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てる子  作者: 雨傘 香介
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3/3

[Tautology]

お断り:今作品は本文と差別化をはかり、※に挟まれた旧字旧仮名遣いで表記しています。

意図的であること、また閲読しづらいと思いますが、お含み下さると大変嬉しい限りです。


[Tautology]



 ※


 こいとは何か。

 最近のわたくしはどうもそんななやみを持つてゐる。

 今の今まで生きてきて、戀のこの字も知らぬ興味も示さぬわたくしが、これ程――渇望する程に戀しいと思つたのは初めてだつた。

 體のしんから、かつと熱くなる。不快な熱さではなく、火照るといつた感覺かんかくが甘く淀んでゐく。果てなくすつきりとはしない、もやもやと胸を空虚とし、けれど滿腹まんぷくと膨らましてゐる。

 こいとは何か、これが戀なのか。わたくしには皆目分からない。


 ※



 私が再び龍彦さんの小説を読むのに然程時間はかからなかった。

 また読みたくなる、と言った内容では決してない(大変失礼ではあるが)。

 けれど、

 側にあれば時間が空けば、そっと手におさめて読み耽てしまう。龍彦さんの小説にはそんな不思議な力があり、私を幾度と読ませた。

 龍彦さんの『狂人』が書店に並んだのはあれから――龍彦さんを祝ったパーティーから三週間後だった。

 表紙は秋風に舞う木の葉と、未だ木の枝にくっついた蛹を見つめる女性が描かれたそんな一見してはどんな内容か分からない表紙だった。


 ――てる子、最近変なの読んでるよな。

 隣の席の犬飼がつまらなそうな顔をして言った。私はそれを横目で見てやった。話かけるな、と言わんばかりに。

 ――う、なんだよ。思ったことを言ったまでさ。

 ふん、と鼻を突きだし腕を組む。その時犬飼はやんちゃな男の表情をしていたが、長い黒髪が遅れて女の雰囲気を連れてきた。やはり女男だ。

 私はそんな気味の悪い犬飼を侮蔑するように見つめて口を開いた。

 ――犬飼、一つ言っとく。邪魔しないで。

 私が言い終わると犬飼は直ぐに噛みつくようにして応えた。

 ――てる子が読書すると、僕は読書するてる子の横顔を見ているしかないんだ。暇なんだよ、相手してよ。

 ――だから、私以外に友達を作りなさいって。私は犬飼専用の友達じゃないのよ。

 と言う私は、犬飼以外に話し相手がいない。理由は明白で、ただ犬飼以外と肌が合わない、それだけの理由であっさりと片付いてしまう。

 私はきゃあきゃあと一喜一憂する同性を嫌悪している、また正直絡みづらいと思っている。絡めば執拗にあぁでもないこうでもない、先輩だ彼氏だの色恋話を聞かされる。私は聞くだけでお手上げだ、満腹だ、飽々だと避ける。煩わしい輪の中で私は作り笑顔さえつくれない。だから敢えて輪の中から外れ、一人でいることを好む。

 私は社交性に乏しい、そう自覚している。

 そんな私にかまける犬飼は、男の癖して背中まで伸びた髪を大事そうにすいている。後ろ姿はまさに女に見える。というより顔もどちらかといえば女顔だ。

 私より肌が白い。私より透き通る瞳に、長い睫毛が無駄に魅力的――いや可愛らしく見える。ふっくらとした唇は、さぞかし口紅を塗れば可愛いかろう。

 もしかすると私は女の外見では犬飼に劣っているかも知れない。今まで比較しようとも思わなかったが、私は犬飼の外見には負けを認めざるを得ない気がする。

 そんな勿体無い女らしい男は男同士の熱い友情を酷く毛嫌いしている。それこそ軽蔑するように見る。

 何故かは分からない。けれど、犬飼が何故同性を毛嫌いするか、私もバカではない。予想はつく。

 犬飼は嫌に真面目な顔をして、

 ――僕にはてる子しかいないんだよ。

 と言った。私は犬飼の言葉に不意を突かれ、肩透かしを喰らった。薮から棒である。私は冗談を言ったつもりなのに、犬飼は真に受けたらしい。

 私は可笑しくて失笑してしまった。言った後に恥ずかしくなったのか、犬飼は顔をみるみる赤くして誤解だ、と主張し続けた。

 教室は騒がしかった。雑多な話題で盛り上がっている。気づきもしない、私達が笑っていることにさえ。それでも、私達はひっそりと笑っていた。何が可笑しくて笑っていたか忘れるくらいに。




