閑話 託された夢
北川牧場の隅には、小さな石碑が作られている。
その石碑に刻まれているのは『北川牧場歴代馬慰霊碑』の文字。デビュー出来た馬、デビュー出来なかった馬、死産で生まれた馬、出産後儚く息を引き取った馬。
この北川牧場で生まれた全ての馬達の、北川牧場にやって来たすべての馬達の慰霊碑である。
勿論、遺骨の無い馬も多数いる。石碑に馬の名前が刻まれたりしている訳でもない。ただ、小さな石碑が置かれているだけ。そんな石碑の横に、今年初めて新たな石碑が置かれることになった。
「態々置く必要があったのかしら? 今までと同じで良かったのかも、そんな気もするわ」
「そうだなあ。それでも、サクラハキレイの名前を何処かに残したかったんだよ。お母さんだってそうだろ?」
恵美子は夫の峰尾の横の立ち、新たに設置された石碑を眺めながら何とも複雑な表情を浮かべる。
その石碑には一頭の馬の名前が刻まれていた。
『サクラハキレイ 生年20※※年 没年20※※年 生涯成績23戦6勝 主な勝鞍 第※※回 中山牝馬ステークス』
刻まれている文字は少なくシンプルである。
本来であれば、サクラハキレイを名繁殖牝馬たらしめた産駒実績を刻むべきなのかもしれない。この文字だけではミナミベレディーやサクラヒヨリの母馬と気が付かない者もいるだろう。
それであっても、恵美子は作るならこのシンプルな碑で良いと思った。
恵美子にとってのサクラハキレイは、決してミナミベレディーやサクラヒヨリの母馬では無く北川牧場の一番厳しい時期を支え、未来へと繋げてくれた偉大な馬なのだ。
毎年、元旦の朝には必ず夫婦揃ってこの石碑にお参りしている。
今まで北川牧場を支えてくれた馬達への感謝と謝罪を込めて、もし天国があるなら次こそはのんびりと暮らせることを、暮らしている事を願って祈りをささげる。
「数年前までは、どうか今年生まれた仔馬が走りますように。今年デビューする子が無事に競走馬になれますようにって、色々とお願いしてきちゃったわね」
「俺は今もそうだぞ? 仔馬が無事に生まれますようにとかもあるなあ。生まれた後に、無事に育つようにや無事に売れますようにも頼むな」
人の手で出来る事は多くあり、日々少しでも良くなるように頑張ってはいる。それであっても人間には何とも出来ない事だって多いのだ。それ故に、この石碑には今までも多くの祈りが捧げられてきた。
「キレイはあっちでのんびりしているかしら? あの子はちょっと神経質な子だったから、まだ落ち着かない様子でウロウロしてないかしら?」
10月に突然旅立ってしまったサクラハキレイ。馬齢31歳は大往生と言っても良いだろう。
それでも、恵美子は胸の中にぽっかりと開いた穴が、今も塞がる事は無い。
「本当に、本当に頑張ってくれたわよね。キレイ、本当にありがとうね。ゆっくりしてね」
石碑に薄っすらと積もった雪を払いながら、恵美子は静かに語りかける。
峰尾は、そんな恵美子の横で慰霊碑の雪を同じように払っていく。
「あとでお神酒とリンゴもお供えに来るわね」
「さて、戻ろうか。これから一仕事だ」
「そうねえ。これだけは牧場に嫁いで失敗したわね」
「その、なんだ。俺は牛達の厩舎に向かうから、馬は頼む」
小さく笑いながらそう告げる恵美子に、峰尾は顔を引きつらせる。毎年行われる言葉のやり取りではあるが、峰尾は毎年同じような挙動をするのだ。
「あら、搾乳しないとですし、私も牛舎へ向かいますよ? 馬房は桜花が行ってますから任せて大丈夫」
◆◆◆
年末年始で帰省している桜花は、当たり前だが労働力として駆り出されている。
牧場にとって、年末年始の休みなどあって無きがごとし。元旦であろうとも朝早くから起きだして牛や馬の世話をしなければならない。
「はあ、元旦ってなんなんだろうなあ? 馬の年が一歳増えるだけとしか思えないなあ」
桜花は白い息を吐きながら馬房の掃除を行っていた。
馬は急激な気温の変化でなければマイナス10℃ぐらいまでであれば問題なく過ごす事が出来る。その為、極寒の場所で無ければ冬であっても昼夜放牧を行う事すらある。
しかし、北川牧場においては極寒期における昼夜放牧は行っていない。その為、今日も朝早くから馬を放牧し、現在は馬房の掃除を始めた所だった。
桜花は大学を卒業し、今現在は大手乳業会社へと就職している。若干希望とは違う仕事内容になってしまったのだが、それでも会社が契約している牧場へ毎日の様に訪問していた。そして、実家との違いをつぶさに観察し、少しでも実になるものは無いかと学ぶ日々だったりする。
