序章
高天原に神留坐す
皇が親神漏岐 神漏美命以ちて
八百萬の神等を神集へに集賜ひ 神議りに議賜ひて
我が皇御孫命は 豊葦原水穗國を
安國と平けく知食せと 事依奉き
此く依奉し國中に 荒振神等をば
神問はしに問賜ひ 神掃ひに掃賜ひて
語問ひし磐根樹根立草の片葉をも語止めて――
「早い話、日本国の主権を我らに譲っていただきたい――それが要求です」
首相官邸を訪れた男は、世間話でもするような調子で言った。
内閣総理大臣である須賀 猛は、この男をここへ通した判断をすでに悔やんでいた。
「悪い話ではないでしょう。我が聖府の統治下に入れば、日本国民は富と栄華を約束され、外敵に怯えることもない。永く平和を享受できるのです」
「通ると思っているのか、その要求が」
低く押し出す声。
猛の視線は刃のように鋭く、常人ならその眼光だけで息を呑むだろう。
だが男は、微動だにせず笑みを崩さない。
「非公式訪問を装って単身官邸に乗り込み、主権譲渡を迫るとはな。大胆不敵というべきか」
「お褒めにあずかり光栄です。そのために、相応の労力は費やしましたが」
男の漆黒の瞳がまっすぐ猛を見つめる。
記録装置の冷たいレンズに覗かれているような、逃げ場のない視線だった。
不快な感覚が肌にまとわりついた。
「我が聖府と日本国の間に、圧倒的な差があることはご理解いただけているはずです。物資も、軍事力も、そしてそれを支える技術力も。我らの神がもたらした恩恵であり、その恩恵はこれからもさらに進化を続けるでしょう。ともに神の庇護を受けることに、なんの疑問がありましょうか」
猛は拳を軽く握り、短く息を吐いた。
「貴国では、人を家畜同然に扱う者を神と呼ぶ…いや、呼ばされているのであろうな。申し訳ないが、我々の知る神々とは、どうやら大きく異なるようだ」
言葉には怒気が含まれ、しかし冷静さを失わない。
対する男はわずかに肩をすくめ、相変わらず笑みを崩さなかった。
「私も日本国の神々のことはよく存じ上げております。日本神話――美しく、壮大な物語。しかし、それは単なるお伽噺に過ぎません。直接的に人々に恩恵を与える神が、今まさに目の前にいるではありませんか」
その言葉に、猛は半ば呆れ、眉をひそめる。
だが、確かに目の前の男は、神の分身とも呼べる存在感を纏っていた。
「神とは、そのようなものではない。神は日本人の心に根付き、行動の指針となる。日本人が日本人らしく生きるための道しるべ。神とは、日本人そのものを形作る存在だ。神の御力とは、そういうものなのだ」
「神の力ですか…」
男は微笑を消し、漆黒の瞳は変わらず猛をじっと見つめた。
「神の力とは――」
機械仕掛けの人形のような、生気のない無表情のまま、男は言い放つ。
「――使役するものである」
その一言は、応接室の空気を瞬時に凍らせた。
猛は拳をゆるめ、唇を強く噛む。
視線の先には、圧倒的な力が、微動だにせず座していた。
微笑みを戻した男は、再び軽い口調で告げる。
「日本海に浮かぶ施設が音もなく崩れた。我が聖府からのご挨拶と受け取っていただければと思います」
「宣戦布告と受け取らざるを得ん」
男がゆっくりと椅子から立ち上がる。
その所作に、一切の無駄はなかった。
「今日はあくまで非公式です。私と総理の二人だけしかこの場にはおらず、記録にも残りません。いずれ、公式の場で総理に『お願い』に上がることになるでしょう」
男が去ったあと、猛は窓際に立ち、官邸前を行き交う人々を見つめていた。
もはや、この国に残された時間はわずかだった。
猛はゆっくりと受話器を手に取り、内線に指を伸ばす。
「調査室を、すぐに呼べ」
短く吐き出した言葉に、わずかだが一縷の望みが込められていた。