 私の短い人生では〈委員長〉の肩書きを得ようとする者は、皆メガネを着用し、見下している。自分の優位性を体一杯に誇示しているように見える。

 それはあまりにもぴっちりとしている為だ。何事にも型に嵌り、その型の通り言動すれば、皆に評価されると浅はかな羨望を抱いているように見える。

 それは私の単なる差別意識の偏見であるが、このクラスの委員長は先程の通りの堅苦しい女である。







 委員長の名前は柚木香奈枝ゆずき かなえ、と四月初めの自己紹介の時に言っていた。

 あまりにも同年代の発言とは思えぬ自己紹介をし、利発と活発さ、体形も中学生にしては背が高く、偉く担任が柚木を誉めちぎったのを覚えている。一見すると高校生に見えるかも知れない。

 とにかく、柚木は中学の一年某組に存在と威厳を持って降臨した。

 そんな柚木に惚れる者も多く、他クラスの男子生徒が告白押し問答、背を押しくらと恋した怪我した、とちょっとは我が学校で話題になった。

 その男達を狂わせた当本人柚木は、そういったものを足蹴り見下し、『端ない』と蔑む。そういった所はママに感じが似ている、だから私は柚木が嫌いだ。

 柚木も柚木で、自己紹介の後に私を汚物呼ばわりするのだから、柚木も私を嫌悪していると思う。完全に私と柚木はそりが合わないのである。それはそれで別に良い。けれど――。



 ――とても不愉快だわ、汚物と同じ物を読んでいるなんて。まぁ、汚物にこの本の心意を知り得るはずはないだろうけれどね。

 桜散る春から紅葉彩る秋、私と柚木の距離は短くなるばかりか、一線を越して罵り合う変な仲になった。私はこんないい子ちゃんは嫌いであるが。

 ――うるさいよ、便所虫。汚物に寄るなたかるな話しかけるな。

 しっしっ、と私は手ではらう。私が汚物なら、柚木は便所虫である。

 柚木もとい便所虫は勝ち誇るような目を赤縁メガネのレンズに通している。レンズに私が浮かんでいる、序に犬飼も小さく浮かんでいる。

 柚木はぴっちりとしていた。制服も乱すことなく、きっと背を伸ばす。生徒手帳の見本みたいに私の前に存在している。長い髪は後ろで束ね、スカートも規定位置にひらりと翻る。顔立ちも良いものだから、外見で判断するなら完璧で、尚且つ優等生の型に嵌っている。中身は劣悪及び欠陥であるが。

 ――そんなことはどうでもいいわ。汚物、今日は用件があるの。これを汚物の叔父さんに渡してくれるかしら?

 赤縁メガネが鈍く光る。そして柚木から手渡されたものに私は目を疑った。




 ※


 の女は美しかつた。人ではない何處どこか野性的で妖しく艶やかな魅力があつた。

 彼の女の細い體には紅ひ帷子が氣映きばへしてゐた。紅葉のやうに深い紅、けれど光の加減で紅は明暗とその明るさをへる。

 その紅い帷子と同じやうな紅唇が、ほんのりと白く透いた顔に色をのせ、また美しく魅せる。切長の目は悍ましいくらいに紅くたぎつた色をうつしてゐる。

 彼の女はいとおしく黒い何かを撫でてゐる。黒い何かは丁度彼の女の兩手りょうておさまる大きさだ。黒いいとが幾筋も彼の女の指に絡まつてゐる。彼の女は笑つて黒い何かを撫でてゐる。彼の女の指は紅い。黒い何かや垂れる黒い絲達も所々に紅い何かがべつたりと付着してゐる。

 ――あぁ、さうか。彼の女は――。


 ※







 柚木から渡されたのは手紙だった。だが、封にハートマークは如何なるものか。これはもしかすると俗世間の、それも思春期の女学生の思いしたためた恋文か!? とそんな妄想と、柚木を蹴落とせる材料になるかも知れない、とそんな考えを持って自宅の玄関の扉を開けた。

