10
とうとう婚約披露宴の始まりだ。
ディークリウドは三時間前に行われた即位式と婚約式の際の正装とは打って変わって、金糸の刺繍を襟や袖などにふんだんにあしらわれ、深紅のマントも羽織り、髪も両側に撫でつけていて華々しい。
普段以上に凛々しい姿にジルフィーネはさらに参った。
「間違えても堂々としていればいい」
「陛下。この場合は、お姿を褒めて差し上げてくださいませ」
「い、いいえ、いいです」
ジルフィーネはセシルをちらっと睨みつつ、両手を力一杯振ると、ディークリウドはくつと喉で笑って、左の肘を差し出した。
「では、行こうか」
賛美の言葉は要らないと言ったのは自分だが、言われないと自信が持てなくなって、気落ちしてしまう自分に、ジルフィーネは呆れた。
しかし、男の腕に手を添えて、賑やかな話し声が漏れる扉の前に立つと。
耳元に囁くように耳朶にキスされて、ジルフィーネの心臓は破裂せんばかりに大きく跳ねた。頭の先から爪の先まで真っ赤に染めて、周りに悟られないように身悶える。
「へ、陛下。こんな時に……」
「食いたい気にさせる貴女が悪い」
「陛下」
涙声で訴えても、ディークリウドは人の悪い笑顔を浮かべたままで楽しそうで、ジルフィーネはそれ以上文句が言えなかった。
それにしても言うに事欠いて、『食いたい』だなんて。
胸の内で文句を垂れながら、その意味を徐々に理解したジルフィーネは、またぞろ身悶えたくなった。
追い討ちを掛けるように、近衛兵によって扉が開かれると、ディークリウドはジルフィーネの手を外して、彼女の腕を抱き寄せた。
ホールがどよめいた。
独身だろう令嬢たちが卒倒せんばかりに驚愕し、それが冷めるときつと殺人的な視線をジルフィーネに向けてきた。
ジルフィーネは恐れ戦きながらも、自業自得だろうと胸の内で言い返していた。
最初からディークリウドに声を掛けていれば、彼が頑なに彼女たちを拒絶することはなかったのだから。
ジルフィーネは自由になった両手で、裾を上げながら、しっかりとディークリウドについて、雛壇の中央に進んだ。
「今宵は我らの婚約のために集まって貰い感謝する。飲んで踊って楽しむと良い」
ディークリウドが開会の宣言をする。
あまりに短い開会の言葉にジルフィーネが戸惑っていると、これが我ら流だと、ディークリウドに教えられた。見れば、自分以外驚く者は誰一人としていなかった。ということは、ディークリウドの言う『我ら』とは、先代とディークリウドを指した言葉だと察しがついた。
一度会っただけだが、ジルフィーネにもカルヴァンも長く宣誓するような性格ではではないように思えた。そうすると、ディークリウドは性格も父親譲りなのだろう。
ジルフィーネはもっとカルヴァンという人物と話がしたかったと強く思うようになった。
その内に秘めた思いを聞きたくなった。
それはいずれ、ディークリウドが負うことになるかもしれない孤独かもしれないと思えばこそだった。彼を独りにさせないために、自分がなにをすればいいのか。
雛壇を下りて、今度は自分たちの子息令嬢を紹介しに列を成している貴族たちを前にしても、腕に添えたままの手が不安にさせた。
令嬢たちのあからさまな言葉の攻撃はなかったが、相変わらずの失礼な視線に、ジルフィーネはにこりと笑みを返しながら、この場は譲らないと視線に込めた。
失敗してディークリウドに恥を掻かせたくないだとか、大勢の前で好いた男と見つめ合って踊ることに萎縮していた心も何処へやら。
一番大事にすべきことに気付いたジルフィーネからは、緊張の『き』の字さえ見えなかった。
「どういうスイッチが入ったんだろうな」
「え」
挨拶の列が消えて、ディークリウドにしげしげと見つめられるジルフィーネだった。
「先ほどまでの緊張感が消えた」
ジルフィーネは物の見事に見抜かれてたじろいだ。
「令嬢たちに睨まれて奮起したとか」
図星を指されて、ジルフィーネはぐうの音も出ないでいると、ディークリウドは驚いたように目を瞬いた。
「な、なんですか」
沈黙してしまったディークリウド不安になって、ジルフィーネはおずおずと問う。
「いいや」
ディークリウドは一人で満足した笑みを浮かべるのだった。
「飲み物でも貰うか?」
「はい」
はぐらかされたものの、ジルフィーネは突っ込む気になれなかった。聞かずとも、その笑顔が物語っていたから。
「軽い方がいいな」
聞いたようでいて、ディークリウドは使用人に種類を確かめることさえなく、二つのグラスを手ずから取った。その一つをジルフィーネに渡す。
「ありがとうございます」
半分程度を口にしてグラスを下ろすと、もういいのかとディークリウドが確かめて、自分の空いたグラスと共に、目敏く気付いてやって来た使用人に返す。
「では、行こうか」
「はい」
ダンスのために開けられたホールの中央に進むと、アリューシャやマハルディーンがパートナーを伴って、そして彼らの友人や親族に目配せをして、ジルフィーネの周囲に陣取った。
