忍びよる
「事の始まりは玄州の境にある集落が賊に荒らされてからだ」
巌鉄は天幕の中に用意されていた椅子に腰掛け、口を開いた。目の前の几に地図を拡げて、トンっと指を置く。
「小さな襲撃だったらしい。死者は出ず、賊が盗ったものは集落に備えてあった食糧だった。もともと冬は賊の被害が多い。それに加え、黎国との境に位置する玄州は先の戦のせいで荒れている。賊が出ることは、そう珍しいものでもなかった」
戒趙は拡げた地図に視線を落とし、眉をひそめ、続く巌鉄の言葉に耳を傾ける。
玄州とは朱国を大きく別けている州の一つで、黎国と隣接している土地であった。
「だがその襲撃に対して県尉が動き、來郷に討伐の要請が来た。その討伐に赴いたのは來郷北軍の尤恭隊だ」
巌鉄がその名を口にした時、その場に居た來郷の面々の顔が陰ったのを、天幕の入り口付近で巌鉄の話を聞いていたカガイは気付いた。隣にいたトウシナも感づいたのか「ん?」と声を出す。
「県尉からの報告で賊は小規模だと聞いていたはずだ。油断があったのかもしれん……討伐に赴いた尤恭隊は痛手を被り賊に返り討ちにあい、そのほとんどが殺された」
巌鉄は地図の上に置いていた指を動かしていく。
「尤恭隊がやられてから半日もせずに街である董と乾を繋ぐ関所である劉康関が襲われた。ここはもともと別の賊を平定するために尤恭隊が逗留していた関所だ。來郷以外の兵も勿論いたが、時を同じくして本来尤恭隊が討伐する手配だった別の賊を捕らえるために部隊が出ていた。手薄の隙を狙ったのだろう。ここで尤恭隊、関所を襲った賊の正体が黎国の残党兵だと判った」
「んあ? どうやって判ったんだ? なぁ、兄ぃ」
思った事をすぐ口に出してしまうのか、トウシナが大きな声でカガイに問いかける。そんなトウシナを戒趙は細めた目で睨むが、トウシナは気づかなかった。
巌鉄はちらりとトウシナと見ると、疑問に答える。
「奴らが判りやすい目印を残して行ったからだ。尤恭隊と交戦した場と関所、二つの場に、狼に喉元を喰われている龍の絵が描かれた旗が残されていた」
「なんとも、大胆な……」
戒趙は驚愕と呆れを含んだ声を小さく溢す。
この大陸の歴史は長い。
今の形になる何千年もの間、様々な国が生まれ滅んでいった。
その中で形を違わず変わらないもの、この大地を創り出したと伝わる神獣たちの神話がある。
その地に住む人々は由来がある神獣を崇めることが慣わしであり、その尊ぶ心は大小あれど、古来より営みの中に溶け込んでいる信仰であった。
その中で、龍の姿をした神獣がいるとされる。伝えられている名は師秦奘楼聖君。
七色の鱗で土地を創り、息吹を吐いて川と山を創ったとされる。
朱国の都、儒郭にある王城、弦明宮の背に連なる山々は、師秦奘楼聖君が大地を創り終えた後、その身体を横たえ、そのまま大地と融合した姿と言い伝えられていた。
都を儒郭においている朱国の民は、長きに渡って師秦奘楼聖君を祀っており、朱国の国旗も龍の姿が描かれている。
「対して現在黎国がある大地を創り出したと伝わる神獣は火漢煌聖君。狼の姿をした神獣だ。龍の喉元を食い破る狼の姿は、すなわち黎国が朱国を喰らう意味とも取れる」
「神獣の死した絵とは……本来、国違いとは言えども神獣たちを穢れた姿で描くことは不吉とされ、禁忌となっている土地も存在するというのに……随分と趣味の悪い、手の込んだ目印を残したものですな……しかし、これは……」
巌鉄に言葉を返した戒趙は、しかめた顔を変えぬまま、地図を睨む。
「尤恭隊が交戦した場所と劉康関では距離が離れすぎている。到底半日では劉康関まで辿り着けることは不可能」
戒趙の言葉に巌鉄は大きく息を吐いた。
「まさしく。劉康関が襲われた後、一日と置かずに次は新しい関所が襲われた。それは戒趙殿もご存じの通りだ」
「まさか、劉康関からあの関所まではあまりにも距離が……馬で駆けたとしてもそのような……これは、残党兵の数がそれほどに多いと言うことでしょうか?」
戒趙は地図から顔を上げ巌鉄を見る。戒趙は単純に尤恭隊を壊滅までに至らしめた数、劉康関を突破しえた数、青丹が指揮をとっているあの関所を襲撃した残党兵の数を別々のモノとして考えた。
すべての事を同じ集団が移動して行える距離ではなかった。
だが巌鉄は頭を横に振る。
「いや、違う。戒趙殿、恐らく我らは謀られているのだ」
巌鉄は強い声できっぱりと言う。戒趙はまたもや眉をひそめた。