 玄関から二階へ――自室へ向かう途中、リビングからは躁病染みた笑いが起きていた。私はそれを無視して階段を登る。

 私の部屋は今思えば女っ気が皆目無い。ふとそう思ったのは、柚木から渡された手紙の封にお粗末ながらあしらえたハートマークのシールの方が女の子らしい、と思った為だった。

 そのハートマークにさえ負ける私の部屋は、色も少なく閑散と部屋の機能を果たしている。

 私は登校カバンを机に置くと、先程から手にしている手紙を弄んだ。中身は気が引けるので見ないが、中身に興味が無い訳ではない。

 落ち始めた夕陽に手紙を翳す。中身は折られた内容が入っている。中身は黒い。文字など見えるはずがない。

 そもそも誰への手紙かと言えば、かの新人作家様宛て、夏川龍彦――パパの弟である。

 夏川龍彦は本名で、小説家夏彦で一躍名を上げた凄い、序に言えば髪が長い――男だ。

 その男宛ての手紙を私は出版社勤務のパパを通して渡して欲しい、と言うのが柚木の用件であった。

 彼女は知らない。夏彦がパパの弟であること、また本名を。

 私は小さな優越感を味わった。そして以外と女の子らしい所がある柚木を鼻で笑った。所詮は恋するなんたら、年上云々。馬鹿馬鹿しい。

 と自分を棚の上には置いてはいけない。私は柚木より危ない恋をしているのだから。それに柚木の手紙は恋文ではないかも知れない、ただの手紙かも知れない。

 私は手紙を机に置いた。そして部屋の模様替えをしようかな、と思いつつベットに横たわった。



 ※


 醫學いがく者として彼の女と出會であふ。もし、醫學者という關係かんけいがなければ彼の女とは出會へなかつただらう。

 わたくしは幼い頃に妹を戰爭せんそうで亡くした。その時、人の命は泡沫の如く、弱く脆く長くつづかないと知つた。

 わたくしは可愛い妹の素晴らしい未來みらいに憂い、醫學の道を歩むことにした。

 けれど、現實げんじつは上手く回らぬ。わたくしは上の手違いで、精神心理學の道を歩むはめになつた。だが、結果的に人を救へるなら、それにまだ可能性がない訳ではないと我慢した。

 かういつたわたくしの數奇すうきな人生が、日増しにみじめだと思ふばかりであつた。

 が、

 彼の女に出會へたのは何よりわたくしの醫者としての何かを呼び覺ましてゐくやうに思へた。

 ――彼の女は、さう、妹に似寄りしてゐる。大人になれば、きつと彼の女のやうに佳人となつてゐただらう。






 食卓に並ぶ熊のぬいぐるみ。ざっくりと三分割されたぬいぐるみは、千切りされたキャベツと一緒に皿にのせられている。

 ――今日はね、ふふふ、自信作よ。簡単に見えるけれど、意外と難しいんだからね。

 さと子さんはそう言って熊のぬいぐるみであった頭を口に放り込んだ。不可思議な噛み合わせの音がさと子さんの口の中で鳴る。多分であるが、目のボタンを噛んでいるのだろう。プラスチックのボタンが上下の歯に噛まれ、痛々しく噛み鳴らしていた。さと子さんは気にせず美味しそうに食べている。

 ――こんなの食べものではないわ。私は遠慮します。

 ママはそう言って席を立つ。今日はパパがいないのでママはむすっと不機嫌な表情をしている。それに食卓に並ぶ熊のぬいぐるみを見て食欲を削がれたようで、さらに不機嫌になって眉間に皺を寄せた。

 私も熊のぬいぐるみのお腹辺りが輪切りにされた部分から覗かせる綿を見て、食欲が削がれた。

 さと子さんはここ最近、変だ。食卓に出されるおかずが短冊切りにされたまな板であったり、今回のような食べられないような物が当然のように混在する。

 さと子さんは時々、こういう状態になる。料理らしきものを作るのはまだましな方である。最悪の場合、子供のように騒いだり、ふと悄然と項垂れ、それに意味も無く笑ったりしている。

 私はそんなさと子さんが一番さと子さんらしい、と思っている。それは大変失礼だとは思うが、普段が普段だけに喜怒哀楽の色が顔から込み上げてくるような感情の起伏の変化は、とてもさと子さんに人間味を与えているように思える。








