第1話 私の幸せな結婚……の、はずでした
「大人になんてなりたくないよ。一緒にネバーランドに行こうよ」
舞台の上でピーター・パンが歌い、踊る。
私は最前列の席で、その演技に釘付けになっていた。
舞台の最後、ピーター・パンはフック船長に戦いを挑む。
そして、ネバーランドの平和を取り戻し、物語は大団円へ――。
「……いいものを見た……」
私は劇場をあとにしながら、ひとり感動に浸っていた。
推し活仲間といえる友人はいないから、ひとりで観劇に来た。
でも、単独行動できる強みもある。
今回みたいに、最前列の席を運良く取れたとしても、もし仲間がいたら一緒に座るのは難しいから。
――それにしても、やはり推しはいい。
心の栄養とはよく言ったものだ。
明日からまた仕事を頑張る活力をもらった気分になる。
働く。
推しに貢ぐ。
推しから元気をもらう。
そして、また働く。
オタクの永久機関、ここに極まれり。
私は帰りのバスの中で、買ったグッズの袋を漁った。
蒼生くんのアクスタ、商品なんだから当たり前なんだけど、写真写りがいい。
しばらくぽーっと眺めていた。
グッズをしまうと、窓の外を見ながら、今日の舞台を思い出す。
口がにやけているのが分かる。マスクしててよかった。
私にとって幸せとは、仕事をして、推しを応援して、静かに暮らすことだった。
でも、この幸せが壊れることを、私はまだ知らなかった。
夢のような時間というのは醒めてしまうもので……。
翌朝にはまた出勤である。
私はくたくたになるまで働いた。
退勤後、夕飯を求めるために行きつけのパン屋さんに向かう。
「あ、春乃さん。いらっしゃい」
すっかり常連になった私に、店主の正嗣さんが微笑みかけた。
パンの粉がついたエプロン姿の彼を、好ましいと感じている。
「これ、よかったら試しに食べてみてほしいな」
夕飯と翌朝のためのパンに、正嗣さんがさらにパンをつけてくれた。
「え、そんな、悪いですよ」
「いいのいいの。新作、春乃さんに食べてほしくて作ったんだ」
メロン味のメロンパン。
社交辞令でも嬉しい。
「今度、もっとパン買いますね……」
「気にしなくていいのに。あ、それじゃ、ちょっとお願い事しちゃおうかな」
正嗣さんは優しい微笑みを浮かべている。
「……今度、一緒に出かけたいな、なんて」
「え……」
「イヤかな?」
全然イヤじゃなかった。
快諾して、スキップでもしそうな気分のまま、家に帰った。
最近、いいことが多いな。
仕事でも褒められること多いし。
蒼生大明神様のおかげかもしれない。
祭壇にメロンパンお供えしてから食べよう。
そんな経緯で、正嗣さんとのお付き合いが始まった。
彼と交際しているうちに、わかってきたことがある。
若い頃に結婚していたけど、奥さんを事故で亡くしていること。
彼には、ひとり息子がいること。
その息子さんは、成人してて、仕事が忙しくてなかなか帰ってこないこと。
親子仲は良好らしい。
正嗣さんが息子さんの話をしているとき、声が少し柔らかくなる。
きっと温かい家庭なんだろうなと思った。
そして、交際が始まって半年ほど経った頃。
「君が無理しない場所を、一緒に作りたい。春乃さん、僕と結婚してください」
差し出された指輪。
キラリと輝く、小粒のダイヤモンド。
交際前からお互いの素性を知っていた私たちに、断る選択肢なんてない。
私は、この幸せがずっと続くと思っていた。
こうして結婚が決まり、結婚式前に正嗣さんのご家族――息子さんと、初顔合わせすることになった。
「急に私がお母さんなんて、嫌がられないのかな……」
不安でいっぱいだった。
でも「いやいや正嗣さんの息子さんだし、私を悪いようにはしないだろう」と気を取り直す。
正嗣さんの家のダイニング。
これから、私はパンの香りが漂うここで、一緒に生活することになる。
「春乃さん、おまたせ」
正嗣さんがエプロンを外しながら席についた。
あとから遅れて居間に入ってきた息子さん。
その姿を見て、私は「えっ?」と呆気にとられる。
「はじめまして」
ペコリと頭を下げる息子さん。
私も慌ててお辞儀をした。
バクバクと心臓が高鳴っているのを感じる。
まさか。そんなわけがない。
内心の混乱を誤魔化すように、私はわざと声のトーンを上げた。
「いや~、びっくりしましたよ~。なんかテレビで見る俳優さんにそっくりですね!」
「その俳優、俺です」
「えっ。……えっ?」
「蒼生と申します。よろしくお願いしますね……母さん?」
舞台で歌い踊っていたピーター・パンが、目の前で笑っていた。
――まずい。
私は口の中がカラカラに乾いてくる。
そこへ、ピンポーンとチャイムが鳴った。
「あっ、ごめんね。来客だ」
正嗣さんが対応のために席を立つ。
頼むから、今この人とふたりきりにしないでほしい。
そんな思いもむなしく、蒼生くんと取り残された。
ガチガチになった私に、彼がふっと笑う。
「まさか、こんなところで推しに会えるなんて思わなかったでしょ?」
そっと席を立った彼が、私に近づいた。
耳元に唇を寄せ、低い声で囁く。
「1ヶ月前のイベント、来てくれてましたよね」
ひゅっと息を呑んだ。
そう、正嗣さんと交際している間も、私は推し活を続けていたのだ。
推しが、自分の息子になるなどと知らないまま――!
「ごめんなさい! 気にしないでください!」
「でも、感極まって泣いてるの、見ましたよ。本当に俺のこと、好きですよね」
「ヒエッ……あの、正嗣さんには、このこと……!」
「言いませんよ」
蒼生くんは私から少し離れた。
小麦粉やバターの甘い香りと、彼の香水が混じる。
脳内がかき乱されるようだ。
蒼生くんは愉快そうに笑っていた。
「やっとお近づきになれたのに、せっかくのチャンスをふいにするほど、馬鹿じゃないですし」
……ん?
彼の言い草に疑問符を浮かべた。
しかし、問い返す前に正嗣さんが戻って来る。
「蒼生、春乃さんとは少し話したか?」
「うん。俺、この人とは仲良くやれそう」
「そうか、よかった」
正嗣さんがホッとしたようにため息をついた。
それを見て、生きた心地がしない。
「母さん、これからよろしく」
「あっはい」
蒼生くんが手を差し出す。
私は反射で握手してしまった。
彼は親指の腹で私の手の甲を撫でる。
なかなか手を離してくれなかった。
〈続く〉