「実のところ残されていた旗のみで黎国の残党兵だと判断できた訳ではない。一連の騒動が起こるその少し前に、玄州に黎国の残党兵ありと明確な情報が入ってきていたのだ。新しい関所には労役のため黎国兵がいることは知っていた。狙われるのは目に見えているので、伝言を遣わしたのだが、その兵も何者かによって斬られていた」
「それは……では、残党兵以外の……」
戒趙はなにかに気づいたように険しい目を広げた。巌鉄はそんな戒趙を見て小さく頷く。
「尤恭隊がやられてから、我ら來郷の本隊と西軍がここまで進軍し、黎国の残党兵を追い詰めた事はあちらも不測の事態のはず。しかしながら不可解な事も残っているのだ。まずは情報を固めねばならん。ゆえに……カガイと言ったか?」
巌鉄が声をかけたことでその場にいるすべての視線がカガイへと向く。
カガイは表情を変えないまま巌鉄を見ていた。
「そなたの夫人の話は聞いている。少しでも情報が欲しいのだ、後ほど夫人と話をさせてもらいたい」
巌鉄のその言葉にすぐさま反応したのはトウシナだった。慌てながら大きな声を出す。
「いやぁ今は勘弁だ! 奥方さま、まぁた熱が上がって寝込んじまってんのに、難しい話をされるとさらに熱が上がるんじゃねえか? なあ、兄ぃ!?」
「トウシナ、黙っていろ」
トウシナの声に被せるように戒趙がピシャリと言い放つ。
カガイは変わらず巌鉄を見ていたが、ゆっくり目を閉じると小さく頷いた。
「わたしも行こう。女がいた方が夫人も安心すると思うしね」
巌鉄のすぐ傍で同じように椅子に腰掛けていた羊雀が、軽く手を上げて声を出した。
巌鉄が薄く笑って羊雀に頷き返した時、外から來郷の兵が一人、天幕の中に入って来る。
「軍議中失礼します。ただいま関所より新たに隊が到着されましたが、こちらに将軍をお通しても宜しいでしょうか?」
「将軍?」
礼をとって発した兵の言葉に、戒趙は今まで以上に顔をしかめて椅子から立ち上がる。
宇天軍から少数を連れて來郷の使者と共に、ここまで赴いたのは青丹の指示であった。自分たちの後にさらに誰かが来る事など、青丹から聞き及んでいない。
あちらになにかしらの事態が起こったのかもしれないが、戒趙の胸の中には嫌な予感が落ちていた。
天幕に入って来た兵は慌てながら再度礼をとり、戒趙からの声に答えた。
「はい、郷怛……と名乗っておられました」
◇
稜迦は己の熱い身体を感じながら、目を薄く開いて天幕の入り口をただずっと見続けていた。
トウシナたちが来た昨日、その日の夜に稜迦の熱はまた一気に上がってしまい、手足を動かすのも億劫になって気を失うように眠りについた。
時折目を覚ますと、心配そうな顔をした戯張や、トウシナが目に入る。そうして決まってすぐ隣にいるカガイをぼんやりと霞む意識の中で、視界に入れてから稜迦は目を閉じた。そうすると身体の辛さとは裏腹に、心は凪ぐことができたのだ。
稜迦が次に目を覚ますと、そこには誰もいなかった。
身体はまだ重く、熱は引いていなかったが、もう眠気は無かった。頭を少しずらして、入り口に目を向け、ただ静かに天幕の外に行ってしまった人の事を思う。そして、今に至っていた。
訊かなければならない事、言わなければならない事が沢山あったはず。こんな体調になる前にもっと早く戯張と話しをすれば良かったと稜迦は後悔する。
自分がこんなことになって、きっと沢山の迷惑をかけてしまっているのだろう。
稜迦はもぞもぞと動いて、自身の冷たくなっていた指先を額に当てて熱を冷ます。
カガイの熱は下がってくれたのだろうかと稜迦はぼんやりと思った。
昨日、カガイは一日中眠っていたが、今ここにいないという事は、幾分か身体が治ったのだろうか。無理をしていないだろうかと、稜迦はやはり心配になる。天幕の向こうからカガイが早く帰って来てくれまいかと、稜迦は入り口を見続けた。
しばらくそうしていたが、稜迦は深く息を吐いて、薄く開いていた目を閉じた。
今は自分の身体を早く治さなくてはならない。沢山の心配と迷惑をかけてしまうのだから。
そう思って、稜迦が再び眠りにつこうとすると、天幕の外から土を踏む足音が聞こえた。
稜迦はすぐさま目を開ける。
誰かが来たのだろうが、稜迦のいる天幕に来る人物など限られていた。
稜迦はその時、無意識にカガイが帰って来たのだと思った。
稜迦はゆっくりと横になっていた身体を起こして、開いていく天幕の入り口に目を向ける。
すると、その開いた入り口から黒の甲冑の色と、あの日見た奇妙な色彩を纏った男が、薄く歪んだ笑みを浮かべて天幕の中に入ってくる光景が、見えた。




