言葉
「ほう、珍しいな。梁咸の者か?」
軍議用の天幕の中で、大きな声を出したのは巌鉄だった。
戒趙は声をかけられた人物に視線を向ける。問われた当人は薄ら笑いを顔に浮かべて、礼をとり巌鉄へ頭を下げた。
「梁咸の血は流れておりますが、育ちは朱国ですよ。軫蛇軍の郷怛と申します。來郷頭領巌鉄殿」
「郷怛、関所で何かあったか?」
間を置かず、戒趙が声を出した。
郷怛がこの天幕に現れて、自分の中にあった嫌な予感が外れていなかった事にわずかな息を漏らし、戒趙は更なる予感を感じ取る。
無駄にこの男が動くはずはなかった。
「はい、戒趙殿。それも含め、ご報告致します」
郷怛は薄く笑ったまま、顔を上げ口を開いた。
◇
稜迦はふと目を開ける。
するとカガイの大きな背中が見えた。
それがとても安心できて、稜迦は小さく深く息を吐く。
目を閉じてはいたが、深くは眠っていなかったようだった。まだ周りはうっすらと明るい。時間はあれからあまり過ぎてはいないようだと思った。
稜迦はまたカガイへと視線を戻す。
カガイは横になってはおらず、稜迦の傍で背を向けて座っていた。戯張やトウシナの姿は見当たらない。天幕からいつの間にか出て行ったようだった。
稜迦はもぞもぞと身体を動かして起き上がる。それに気付いたカガイが稜迦を振り返ると、手を伸ばしてきた。
稜迦はそのまま動かず、カガイの大きな手がゆっくりと首筋まで伸びてくる動きを視線だけで追う。その手が首筋に触れてくると、何故だかそれだけで稜迦は恥ずかしくなって、鼓動が速くなるのを感じた。
「寝ていろ……」
カガイは稜迦から手を離すと、短く声を出して、また背を向ける。それを心のどこかで寂しく感じながら、稜迦はよろよろと厚い毛皮を手に取った。
「カガイ様、あの、どうぞこれを……長らくお借りしておりまして……ありがとうございます」
稜迦の声にカガイは顔だけ振り返る。
「あ、あ……すみません、お借りしていましたのに汚してしまって……あの、でも、そのような格好では、お怪我によくありませんし……寒いですし……冷えてしまいます……から」
稜迦は、あの時カガイが掛けてくれた毛皮を両手に持つと、カガイの背中へと掛けようとし、一度汚れを気にして手を止めたが、白い布を巻いた状態だけのカガイの背中を見て、毛皮の表面を手で払うと、カガイの身体におずおずとそれを掛けた。
カガイは黙ったまま、拙く動く稜迦をじっと見つめる。
そのカガイと視線が合わさると、稜迦は慌てて身を引いた。カガイに近付いていたので、とても近い距離にその目があった。
初めて見たときと変わらない鋭い眼光であったが、その目に睨まれているとは、もう思わなかった。
ただ、その目を見ると何故だかとても胸の奥が騒がしくなる。
「……寝ていろ」
カガイはまた短く声を出して、稜迦に背を向ける。
「あ……」
稜迦は声を詰まらしてその背を見つめた。カガイの怪我の様子が気になったが、伝えなければならない事がある。稜迦は小さく息を吸い込み、意を決すると口を開いた。
「カガイ様……! あの……」
稜迦の声に、またカガイは顔だけで振り返る。
「あの、わたしの体調は……もう昨夜より随分と良くなりました、カガイ様がよろしければ……お話ししなけばならない事があるのです」
カガイは一瞬の間のあと、稜迦へ身体を向ける。稜迦も背筋を伸ばした。
「なんだ……」
「わ、わたしが黎国の方々に捕らわれて、その時に聞かされた話です」
稜迦は黎国の男たちが話していた内容を、記憶を掘り起こしながら口にする。
正直なところあの時、稜迦の身体は限界に近く、所々意識がはっきりとしていなかった。思い出していくのも自分が思っていた以上に辛い。ズキズキと傷が疼く。
けれど、大事な事だ。カガイに伝えないといけない。
「ーー黎国の女を使ってか……」
「は、はい、確かに言っていました。鴛鴦之契で嫁いで来た女を使った計画があると……あの関所にわたしが来ている事を教えられたのだと……」
稜迦が話し終わるとカガイは視線を外した。稜迦も深く息を吐き出す。
稜迦は自分の心臓の音が大きく鳴っているのを感じた。カガイが稜迦を黎国の兵に売っていない事は確かなのだ。けれどあの男が言っていた事が嘘ではなかったとしたら、朱国の中に裏切り者がいる。