 私は三分割された熊のぬいぐるみのおかずをおいて、部屋へ向かうことにした。席を立つと、さと子さんに『食べないの?』と言われ、食べないと返事をした。

 私は書斎に向かった。パパは仕事の関係で帰れないらしい。早くても明日の夕方近くに帰ると言っていた。

 今日はパパの顔が拝めないのかと寂しく思った。思えば思う程、恋しくなった。

 合鍵で書斎へ身を入れる。暗い部屋にパパの匂いが転がっていた。電気をつけて中へ踏み入れる。足を進ませると、転がっていたパパの匂いが舞って私をときめかせた。

 書斎はとても落ち着く。パパが遠くにいようと、こうしてパパの匂いを感じられるのは私の寂しさを和らいでくれる。けれど、段々と匂いになれ、寂しさは加速した。

 私はパパのいつも座る赤茶色の腰掛けに身を任せた。そしてパパを頭の中で描いた。

 頭の中のパパにはさと子さんやママは介在してこない。だからいつも以上に私を愛してくれる。私を見てくれる。それは至福である。

 パパは毎日ママの相手をして、そしてさと子さんをいつも気にかけている。優柔不断なパパであるが、全てをないがしろにするような温和な笑顔をするパパを、私は確かに愛している。

 私が望めば頭の中のパパは容易に従ってくれた。抱きしめて、キスして。私はその描いたパパと通常ではあり得ない出来事を想像しては悦に入る。

 そして、

 不意に現実がちらつき、仮想から引き戻されて、嫌なことを思いだした。

 ――私は血の繋がりがないんだ――と。

 私は胸一杯に空気を溜め込んだ。そして敷き詰めたパパの薄れた匂いをゆっくりと吐き出した。



 私がてる子と呼ばれるようになった時、時田千鶴ときた ちぎるは死んだ。

 そして私は私ではなく、生前のてる子として振る舞う偽りの生活を送り続けるしかなかった。けれど幾ら偽りだろうと、今のてる子として生きていることが私にはもう染みついている。離れようとも離れない。

 それに時田千鶴と呼ぶ者達がいないのだから、事実昔の私、時田千鶴はこの世には朧と色褪ている。

 時田千鶴の時、私は六歳だった。その日、両親は忽然と消え、ぽっかりと空いた広がりが私を必要に責めた。私は泣いた、寂しくて泣いた。そして両親を探しに家を出た。

 私は歩いた、何か手がかりがないかと地面を隈無く探してはとにかく歩いた。

 すると突然、畔が現れて足元がふらついた。何時間歩いたか、良くも覚えていない。けれど、私にはもう歩く気力すらなかった。

 泣いた。泣く気力だけは有り余っていた。泣くことで私はここにいると主張した。

 また何時間か掛った。そして一人の男が現れた。男は酷く哀れんで私に『大丈夫だよ』と優しく囁いて、手を差し伸べた。大きくて温かい手だった。

 それから私は夏川てる子として養子となった。

 夏川てる子は夏川紀彦なつかわ あきひこと娘である夏川玲子れいことの間に生まれた子供だった。だが、その子供は病弱で、四歳とならぬうちにこの世を去った。そこに身内がない私が穴埋めとして夏川家に迎えられることとなった。

 また玲子がてる子を産んだ年齢は十五、六の学生だった。勿論玲子は父親の子を生したとは口外出来ず、誰の子とも言わずに責め苦を甘んじて受けた。

 玲子はただ、父親が好きだった。そしてその証が欲しいが為に、自然と家族の形は歪んだ。

 世間は理由も知らずに誰の子か分からぬ子を生した玲子を、ふしだらだと蔑すんだ。そしてその玲子にたいして甘い両親を白い目で見続けた。

 私はてる子として生きて、まず初めに受けたのが他人の視線だった。他人は必要以上にひそひそと語らい、いやらしい笑いを浮かべる。それから私は他人の視線が気になった。

 私が軽蔑されているのは私がいけない子供で、かつ歪な家庭が後ろ楯している為だと思った。それは当たっていた。世間は型に嵌らない私の家庭を狂人だと思っている。それは自分達が普通だと思う為の安易な保身行為だ。それは私がしていたことでもあり、身を持って分かる。

