自分で手に入れればいい
警察での事情聴取がひと通り終わったあと、杏奈は一人、ライフクリエイトの事務所へ戻ってきた。
誰も出迎える者はいない。
久しぶりに自分の手で照明をつけると、小綺麗なオフィスの白い床と壁が一斉に明るく照らされた。けれど、いつもなら人と金が絶えず動いていたその場所は、妙に虚ろに見えた。
のぞみの席も、社員二人の席も空っぽだった。
「……静か」
ぽつりと落としたひと粒の言葉が、誰もいない事務所へ吸い込まれていく。
杏奈は昔から静寂が嫌いだった。
ただ今は、それを嫌がっている暇もないほど頭の中が忙しい。
やらなければならないことは山ほどある。のぞみはもういない。動画スタッフに任せられるような仕事でもない。
池袋からの撤退。
それを速やかに片付けなければならなかった。
――もう、ここでは商売にならない。
杏奈の顧客には、金だけではなく名誉も社会的な立場も持つ富裕層が多い。そういう人間ほど、自分の名前が表に出ることを嫌う。
ライフクリエイトへ警察が入ったことが広まれば、ここへ手を出す顧客は少なくなるだろう。
しばらくほとぼりを冷ますには、一時撤退してすべてをリセットするしかない。
顧客リストを眺めながら、杏奈はため息をついた。
しばらく潜る。場所を変える。名前を変える。場合によっては、代わりの代表を立てる。
――今度は上手く手綱を握る。
もう、あたしは『売られる側』には戻らない。
子役だった少女時代。
あたしの顔も、体も、愛想も、涙も、すべてが『商品』だった。
だから、そこから夜の世界へ逃げた。
そして、あたしは学んだ。
『商品』として扱われるなら、その『価値』は自分で決める。
男が何を欲しがるのか。女の子たちが何を欲しがるのか。誰と誰を繋げれば金になるのか。
それを日々の中で学んでいった。
そして気づけば、今度は自分が女の子たちを商品棚に並べる側に立っていた。
杏奈は顧客名簿を一枚、また一枚とシュレッダーへ掛けていく。紙が細かく裁断されていく音だけが、静かな事務所に響いた。
その音を聞きながら、杏奈の口元に自嘲するような含み笑いが浮かぶ。
「ふっ……笑える」
ママから逃げたはずだった。
けれど結局のところ、『人間には価値がつく』という世界観からは逃げられていない。
あたしはあの時、のぞみに言った。
『ママはずっと「杏奈のため」って言って、あたしが何をしたいかなんて聞かなかった』
…………だけど。
あたしは?
女の子たちに『稼げるよ』と言った。男を紹介した。客が気に入る服や振る舞いを教えた。相手の転がし方を教えた。
それで女の子たちを動かし、自分も利益を得てきた。
あたしは、あの人と何が違うんだろう?
自分の利益のために、人間を動かす。
支配する。依存させる。操作する。誘惑する。
そうやって、ここまで生きてきた。
――今更、変わることなんてできない。
杏奈は、じっと自分の手を見る。
「……汚い」
今更、普通の女の子みたいに生きる?
昼職する? バイトでもする?
人を騙したり、利用したりせずに普通に生きる?
………ありえない。
それがなくなったら、あたしに残るのは何?
答える者はいない。
オフィスに流れるのは、耳が痛くなるほどの静寂だけだった。
そんなことを考えてしまうから、あたしはこいつが嫌い。
◇
その時だった。
表のドアが開く音がした。
杏奈は顔を上げる。
誰かにここにいることを教えただろうか。訝しく思いながら耳を澄ませていると、聞き覚えのある男二人の話し声が聞こえてきた。
「あっ、開いた。やっぱここにいるのかな」
「敵の残党が居るかもしれない。気をつけて進め、ソウシ」
「敵って誰だよ。残党ってなんだよ」
「ソウくん? レン?」
杏奈は手を止め、立ち上がって入口の方を見る。
ほどなくして姿を現したソウシは、杏奈を見つけるなり少しほっとしたような顔をした。
「あ、やっぱりここにいたんだ。すみません、勝手に入ってきちゃって」
「それはいいんだけど……どうしたの?」
「向こうも訪ねたが、留守のようだったものでな」
「そうじゃないだろ、レン」
レンの言葉を遮り、ソウシが一歩前へ出る。
「あの……あれっきりになっちゃってたんで、護衛のこととかどうするのか、ちゃんと話したほうが良いんじゃないかって思って……」
杏奈は鼻で笑った。
「ふっ、あんな事があったのに律儀だね」
「うわわ、ごめんなさい」
「いいよ。ソウくんはあーにゃんからまりなに推し変したんだにゃん?♡」
「からかわないでよ……」
ほんの一瞬だけ、以前の空気が戻った。
配信者の『あーにゃん』と、そのファンだったソウシ。
何も知らなかった頃なら、こんな軽口を交わすことに何の引っかかりもなかった。
けれどソウシの目が、杏奈の手にしている紙の束と、けたたましい音を立てて動くシュレッダーへ向く。
「会社……どうするの」
「一回畳む。ここじゃもう商売になんないし」
「辞める……わけじゃないんだ」
杏奈の目が細くなる。
「……何。辞めろって説教しに来た?」
