80.炸裂
「……貴様らは、どこまで持つ」
その声が落ちた瞬間だった。
レオンハルトが動いた。
盾が前に出る。視界を遮る。
その影から、剣が走った。
首筋へ。全力の一閃。
同時に、風が裂けた。
フィオラが消える。
瞬足。
魔人の死角へ回り込み、黒く輝く剣が心臓を狙う。
当たった。
確かに、当たった。
だが。
刃が、止まった。
皮膚に届く寸前で、見えない壁にぶつかったように。
食い込まない。
進まない。
レオンハルトの剣も同じだ。
首筋に触れているのに、斬れない。
魔人が、ゆっくりと笑った。
「ほう」
首に刃を当てられたまま、欠片も動じていない。
「……それが全力か」
魔人の手が、ゆっくりと上がった。
何かを掴むような仕草。
空を、握る。
次の瞬間。
世界が、止まった。
レオンハルトが凍りついた。
剣を振り抜こうとした姿勢のまま、石像のように固まる。
盾を構えた腕も、踏み込んだ足も、指一本動かない。
フィオラも同じだ。
魔人の脇に滑り込んだ姿勢のまま、黒剣を突き込んだ格好で縫い止められる。
倒れもしない。
踏ん張りもしない。
ただ、今この瞬間の姿勢で、空間に縫い付けられた。
「……っ!」
レオンハルトの喉から、掠れた音が漏れる。
声にならない。
呼吸だけが、細く、苦しそうに漏れている。
フィオラの琥珀色の瞳が揺れた。
恐怖ではない。
驚愕だ。
こんなことがあり得るのかという、純粋な驚き。
だが身体は、微動だにしない。
「団長! 姐さん!」
ジャックが叫んだ。
両手を突き出す。
「吹っ飛べ! トルネード!」
風が巻き起こった。
渦が膨れ上がり、魔人へ向かって突進する。
だが。
届かない。
渦が魔人の手前で、形を保ったまま静止した。
回転している。
確かに回転している。
なのに、一寸も進めない。
空間そのものに貼り付けられたように、その場で空回りを続け、やがて霧散した。
魔人が、つまらなさそうに呟いた。
「無駄だ」
手が、再び空を掴む。
ジャックの身体が、固まった。
半歩踏み出した姿勢のまま。
腕を突き出したまま。
顔を歪めたまま。
倒れることすら許されない。
立ったまま、世界に固定された。
「……がっ……!」
声が、途中で途切れた。
残ったのは、サラだけだった。
サラが杖を握り直す。
指が震えている。
さっき聖域を指一本で砕かれた光景が、頭にこびりついている。
何をすればいい。
何ができる。
迷いが、ほんの一瞬の遅れになった。
魔人の腕が伸びた。
サラの首根っこを掴む。
軽々と、羽根でも摘むように持ち上げた。
「っ……!」
サラの足が宙に浮いた。
小さな身体が、ぶら下がる。
「や……やめ……っ!」
声が震える。
両手で魔人の腕を掴むが、びくともしない。
魔人はサラの顔を覗き込んだ。
「何の芸も持たぬか」
淡々とした声。
品定めするような目。
サラの目に涙が滲んだ。
悔しさと、恐怖と、無力感で、喉が震える。
「ならば――死ね」
魔人の指先に、黒い点が生まれた。
小さな、小さな点。
空間が、嫌な形に歪む。
サラが目を閉じた。
涙が頬を伝う。
「やめろ」
ドスッッ!
俺の拳が、魔人の腹に突き刺さった。
渾身のボディブロー。
魔人の身体が、沈む。
指先の黒い点が、掻き消えた。
サラを掴んでいた手が緩み、小さな身体が地面に落ちる。
「げほっ……!」
サラが咳き込みながら、地面に膝をついた。
同時に。
俺の拳が魔人の腹に突き刺さった瞬間。
世界が、明るくなっていった。
紫がかった闇が薄れていく。
重くまとわりついていた空気が、すっと引いていく。
瘴気が――晴れた。
頭上を見上げる。
さっきまで紫黒に染まっていた空が、青く澄み渡っている。
雲が流れている。
太陽の光が、荒野を照らしていた。
気持ちのいい空気が、肺の奥まで入ってくる。
先程まで三人を縫い止めていた力が、消えていた。
「……何が……」
フィオラが目を見開いている。
「身体が、動く……」
ジャックが自分の手を見つめ、呆然と呟いた。
「……っ」
サラが喉を鳴らした。
レオンハルトも、フィオラも、ジャックも、一瞬だけ周囲を見回す。
さっきまでここは地獄だったのに。
今はただの荒野だ。
骨の玉座だけが、場違いに白く残っている。
魔人が、初めて俺を見た。
眉が僅かに動く。
あの無感情な目に、初めて別の色が浮かんだ。
困惑だ。
「……貴様」
低い声。
「何をした」
俺は拳を握り直した。
「わかんねえのか」
一歩、踏み込む。
「ぶん殴ったんだよ」
魔人が後退した。
距離を取ろうとしている。
初めて見せた動き。
手を広げ、詠唱を始める。
「――黒き虚無よ、我が……」
何も起きない。
黒い点が生まれない。
瘴気が集まらない。
魔人の目が見開かれた。
「ばかな……!」
声が震えている。
「我の魔法が……何故……!」
「何者だ、貴様!」
俺は構えた。
「うるせぇ」
踏み込む。
「質問に答えてやる義理はねえんだよ」
右ストレートを、顔面に叩き込んだ。
ゴッ、という音。
魔人の頭が、大きく後ろに跳ねた。
「今だ!」
レオンハルトの声が響いた。
銀の剣が閃く。
首筋を狙う。
さっきは届かなかった刃。
見えない壁に阻まれた刃。
今度は、違った。
刃が、肌に触れた。
そして――沈んだ。
肉を裂く感触。
骨を断つ手応え。
フィオラの黒剣が追撃する。
反対側から、首を刻む。
鮮血が飛んだ。
黒い血だった。
人間の血とは違う、どろりとした黒い液体。
魔人の目が見開かれたまま、固まった。
何が起きたのか、理解できていない顔だった。
そして。
魔人の首が、胴から離れた。
ゆっくりと。
落ちていく。
地面に転がり、虚ろな目がこちらを見上げている。
首を失った身体が、膝から崩れ落ちた。
骨の玉座の前に、倒れ伏す。
風の音もない。
虫の声もない。
ただ、六人分の荒い呼吸だけが響いていた。