 今までの私はそうしててる子としての人格を確定した。実際てる子が生きていたとしても世間の視線に、また紀彦と玲子との関係に憂い、悩んでいただろう。

 けれど、私はてる子として紀彦――パパに恋をした。血が繋がらない為なのか、自分でも分からないがパパが恋しくなった。

 とにかく私はてる子以上の感情を獲得してしまった。だが、その感情は時田千鶴という根っこから常時分泌されているものだった。







 結局、私は死んでも時田千鶴なのだ。そして上書きされた〈てる子〉という関係の楔が煩わしくて、そこに無尽蔵のときめきを与えてもらっているのだ。

 そのことに気付くと虚しくなる。私はてる子として生きてパパに恋をした。もしてる子という肩書きが消えた時、はたして私にパパにたいする思いはあるのか。それは恋ではなく、シチュエーションに酔っているだけなのでは? そう疑問に思うといてもたってもいられなかった。

 いけない私はついこの前、家出をした。たいした家出ではない。直ぐにパパが迎えにきてくれた。その時、私は時田千鶴か夏川てる子であるか分からなかった。いや、千鶴とてる子が混合していた。

 そんな中で、再度確認した。

 私は私で、パパを――紀彦を愛している、と。




 次の日、私は龍彦さんに電話をいれた。朝一だった為か、龍彦さんは緩くおっとりとした口調で受け答えた。私は柚木の手紙について話し、お昼頃に某所で龍彦さんと落ち合うこととなった。

 土曜日の昼頃、見知らぬ料理屋は人が多くも少なくも集散して舌鼓をうっていた。

 ――この飽きる屋のオススメは〈コーンポタージュ〉だよ。食べてみて、美味しいから。

 ――飽きる屋ですか? なんだか嫌なネーミングですね。

 私が飽きる屋を見渡していると、龍彦さんは店員を呼びつけオススメの品を二つ頼んだ。

 そして龍彦さんは長い髪をかき上げて、手慣れたように髪を紅いヒモで縛った。私はその質素な紅いヒモに魅入った。さりげないヒモが酷く綺麗に見えたからだ。

 私は幾分飽きる屋の雰囲気に慣れた頃、柚木の手紙を龍彦さんに渡した。龍彦さんは瞳を目のめぐりに置き、手紙に一瞥もくれないで飽きる屋の外を眺めている。

 私はどうしたものかと急激な置いてけぼりをくらい、据わりが悪く感じた。そこで私は少しでも会話を盛り上げようと龍彦さんに倣い、飽きる屋の外を良く磨かれたガラス張りから覗いた。

 一本の楓の木が人工の芝生から生えている。青々とした葉は何処にも見えず、手の平のように広がる葉に紅く明るい色が染みて、時折吹く風に負けまいと木にしっかりと携えている。

 ――最近寒いですよね。

 何を話せばいいのか分からない私は、考えあぐねた結果の発言だった。

 数日前からめっきり肌寒く感じていた。けれど、龍彦さんにどう関係があるか。寒いですよね、なんて友達に言うんじゃあるまいし。例え友達と話したとしてそれほど盛り上がることもないだろう。

 私は言った後で急に恥ずかしく感じた。







 ――てる子ちゃんは竜田姫たつたひめを知っているかい?

 龍彦さんは飽きる屋の外から視線を離すと、どっかりと背もたれに凭れかかりそう言った。

 ――いえ、初めて聞きました。

 ――秋を司る日本の神様だよ。裁縫が巧くて、それに染色も上手な女神なんだってさ。

 口許は嬉しそうに見えるが、目と鼻は馬鹿にしたように見下げている。龍彦さんの独特な表情なのだろうか、一見すると怖い気がする。

 ――その竜田姫がどうかしましたか?