「ご一緒させてくださいませ、ジルフィーネさま」
ジルフィーネは気を遣われてしまったことに恐縮しながらも、周りを固めてくれた者たちの励ましの笑顔に胸がじんと暖かくなった。
「今宵は楽しもう」
「もう少し早く聞きたかったです」
楽しもうという発想にすら至らなかった自分をジルフィーネは嘆く。早く聞いていても、緊張が取れたかと言えば、否ではあったが。
「先ほどまでの貴女では無理だったのではないのか」
「相変わらず、意地悪ですわ」
「そうか?」
笑って言うあたり確信犯だ。
演奏が始まった。
途端に消え去っていたはずの緊張感が戻って来て、足が震えたが、ディークリウドに誘われるように足を踏み出してみれば、軽やかにステップを踏んで、また笑顔が戻った。
くるりと回って目が合えば、初めて会う相手でも、にっこりと微笑んで貰えるのが嬉しい。
「今朝とは大違いだな」
今朝も心配でディークリウドに付き合って貰ったのだった。
「自分でもビックリです」
ジルフィーネは苦笑する。
「土壇場に強い性格だな」
「喜んでいいのでしょうか」
「ああ。もちろん。そういう貴女に惚れたんだ」
ジルフィーネはかあっと血を昇らせた。
一方足が遅れたが、ディークリウドがさりげに体を引き寄せて、事無きを得るが、ジルフィーネは口を尖らせる。
「こんな時に、言わないでください」
「スローの時の方が良かったか」
ジルフィーネが諦めて嘆息すると、ディークリウドは楽しげにくつくつと声を立てて笑った。
負けた気がして、ジルフィーネは口を尖らせたままでいると、周囲の視線に気が付いた。
見れば、暖かな眼差しで見られていた。
「仲のよろしい事で」
とまで言われて、ジルフィーネは穴があったら入りたい気分に陥った。
間が悪い事に、そんな時に曲が終わった。
「素敵でしたわ」
「一週間で覚えられたとはとても思えませんわ」
「陛下のリードとマハルどのやベアトリクスさまの指導がお上手だったからですわ」
賞賛する声が続いて、ジルフィーネは居た堪れなくなる。
「もう一曲いいかな」
「はい」
これが自分たちを祝うものとなれば、ジルフィーネには頷くしかなかった。
すぐ後悔することになる。
スローテンポな曲だった。
ディークリウドが楽隊の側にいる者に目をやれば、にっこりと異母兄に手を振られて愕然とする。恐らく自分たちが留まっているのを見て、急遽依頼したのだろう。
ディークリウドは期待の眼差しを受けて、ジルフィーネの腰を引き寄せる。ジルフィーネも赤くなりながらも、男の肩に添えていた手を上腕に下げる。
小さな円の中で、幾何学模様を描くようにしながら、ゆったりと優雅に踊る曲だ。
ほぼ抱き合うに近い体勢で、相手と同じように動くから、密着度はどのダンスより濃く長い。
「婚約式のドレスはタリスクの色が濃かったが、これは我が国の色が濃いのだな」
耳元で囁かれて、先ほどのことを思い出して、ジルフィーネは肌を朱に染める。
今頃それを指摘しないで欲しいと、ジルフィーネは心の中で悲鳴を上げる。
婚約式のドレスは薄い群青色の立ち衿のワンピースにもう一枚同系統の濃い色を重ねて、肩から袖口に掛けてと、スカートの両脇に切り込みが入っていて素敵に仕上げられていた。スカートととの切り替えは胸下で、肘上で袖に巻かれたのと同じ素材のリボンがあしらわれていた。
それとは対照的に、舞踏会用のドレスは胸元を大きく開け、袖は肩を出して腕に少し掛かるような、ジルフィーネにとっては大胆なデザインだ。スカートは切り替えるというより、胸下から腰に掛けて別布のリボンを前と後ろで交差させて絞ったような形になっていた。
「こちらに嫁ぐのですから、こちらの国のデザインでとお願いしましたら、タリスクのデザインも入れてもどうだろうとおっしゃってくださって」
「よく受け入れてくれたものだ」
ディークリウドはさすが商人だなと満足げに呟く。
「良いものはなんであろうと取り入れる。このデザインはその象徴だな」
「デザインを考えてくれた者たちが喜びますわ」
「貴女のことだ」
「私ですか」
ジルフィーネは小首を傾げる。
「貴女が結婚を承諾してくれなかったら、他国の違ったデザインをこのような形で融合させることはなかっだろう」
「ですが、お父上さまの」
「手に入れた国はこの国の周辺で、気候も大して差がない。服装に目立った違いがなかったが、ペイルゼンは違う。一部を手に入れただけで、タリスクそのものはまだ存在しているからな」
「受け入れ難く思われるでしょうか」
「そうはさせない。実際、ペイルゼンは我が領地なのだ」
誰にも文句は言わせないと、力強くディークリウドは言う。
その揺らぎのない瞳に、ジルフィーネは安堵する。
遅くなりました<(T◇Tll)>
これからもお待ちいただければ幸いです。