ひとりの人間として
警察が到着するまで、もうそれほど時間はない。
その前に確認しておかなければならないことがある。一同は、レンが眠らせていた佐倉のぞみのもとへ向かった。
◇
床に倒れたのぞみの身体には、赤く光る魔法の鎖が幾重にも巻きついたままになっている。
レンはその前に屈むと、のぞみの額の上へ手を翳した。拘束は残したまま、睡眠魔法だけを解除する。
「うっ……うーん……」
やがて瞼がぴくりと動き、のぞみはゆっくりと目を開けた。
「……目が覚めた?」
聞き慣れた声に、ぼんやりとしていたのぞみの目が杏奈を捉える。その瞬間、顔に安堵が広がった。
「杏奈! 私を助けに来てくれたの? あのね、誤解なのよ! レンくんが急に私を……」
「……もういいから」
「……え?」
「……全部聞いたから。あんたがあたしをずっと陰で陥れてたこと……ソウくんを殴ろうとしたのも、見てたから」
杏奈の声は低く、静かだった。
怒鳴るわけでもない。責め立てるわけでもない。
だからこそ、その静けさが異様だった。
のぞみの表情が変わる。
「陥れる……? 違う! 違う違う違う!」
突然、金切り声が事務所に響き渡った。
それでも杏奈は何も言わない。ただ、目の前の女を見ている。
「どうして……杏奈……私たち、二人だけではじめた時からそうやってやってきたじゃない……」
床に座り込んだまま、のぞみはうなだれた。先ほどまでの甲高い声が嘘のように掠れていく。
「昔は何かあったら最初に私に電話してくれたよね? 泣くのだって私の前だけだった。でも会社が大きくなって、スタッフが増えて、杏奈は一人で何でもできるようになっちゃった……」
「……」
杏奈は、すぐには言葉を返せなかった。
何かあれば、のぞみに連絡していた。誰にも見せたくない弱いところも、彼女には見せた。泣いたことだって一度や二度ではない。
そこだけは嘘ではなかった。
「だから、また私が必要になる理由を作っただけよ……」
「……だからって」
杏奈の脳裏に、これまでの出来事が次々と蘇る。
怖くなって、のぞみに相談したこと。助けを求めたこと。そのたびに、のぞみは誰よりも近くにいてくれた。
――それすらも。
「だから荒らしコメントしたり、それプリントしてポストに投函したりしたわけ!?」
「だって、怖いときは私のところに来てくれたじゃない!!」
のぞみは、本気でそう言っていた。
杏奈を怖がらせる。杏奈が自分を頼る。そして、自分が杏奈を助ける。
そうすれば、また一番必要な存在になれる。
「高校生を扱うことだってそう。ずっと前から『打診』はあったじゃない? 会社を大きくしていくなら、市場拡大は必ず必要だって」
「のぞみ……ここはあたしの会社だよ。あたしがやるなって言ったことを、あんたは勝手に独断でやったわけ?」
「杏奈は変なとこ優しいから……それだけはダメってずっと言い張るから……だから私がやってあげたの! 結局こういう汚れ仕事は、私がやってあげないとダメなのよ!」
「……」
その「高校生」として扱われたまりなも、ユキも、ひかりも、この場にいる。
だが、のぞみは三人を見ることすらしなかった。
「会社が大きくなれば杏奈は喜ぶし、私が結果を出せば、また私を一番頼ってくれるでしょう?」
のぞみが、ニタリと笑った。
杏奈の意思に反していることは分かっている。
それでも、それが杏奈のためではないなどとは微塵も思っていない。
「……気持ち悪い」
口からこぼれたのは、それだけだった。
その言葉を発した途端、杏奈の足元がぐらついた。
長年、すぐそばにいた人間だった。信頼し、弱い部分まで見せてきた。苦しいときには助けてもらったと、ずっと思っていた。
その相手が、自分に必要とされるために自分を怖がらせ、自分の名前を使い、自分が明確に拒絶していたことまで陰で行っていた。
身体が揺れる。傾く。
「杏奈」
後ろにいたレンが、とっさにその身体を支えた。
その瞬間だった。
ジャラッ――。
赤く光る鎖が大きな音を立てた。
のぞみが突然、立ち上がろうとしたのだ。しかし身体を拘束する魔法の鎖が強く張り、それ以上杏奈へ近づくことはできない。
「杏奈に触らないでよ!!」
それまで杏奈だけに向けられていた視線が、初めてはっきりとレンを捉えた。