「いや……俺、そんなこと言えるような立場じゃないよ」
ソウシは言葉を濁した。
杏奈のしてきたことを肯定することはできない。まして、その裏側でまりなが実際に危険な目に遭ったことまで知ってしまった。
けれど、自分が杏奈のこれからを決められるわけでもない。
ソウシから視線を外し、杏奈はシュレッダーへ吸い込まれていく紙を眺める。
「……ソウくんはもう、あーにゃんの生放送見てくれないよね」
不意に落とされた問いに、ソウシは息を詰まらせた。
痛いところを突かれたと思った。
あーにゃんのやっていたことには賛同できない。その裏側で行われていたことによって、まりなは危険な目に遭い、怖い思いをして泣いた。
すべてを知ってしまった今、以前とまったく同じ気持ちで『あーにゃん』を見ることはできない。
けれど。
浪人生活の中で配信を見たこと。あーにゃんの言葉に笑ったこと。励まされ、元気づけられたこと。
それまで嘘になるわけではない。
だからこそ、ここで優しい嘘をつくこともできなかった。
「……うん。今までと同じ気持ちでは難しいかな」
少しの沈黙。
杏奈は乾いた声で笑った。
「……そりゃそうだよね。あはは」
「……でも俺、あーにゃんにも幸せになってほしいんだ」
「……」
「色々あったけど、今まで励ましてもらったことは絶対嘘じゃないって思うから……」
杏奈は何も言わなかった。
ソウシは迷いながら、それでも自分の言葉で続ける。
「見なくなっても、離れても応援してます」
杏奈が俯く。
長い髪が頬へ落ち、その表情を隠した。
泣いているのか、笑っているのか、ソウシには分からない。
「同接減ったら意味ないんだよ。バカ……」
その声だけが、ほんの少し震えたような気がした。
少し離れたところに立つレンは、何も言わず杏奈を見ていた。
しばらくして、杏奈がふと顔を上げる。
「……レンは?」
急に話を振られたレンは、質問の意味がよく分からないといった顔をした。
「何だ」
「あたしが何してたか知っても、なんとも思わないわけ?」
レンの視線が、わずかに左右へ揺れる。
動揺しているのではない。嘘をつこうとしているわけでもない。ただ杏奈の問いに対する自分の考えを、頭の中でまとめようとしているようだった。
「思うことはある」
「……何?」
「俺ならそのやり方は選ばない」
杏奈は立ち上がると、レンの前まで歩み寄った。
そして片手を伸ばし、そっとその腕へ触れる。
「……軽蔑した?」
二人の間に流れ始めたただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、レンの後ろにいたソウシがたじろいだ。
「お、俺、下で待ってるから」
「ぷっ。なに? 別に居ていいよ」
「でも……」
「いいって言ってんの。ったく、これだから童貞は困るにゃん♡」
「あーにゃんの声で童貞とか言うのやめてよ!!」
思わず声を上げるソウシをよそに、レンは自分の腕へ添えられていた杏奈の手をそっと握り、静かに離した。
「……俺に軽蔑されるかどうかが、貴殿のあり様に何か関係あるのか」
「え?」
「他人がどう言おうと、どう生きるかは自分で決めることだ。俺はそれを決める立場にはない」
「あんたってさあ……」
杏奈はレンをじっと見つめる。
「本当は見てるくせに。……自分で決める? あたしがそんなに強くて立派な人間に見えるの?」
そして間髪入れずに続けた。
「あと、何度でも言うけどキデンじゃなくて杏奈!」
レンが腕から離したはずの手を、杏奈は離していなかった。
そのままレンの手を握り続ける。
「……ねぇ、ホントにあーにゃんの護衛は終わりなの? レン……」
最後のひと言だけが、それまでより小さく、かすれていた。
本当に尋ねたいのは、護衛契約の話だけではない。
もう、自分のそばにはいないのか。
けれど、それをそのまま口にすることはできなかった。
レンがゆっくり低く、口を開く
「………杏奈」
「うん」
名前を呼ばれた。
それだけで、杏奈の胸にわずかな期待が灯る。
「ストーカーの件も片付いた。もう必要ないだろう」
「……即答かよ!」
期待は一瞬で粉砕された。
「んんん………また必要になったら呼ぶから!!」
「必要ならな」
「むかつく……」
杏奈は自分から握り続けていたレンの手を、勢いよく振り払った。
そのまま、レンをまっすぐ見据える。
「レン、覚えといて」
「何だ」
「あたしは、あたしのやり方で欲しいものを手に入れるの。今までそうしてきたし、これからもそう」
レンの表情が、ふっと緩んだ。
「そうだ、それでいい」
「……」
「欲しいものがあるなら、自分で手に入れればいいだろう」
「……ほんっと、そういうとこ!」
なぜ怒られたのか、レンには分からなかった。
もちろん、杏奈が言う『欲しいもの』の中に自分自身が含まれていることにも気づいていない。
一方、その一部始終を見ていたソウシだけは、まだ『あーにゃん』への憧れを完全には振り切れないまま、目の前で繰り広げられる光景に目を回していた。
……こ、このふたりって……。