 ――いやさ、ほらあそこに木があるじゃない? あそこにもし竜田姫がいたとして、いったい何人が気づくかな、ってね。

 そう言って龍彦さんは身を乗り出し、ほらあそこだよ、と指し示した。そこには先程見た楓の木が一本。それ以外は人工芝生しか見えない。

 龍彦さんは続ける。

 ――竜田姫は平城京から西に位置する竜田山に住んでいるって、昔の人は信じていたんだ。信じていたんだから、いるかいないかなんて分からない。けれどいないより、竜田山の綺麗な紅葉は明瞭としない竜田姫の存在で少なくとも神秘性を帯ている。そして確証もないのに人々は伝えるんだよ、竜田姫の住む山だ、とか。

 私は龍彦さんの口ぶりから全てを把握出来なかった。そもそも竜田姫とあの楓の木に何か関係があるのか、私は困惑しながらまだ話足りない龍彦さんに耳を傾け続けた。

 ――伝説が後世に語られるなら、竜田姫は生きている。実体はないけれど、語られたその時、言葉となって確かに人の中に竜田姫は息吹をする。忘れない限り、ね。

 龍彦さんはそう言ってから間をつくり、右手を心臓の辺りに導いた。そして何か感慨にふけているように瞼を閉じる。

 ――けれど。

 龍彦さんはゆっくりと瞼を開け、湿った瞳を露にする。たったそれだけの動作が何故か長く感じる。

 ――信じたとして、現実にはいないのだから、昔話だと片付ける。人間は身勝手だよ。話を作り命を与えて語り継いで、それが流行り物でなくなった時、語られなくなる。分厚い書物に綴じられて、学識のある堅物にあぁだこうだと論評の秤にかけられる。本当だったら話達だってもっと多くの読者の中で命を広げたいと思っているに違いないのに、興味を示してくれない限り、頁に身を縮めているしかない。

 龍彦さんは真剣な顔でそう結んだ。

 龍彦さんの言いたいことが何となくだが分かったように思える。

 話はフィクションであろうが登場人物の人生だ。

 その話を聞いたり読んだ時、読者のイメージに登場人物の像が結ばれる。その話を他人に語るとき、多少の誤差はあろうが登場人物は他人の中で像を結ぶ。それに話の中では生きているかのように登場人物は話したり動いたりとして、まるで文中では生きているといっていい。

 けれど、年月が経つにつれ人が老いるように、流行りに遅れ話も色褪ていく。そして話を知る人が亡くなれば、話はその人の分だけ命を無くす。話は読んでもらうだけ命があるのに、読む人が亡くなれば命は短い蝋燭に灯るしかない。

 龍彦さんはそんな話達を憂いているのだろうか。この飽きる屋でコーンポタージュを待つ合間に楓の木を見て憂いたのか。

 ――でも、今てる子ちゃんに竜田姫の名前だけ教えられただけでも満足だよ。人の記憶に少しでも残れば伝説やお話は生きるからね。……あ、コーンポタージュが来たみたいだよ。

 そう言って龍彦さんは先程の真面目な顔から子供のように快活と笑った。








 ※


(中略)


『彼の女の症状に就いて』


▼三日に一度、夢遊病の症状が現れる。夢遊病の彼の女は獸のやうな叫びごえを上げて、何處其處どこそこへと人知を越へた跳躍で空を舞ふ。

 翌日、臥し處にいつの間か横たわる。彼の女曰く、『體の節々が軋み、億劫に感じる』とのこと。その臥し處の周りはおびただしい鮮血が、雨が降つたが如くにわたずみをつくつてゐる。

 そして彼の女の枕許には、凛慄に強張つた表情のこうべが毒々しい血を染み込ませてゐた。


▼精神分裂病の疑いあり。被害妄想(子細:注察妄想、嫉妬妄想、家族否認妄想等)、幻聽げんちょう(赤子の産聲)等、典型的な症状。



『殺人事件に就いて 覺書』


▼被害者は皆十七、八にも滿たぬ若い男性。

 が死體は皆、頭が無く、現場付近には『ワタクシノ』と被害者の血で記される。

 頭がない為、身元確認は曖昧なりて、消息不明の若い男性としか判然としない。また、首と胴體を切り離した凶器は今のところ、〈〉である。


(中略)


 わたくしは醫學者として彼の女の患いを取りはらうべく、フエンサイクリジンによる原因を假定かてい。調査、幼少時に流れだまによる損傷、摘出時にフエンサイクリジン投與とうよの疑いあり。

 また心因過度のストレスなどによる精神的要因、環境的な要因が症状を激化してゐると假定。(戰爭で兄を亡くす、爾來じらい過保護に育てられる等)

