うごめく
「では、これを」
夜の闇が深くなる頃、仄かな明かりを灯した一室で、淑やかな女の声が聞こえた。
丸められ紐の巻かれた簡を女から手渡された者は、それを懐に忍ばせると、サッと身を翻して部屋から出ていく。すると、丁度その者と入れ替わりで、ひょっこりと若い娘が部屋の中に入ってきた。
「阿娘琵」
女に名前を呼ばれた若い娘、阿娘琵は柔らかい笑みを顔にのせて、胸の前で手を合わせて拱手する。
「史蔦さま、四名程度もう使いものになりません」
「そう……阿火娜はどうです?」
「今すぐには動けませんが、回復さえすれば問題はないようです」
「なるほど……敵対する者すべてに情けはかけぬ気性と思いましたが、存外、女人には手緩いところもあるのか……なにはとも、あの怙狼軍の男は正面からの対峙を避けるべき相手だということ。覚えておきなさい」
「はぁい。でも、燕虎は納得できなさそうですね。あれからずっと荒ぶっていますもの。よほど悔しかったのでしょうね」
阿娘琵はそう言って、思い出したかのように目を細めて笑う。
そして妖しげな雰囲気を纏った女、ーー史蔦は阿娘琵を見て零れるようなため息を漏らす。
「燕虎はなまじ腕が立つゆえ、己の武力が及ばない相手との邂逅に慣れがなかったのでしょう。傲りを捨て、精進するよう戒めましょう」
「獲物のとどめを來郷の男に妨げられて、怙狼軍の大男将軍に苦戦して、さらに大きい巨男に邪魔されて……決着がつかない相手と、一気に三人も出会ったわけですもの。燕虎の傲りとやらも、きっとボロボロなのですよ」
阿娘琵はまた面白そうに、コロコロと笑う。史蔦はそんな阿娘琵へ窘める視線を送った。
「ごめんなさぁい。でも相手は厄介なのですね。來郷の動きも侮れませんし」
言葉とは裏腹に、阿娘琵は無邪気な口調で喋る。史蔦は考えるように机に頬杖をついて、灯る明かりを見つめた。
「來郷の頭領はやはり切れ者、色々と感づいている様子……やはり、中央に潜ませているか……」
史蔦は独り言のように呟いて、そっと胸元に手を置く。
「されど、成すべきことは変わらず、むしろ好都合。こちらも痛手を被りましたが、微々たるもの。來郷の手腕を見定める良い機会となりました。そして、あの娘……綻びを繕わなければなりませんね……」
「鴛鴦之契の娘ですか? あれもうまくいきませんでしたね。賊の殲滅にしても、崖から落ちた最後の一人をちゃんと確認しておかないと、怒られちゃいますしね。史蔦さま、ご命令は無いので?」
「賊の男については、あの忠実な猟犬が片をつけてくれましょう。感心するほどに、働き者ですからね」
史蔦はそう言って、艶然と笑う。揺蕩う明かりによって照らし出されるその表情は、ゾクリとするほど美しいものだった。
◇
白白と夜が明けようとしていた。
指先が僅かにぴくりと動く。
樂幹はうっすらと目を開けた。
開けれたのは片目だけなのを、その時改めて感じた。
生きている。だが、身体は動かせない。動かそうとすると激痛が走った。
樂幹は視線だけを動かして、周りを見る。
岩壁が複雑に入り組んだ場所だった。遠い上の方に、切れ目のような断壁から薄暗い空が見える。
寒い。全身はずぶ濡れで、肌は氷のように冷たかった。
樂幹は小さな岩にひかかっている形で、断壁の間を流れる川から、上半身のみ仰向けで岩場に乗り上げていた。
落ちたあの場所から、どれほど流されたのだろうか、検討もつかない。
そのまま動かず、遠い空を静かに見続ける。
この状態で、よくもまあ、生きていると自分で自分に感心した。けれど、もうじき死ぬだろう。
傷は深く血を流し過ぎているし、なにより、樂幹はここから動くつもりもない。
深い深い息を、ゆっくりと吐いた。
恩徳たちは先に逝って待っているのだろうか。あの状況で無事に生きているとも思えなかった。
できの悪い隊長だったと自分に苦笑する。結局なにもなし得なかった。
けれど、こうすることでしか、何もかもが保てなかったのだ。それは仲間たちも同じだろう。
ただ、戯張がーー。
樂幹は目を閉じて、またゆっくりと息を吐く。
もうこのまま眠ってしまおう。そうしたら愛しい者らに会いに行ける。
ーー楽になれる。
そう思って、身体から力を抜こうとした時、誰かの気配を感じた。
「ーーあぁ、すごい、すごい、生きているとは見事だねえ」
抑揚のない声なのに、どこか面白がっているようにも聞こえる口調で、その誰かは喋った。
樂幹は閉じていた目を開けて、視線を動かす。
不気味な男がいた。薄ら笑いを顔に浮かべて、岩山から降りてきているところだった。背後には武装した男たちが数名ついて来ている。
珍しい色の髪と目を持った男だと思った。
知っている顔ではない。
「随分と痛々しい姿なもんだ……あー、目も斬られたのかい? その痛み分かるなぁ……でもまぁ、しょうがないよなあ、失敗したのが悪いんだから、こうなるしかないよな」
まるで樂幹に言い聞かせるかのように喋り、男は、ーー郷怛は、樂幹から少し距離を置いた場所で、小さな岩に腰かける。
「あー、よっこらしょ……随分と捜したんだぜぇ? 駄犬みたいに駆け回ってよ。あんたを見つけれて、今にも涙が出そうだ」