のぞみは身体に巻きついた鎖を引きちぎろうとするように激しく身をよじった。ギリギリと軋む音が響く。
「あんたが来てから杏奈はおかしくなったのよ!」
「……俺が?」
「そうよ。私に電話してこなくなった。泣かなくなった。何かあっても自分で決めるようになった。私に相談もしないで……!」
レンの眉がわずかに寄った。
「それのどこが悪い」
「悪いに決まってるでしょう!? 杏奈は私がいないとダメなの! 一番の味方である私が側にいて、こういう杏奈の側に置いちゃいけない人間を選定してあげなきゃ……!」
のぞみが喚くたびに、杏奈の表情から少しずつ感情が消えていった。
自分のため。
自分を守るため。
自分には、のぞみが必要だから。
その言葉を聞き続けるうちに、杏奈の中で、目の前にいる女とは別の誰かの姿が重なった。
「あんた……ママと同じじゃん」
のぞみの表情が凍りついた。
「何言ってるの? 私はあの人とは違うじゃない!! 私はずっと杏奈の味方だったじゃない!!」
「……同じだよ。ママはずっと『杏奈のため』って言って、私が何をしたいかなんて聞かなかった」
杏奈は、まっすぐにのぞみを見る。
「のぞみ、あんたも今ずーっと『杏奈のため』って言ってる」
それは、のぞみにとって何よりも認められない言葉だった。
杏奈が母親との関係でどれだけ苦しんできたか、のぞみは知っている。だからこそ、自分は違うと信じてきた。あの母親とは違う。自分だけが杏奈の味方なのだと。
「違う……私は……」
なおも何か言おうとするのぞみから、杏奈は視線を伏せた。
もう、その顔を見ることすら辛い。
それを察したレンが杏奈の腕を引き、自分の後ろへ隠すように前へ出る。
「貴様は……」
レンは床に座り込んだのぞみを見下ろした。
「杏奈が何に耐えてきたのか知っているのか」
「知ってるに決まってるでしょう!! 杏奈を一番よく知ってるのはあんたじゃない! 私!!」
「さっきからそればかり言うが……貴様が必要とされるために、杏奈が怯える必要があるというのか」
「……!」
「それを守るとは言わない」
気づけば、レンの隣にはソウシが立っていた。
これまでずっと「あーにゃん」を応援してきた。画面の向こうにいる彼女を見て、配信を楽しみにし、推してきた。
だからこそ、のぞみの言葉を聞きながら思うことがあった。
「応援するって、推すってそういうことじゃない」
のぞみがソウシを見る。
「好きな人が自分を必要としなくなったら、必要とされるように傷つけるなんて……それ、応援じゃない」
ソウシは、言葉を続けた。
「あなたは、あーにゃんが幸せになることより、自分を必要としてくれることのほうが大事だったんだ。だから、あーにゃんを一人の人間として見てなかった」
「ちがう……違うの、杏奈……」
のぞみはもうソウシを見ていなかった。
レンの陰に隠れるようにして顔を覆う杏奈を、必死に覗き込もうとする。
「杏奈……今、混乱してるんだよ……」
そのとき、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。
音は次第に大きくなり、確実にこちらへ近づいてくる。
「……警察だ」
ソウシが呟く。
それでも、のぞみは杏奈から目を離さない。
「大丈夫、警察が帰ったらまた話そう? 二人でちゃんと話せばわかるから」
杏奈の指が、レンの腕をぎゅっと掴んだ。
「もうイヤ……」
「杏奈?」
杏奈は顔を上げた。
「もうイヤ……あんたの顔なんて……二度と見たくない!!」
「……」
杏奈の呼吸が再び浅く、早くなっていく。
「杏奈」
異変に気づいたレンは杏奈の背中へ手を添えながら振り返り、ひかりを見る。
「ルシエラ。彼女を頼む」
ひかりは一瞬だけレンを見たが、何も問い返さなかった。すぐに駆け寄ると、杏奈の肩をそっと抱く。
「大丈夫。こちらへ」
杏奈をひかりへ預け、レンは再びのぞみへ向き直った。
外から、エレベーターの到着を知らせる音がする。
続いて聞こえてきたのは、廊下をこちらへ向かってくる数人分の靴音だった。
レンは静かに魔法を解いた。
のぞみの身体を拘束していた赤い鎖が淡く揺らめき、光の粒となって消えていく。続けて、現場に残っていた他の魔法による拘束も解除した。
ここから先は、この世界の者たちに任せる。
間もなく、ライフクリエイト事務所へ警察が到着した。