「ブフフフン」(外寒いの~)
桜花が馬房の掃除を終わらせ放牧場へと顔を出すと、ミナミベレディーが仔馬と共に真っ先に近づいてくる。馬体から薄っすらと湯気が立っている事から、放牧されて早々に仔馬と共に歩き回ったのだろう。
「トッコ、汗はかいてないよね? 風邪ひかないでよ」
冬場の馬は冬毛が生えて寒さに対し備えます。
勿論、人間側でも冬着を着せたりして寒さ対策をしますが、ここで下手に汗を搔き易くしてしまうと人間と同じくお腹を壊したりして疝痛を起こすんです。お馬さんにとってこの疝痛って最悪命に係わる事もあるんです。
トッコは元々運動が好きなので汗を搔き易いんです。その為、私は毎朝一番にトッコの状態を確認するのが日課となっています。
「うん、大丈夫そうかな? でも、無理しちゃだめだよ?」
「ブルルルン」(タオルで拭かれるの好き~)
乾いたバスタオルでトッコの全身を拭いてあげます。トッコは綺麗好きなので、嫌がらずにジッとしてくれるので楽なんですよね。
トッコの周りでは昨年生まれた仔馬が、私達の様子を伺いながらちょこちょこ歩いています。
他の馬と同様に乳離れをさせても良いのですが、トッコの乳離れが遅かった仔馬程スムーズにデビュー出来る事から、自然とトッコの出産間際の3月まで一緒に過ごす様になってしまっていました。
「ヒメミももう1歳だね」
「ブフフフン」(お正月来たの?)
視線の先にいるヒメミを見てその成長を実感していると、トッコが私の方を見た。鼻先を撫でながら首筋を撫でてあげていると、更に嘶いた。
「ブルルルン」(お雑煮食べたいですよ?)
耳をピコピコさせ、私に鼻先を擦り付ける動作から、どうやら何か食べ物をよこせと言っているのを察した。
「あとでリンゴを持ってきてあげるからね」
「ブフフフフン」(温かいお雑煮が食べたいですよ?)
私の言葉に返事を返すトッコを宥めていると、今度はヒメミが嘶いた。
「キュヒヒヒン」
「ん? ヒメミも奇麗にして欲しいのかな? もうちょっと待ってね」
ヒメミにそう言葉を掛けて、トッコの馬体を急いで拭き終える。そして、今度は近くに寄って来たヒメミの馬体をタオルで丁寧に拭きはじめる。
トッコの仔馬達は母馬に似たのか皆人懐っこい。今も私の手が空いたのを察して自分から撫でて貰おうと近づいて来てくれる。
「ヒメミは可愛いねぇ」
「ブフフフン!」(私の子供だから可愛いですよ!)
「キュルルン」
ヒメミを褒めるとすかさずトッコが反応する。そんなトッコに反応してかヒメミも同様に嘶くのが何とも楽しいし、嬉しくなる。
「ヒメミのお姉ちゃんは頑張ってるからね。こないだの2歳GⅠもあとちょっとで勝てそうだったんだよ? ヒメミも頑張ろうね」
ヒメミはトッコが産んだ3頭目の牝馬。姉である初駒のヒメがデビュー早々中々に良い活躍をしてくれている為、私はヒメミにも同様に期待をしてしまう。
「ブルルルン ブフフフフン」(勝てなかったのよね? それなら春の桜花賞出せばよいよ?)
「ん? トッコどうしたの?」
ヒメミに話しかけていると、トッコが何やら反応した。その為、鼻先を撫でながらトッコを見るけど何で嘶いたのか良く解らない。
う~ん、トッコだしなあ。
相変わらずのんびり屋のトッコだけど、トッコのお陰か最近の北川牧場産駒は成長が早いと言われている。夏から秋にかけてトッコは仔馬達を只管走らせる。それ程早く走る訳でもなく、仔馬達の状態を見ながらゆったりとではあるけれど走らせてくれる。
「間違いなく幼駒の運動量ならどの牧場よりも上だろうなあ」
「キュフン」
まるで私の言葉に返事をしたかのように嘶くヒメミに嬉しくなって私は首に抱き着く。
「ヒメミも頑張るんだよ」
「キュフフフン」
のんびり具合では母馬に引けを取らないくらいにのんびりしているヒメミだ。トッコと一緒に放牧地でのんびりとしている姿をよく見る。また、これは遺伝なのか、それとも教育なのか、ピョンピョンダンスも姉妹の中で一番軽やかな気がする。
私達のやり取りが気にならない訳では無いのだろう。耳をピコピコさせながら雪に埋まった草を掘っているトッコを見ながら、私は何となくヒメミは活躍してくれる予感を感じるのだった。
あけまして、おめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。m(_ _)m
皆様の一年がより幸せな一年であるようにお祈りいたします。
トッコ:「ブフフフフフン」(のんびりした年になるといいなあ)
ヒヨリ:「キュフフン」




