあ。我らの力を、しっかりと受け取るがよい』



静かな声が空間に響く。

気吹戸主が静かに手をかざすと、睦貴の身体を一陣の風が吹き抜けた。



風と言うには、あまりにも強烈だった。

まるで、大型トラックに衝突されたかのような衝撃が襲う。

睦貴は姿勢を保つことができず、思わず数歩後ずさる。


直後、凄まじい神威が睦貴を包み込んだ。

意識とは無関係に両膝が崩れ、身体が地へと引き伏せられそうになる。


「(これが…祓戸四神の神威か…!)」


跪いた睦貴の周囲を、疾風と激しい水流が渦を巻くように旋回する。

風と水は目で追えぬ速さで巡り続け、やがてその奔流は、睦貴が捧げた勾玉へと吸い込まれていった。

すべての神威が勾玉へ注ぎ込まれた瞬間、睦貴を押し潰していた圧が消え、静寂が戻った。



気吹戸主が、穏やかな声で告げる。



『よく、我らの気配に耐えたな』



祓戸四神の重厚な神威を受け、いまだ睦貴は茫然としていた。

地面に折れた膝は、しばらく動きそうになかった。



『それにしても数奇な定めよのう。国津神よりこの地を天津神が譲り受け、そして時を経て――国津神の器に、天津神が収まるとは』



速秋津姫は、どこか愉快そうに笑った。



『我らの力は、そなたらの祈りに応えよう。そなたらの祈りが満ちれば、力もまた満ちる』



気吹戸主はそこまで語ると、ふと視線を空へと向けた。

まるで遥か遠い何かに思いを巡らせるように、しばし静寂が落ちる。


やがて静かに睦貴へと視線を戻すと、再び口を開いた。



『そなたらは、ただ祈るだけでよい。祓うは我らの務めだ』



気吹戸主の言葉には、念を押すような響きがこもっていた。


その神意を完全には掴めぬまま、睦貴は深く頭を垂れる。



そして、ゆっくりと顔を上げた。

だがその時には、すでに祓戸大神たちの姿は消えていた。


ただ静かに、社殿の荘厳な気配だけが残っている。


睦貴はなおも跪いたまま、改めて深く平伏した。




駐車場に戻った睦貴は、瀬田川の流れをふたたび見つめた。


岩肌に立つ瀬織津姫が、慈愛に満ちた眼差しで静かにこちらを見送っている。

その姿は、次の瞬間にはもう川霧の中へ溶けていた。




睦貴は、ただ静かに川面を見つめ続けた。


佐久那太理(さくなだり)に落ち多岐たぎ速川(はやかわ)の瀬を――


作中に登場する祓戸四神の神名は、『大祓詞』に見える表記とは少し異なっています。

本作では、近江国・佐久奈度神社に伝わる主祭神の表記をもとに記しました。

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