気だるさそうに、郷怛は言う。樂幹は反応を見せなかった。
「んん? ああ、なんだ……はああぁ、やれやれ面白くないな」
樂幹に生きる気力が無いことを感じ取ったのか、郷怛は心底軽蔑した様子で嘆息してみせる。
そんな郷怛の様子を見ていて、妙な男だと樂幹は思った。
“失敗”と先ほど目の前の男は言っていた。だとするとあの娘を利用しての作戦のことを知っている。“失敗”したから始末するために捜していたのだろう。
結局は朱国の兵に殺されることになるのかと、腸から煮えくり返るような苛立ちがふつふつと湧いてもきたが、どうにもできなかった。
こんな無様な最期が、何一つと守れなかった自分には相応なのだろう。
「まあ、こんなもんだよなぁ。しかし残念だったよ、あんたたち」
大袈裟なまでの抑揚をつけた声で、ゆっくりと郷怛は喋る。
樂幹は黙ったままその声を聞いた。
「うまい話だと思ったんだよな? 少しでも報復できると思ったんだろ? いやいや、そんなうまい話なんか最初からどこにも無いんだよ」
郷怛は僅かに口許を歪ませて笑う。樂幹は瞬きせずに、残された片目で郷怛を見続けた。
「ただちょっとした騒ぎを起こしたかっただけなんだよ。そこに鴛鴦之契って政策を加えたら、なお良かった。いやーしかし、せっかくこっちが準備していたのに、あんたらが間違えた女を拐ったせいで、こちらとら、急に忙しくなって寝不足でたまんなかったよ。まったく勘弁しておくれよな。でもさ、あんたを除いて全員、簡単に無様にくたばって、その愚図さには少しばかり感謝したよ、あんたらを処理しなきゃならないこちらとしてはな」
郷怛は随分とへらへらとした調子で喋り続ける。
樂幹は胸の奥の方から、ざわざわとした何かか込み上げてくるのを感じた。段々と感覚が無くなっていた四肢に力を入れる。
動く。また激痛が走るが、構わない。
「まあ結局のところ、うまく事が運んだとしても、失敗したとしても、あんたらは終いには全員一人残らず始末する段取りだったんだよ。だってそうだろ? あんたらは国に害を及ぼすどうしようもない罪人なんだからよ」
何か武器になるようなものは無いだろうか。何か自分に残されたものは。樂幹はそこで、今だ自分の腕に食い込んでいる鏢を見つけた。
「女を人質にとって色々できるって言われてたんだろ? それを信じたわけだよな。あんたらが憎む敵国の人間のことをよぉ。もしも俺だったら絶対信じないねぇ。なあ、当然だろ? 敵の言うことなんかを信じるわけないじゃないか! 可哀想になぁ、何の罪もない女を痛めつけて、しかもそれが故郷の人間だってんだから救いようがないよなあ、この悪人め」
樂幹は覚束ない動きで食い込んでいた鏢を引き抜いた。凄絶な痛みと血が溢れ出たが、樂幹の手はしっかりと鏢を握る。
郷怛は歪んだ笑いを止めなかった。
「まあ、あんたらがそんなどうしようもない人間になった原因は分かるよ。あれだよな、故郷の村が焼かれて、家族が殺されてたからだろ」
さらりと郷怛の口から出た言葉に、樂幹はぴたりと動きを止めた。
「ああ、知ってるよ。戦が終わって意気揚々と故郷に帰れたのに、そんな有り様になってたら、そりゃあ衝撃だよな。けどな、復讐心いっぱいの、憎しみに囚われた考えなしの人間が必要だったわけだよ。だからな、俺がそうするように命令したんだ」
郷怛はまた事も無げに言う。樂幹は石のように身体を固まらせていたが、郷怛を見る片目のみが徐々に見開いていく。
「いやいや、俺も上から命令されたからなんだって……だからしょうがないだろ? 本当は血なんて苦手なんだよ、でもしょうがないだろ? 命令には従わなくちゃなぁ、だから戦の間、頑張ってあんたの国の村々を潰して回ったんだよ。だから、なあ、その中にあんたの村もあったかもしれないよなあ、知らんけどもなあ!」
郷怛はひどく愉快そうに笑いを含めて喋った。自分がつらつらと喋っている間、固まっていたはずの身体がぶるぶると震えだして、見るも無惨な姿にも関わらず起き上がろうと懸命な男を、本当に愉しそうに見ていた。
「ああ、でもよぉ、兵たちが村の女をいいようにして、子供をなぶり殺しにしてるさまはさすがにゾッとしたよ。狂気に酔いしれた人間なんて何しでかすか分かったもんじゃないよなぁ。だからさ、悪かったよ! もしかしたらあの時の女子供はあんたの家族かもしれなかったもんな!」
「ああああああっ!!」
樂幹は叫んだ。それは獣の咆哮にも似た叫びだった。
常人では動けないはずの傷を負っているのに、樂幹は立ち上がる。
郷怛の姿を映す片目には、想像できないまでの怒りと憎しみがギラギラと浮かび上がっていた。
「はっははあ! 怖えぇ! すげぇ! おいおい、大丈夫かい? あっははあ! すげぇ!」
まるではしゃぐ子供のように、郷怛は手を叩いて笑う。
樂幹は郷怛に向かって駆け出した。手には血に濡れた鏢を持って。
そしてそれが合図だったかのように、郷怛の後ろで備えていた者たちから、凶刃を抜く音が重なりあった。
「そうだよな! それこそが生きるってことだよな! はははははっ! たまらんなあ!」
郷怛の笑い声が大きくその場に響いた。