その事の重大さを、稜迦は知らされたのだ。それがとても恐ろしい事のように感じて、稜迦の手はわずかに震えた。
カガイが沈黙して動かない。
何を考えているのか分からないが、稜迦はじっとカガイを見つめて待った。すると、カガイの視線が稜迦へと戻る。
「あの男に喋ったか……?」
「え? あ、あの男……?」
「さっきの男だ……喋ったのか……?」
稜迦は急いで頭を横に振った。さっきの男とは郷怛の事だ。
「あの……」
「奴の女もお前と同じだ……鴛鴦之契で嫁いで来た……」
稜迦はカガイの言葉の意味が理解できた途端、ゾワリと背筋が冷たくなった。
そうだ、なにもあの場に居合わせたのは稜迦だけではない。
果扇もいたのだ。
果扇も稜迦と同じく黎国から鴛鴦之契によって朱国まで嫁いで来た女のひとりだった。
冷静に考えたら分かる事だった。郷怛に言われて果扇はあの場に居たのだ。そして襲撃があって、黎国の男たちはあの場に来た。
その時に聞こえてきた男たちの会話も今、理解できた。偶然が重なったがゆえに、稜迦は果扇の代わりに捕らわれたのだ。そう考えられた。
「ーーおい……」
カガイの声で稜迦は我にかえる。
恐怖を隠せていない稜迦の目を見据えながら、カガイは低く重い声を出す。
「あの男には近付くな……奴の周りにいる者にもだ……一人になるな、絶対にだ……」
稜迦はごくりと唾を飲み込んで頷く。
郷怛の姿を思い出す。あの不気味な目をした男が裏切り者なのか。
しかし違うかもしれない。可能性があるかもしれないと言うだけなのだ。稜迦が黎国の男から聞かされた話も本当かどうか分かりはしない。
けれど、でも、と思う。
郷怛はもしや、事情を知った稜迦を手にかける為にここまで来たのか、と。
稜迦は郷怛に掴まれていた手首を震える手で覆う。
「……おい……」
「は、はい……?」
稜迦はカガイの声に反応するが、カガイはそれから押し黙って口を開かない。
どうしたのかと首を傾げるが、カガイはやはり黙ったままだった。
もしやカガイの体調が悪くなったのではないかと思い、稜迦が心配ゆえに身を乗り出そうとした時、唸るような低い声が聞こえた。
「……答えたくなければ、答えなくても構わん……」
「え?」
「……奴らに、手を出されたか……?」
カガイの問いに稜迦はまたもや首を傾げる。すぐにその意味をのみこめなかった。互いに言葉を発する事のないまま数秒が経った頃、稜迦はようやく理解して顔色を青くする。
「い、いいえ……!」
稜迦は声を大きくカガイに出した。
カガイは稜迦が黎国の男に、女として乱暴されたのかと訊いているのだ。
稜迦の心の奥底が軋む。
「な、何も……! 何もされていません! た、確かに、そ、そのような目に合いそうになりましたが、來郷の方々に助けていただいて……何も……」
稜迦は必死になって言葉を紡ぐ。カガイに誤解されると思うと辛くて、目に涙が浮かんだ。けれどこんなに必死になったら余計に怪しまれてしまうのだろうか。
「……分かった……」
「……本当に……わたしは……」
稜迦は俯いた。カガイの声に対し、か細い声でもう一度答える。カガイは分かったと言っているのだからもう口を閉じるべきなのに、声が出てしまう。
稜迦が汚されたかも知れないと、僅かでもカガイに思ってほしくない。一粒涙が溢れて、稜迦は慌ててそれを拭った。
「……お前は……」
カガイの声が聞こえたが、稜迦は顔を上げずに俯いたままだった。それでもカガイの声は続いた。
「お前は……俺に、嘘を言わん……と思っている……手を出されていないとお前は言った……疑っていない……泣くな……」
稜迦は俯いたままだったが、小さな声で「はい」と返事をすると、また一粒涙を落とす。
心の軋みは、もう感じなかった。
◇
「それは確かなのか?」
天幕にいる人々がざわめく中、戒趙は険しい顔で郷怛に問いかける。
その言葉を受け、飄々とした態度で郷怛は答えた。
「はい。確かでございます、戒趙殿」
話を聞いていた巌鉄は息を大きく吐き出して、腕を組み郷怛を見据えた。
「なるほど、上手いことできた話だ。で、玄州刺史は來郷に何と言われておる?」
巌鉄の問いに郷怛は力の無い笑みを浮かべる。
「無論、裏切り者の捕縛。そして賊である黎国兵の殲滅にございます、巌鉄殿」
天幕の中に郷怛の歪んだ声が静かに響いた。