 彼の女を救う手段てだて檢討けんとう。が、今日こんにちの醫學では治療に難あり。

 また、殺人事件が起こる。近隣住民も疑い始める。

 最善を、最善をくす。彼の女の為に――またわたくしの為に。


(以下略)


 ※




 遠くに柚木と上級生がいる。楓の木の下で、何か話をしているみたいだ。

 柚木と上級生がいるのは体育館の裏側に位置する場所だった。そこでは紅や黄色に染まった落葉樹が植えてあり、幾枚か地面に寝そべっている。

 柚木も上級生も体操服姿だった。柚木はいつものような優等生ぶり、皺一つなく、ちゃんと着こなしている。けれど一つ違う。髪形は後ろで縛らず、解放的で鴉の濡れ羽色がいつもと違う彼女を形象していた。

 学校行事の清掃活動時間だった。全学年が分担して学校近辺を綺麗にする。その一瞬だった。

 名前も知らない上級生が現れて柚木を連れだした。初めは委員会活動も積極的に参加していた柚木のことだから、そういった関係で連れだしたと思われた。確かに上級生は生徒会会長で柚木との関係はあながち無いとは言えない。

 けれどそれとは違う雰囲気があった。

 私は柚木と班が一緒だった。正直迷惑だった。班はぐちぐち文句を垂れるし、先生には早く行けと急かされる。

 私と犬飼はとにかく柚木を連れ戻すことにした。清掃活動をしなければ放課後まで残ることとなっていた。それは班として、迷惑に過ぎない。

 ――知っていますか? 楓の花言葉?

 柚木の力強い声が聞こえる距離まで近づく。柚木は私と犬飼に気づき、私に冷たい視線を送る。

 上級生はうろたえていた。どう言った経緯で、柚木に花言葉は? と言われたか分からない。だが、上級生にとってその質問は予想外に違いない。

 ――……花言葉は『約束』。私には大事な人との約束があります。それでは清掃活動があるので失礼します。

 上級生は振り返る。何かを言おうとしたが、私と犬飼が視界に入って口を噤む。

 秋風が上級生の感傷を拭うように通り過ぎた。上級生は秋の空を見上げ、蛙手の紅い葉がちらりと過ぎる。上級生はその一葉を手にして、何を思ったか。ぼんやりとただ見つめていた。








 ※


(中略)


 ご両親に了解を得て、彼の女を監禁することにする。監禁さえすれば少なくとも殺人事件とは無關係になると思つた為だ。

 もう皆、彼の女を疑つてゐる。事件と彼の女の關係が無いことを、證明しょうめいしなくてはならない。

 兩手首、両足首をなわで縛る。苦渋に滿ちた彼の女の顔は見るに耐えない。悲痛な叫びが耳をろうする。

 が、内なるわたくしは酷く興奮を覺へる。わたくしは醫學者として異常な感情を持ち始めてゐた。性癖としては通常な反應はんのうなのか、わたくしには分からない。

 けれど、

 彼の女のきりりと絞められた兩手首や兩足首を見るとつんと目が捉える。紅く痣になった繩の跡を、嫌でも見舐めてしまふ。

 ――彼の女は美しい。美しい體に傷がついてゐく。それを見た時、溶けたやうに心音は鈍る。胸が痛く感じる。


 幾日経つた。彼の女は大分落ち着きを見せたものの、食欲もなく生きる氣力も失せてゐくやうになつた。

 目は眼窩に窪み、影が落ちる。體も徐々に痩せ始めたやうだ。酷く醜くなり果てた彼の女に、わたくしは興奮よりも哀れみを抱く。

 が、監禁し始めてから今日まで、殺人事件は嫌味のやうにぴたりと止まる。

 考へたくないことばかりが、頭をよぎる。

 ――どうすれば……嗚呼、どうすれば。

 眩暈がする。酷い眩暈だ。


 ※




 書斎。

 傷ついた象牙色の扉。

 湿った匂い。

 本棚から落ちた本。

 壊れたスタンド。

 写真。

 ガラス片。

 さと子さん。

 ぬいぐるみ。包丁。灰皿。散った鏡。書類。

 それと、

 ママ?

 いつものように蔑んだ態度、私は何かしたでしょうか。

 あなたの子供じゃないから? 千鶴だから――てる子じゃないから? やめてください。私をそんな眼で見ないでください。

 あなたが父親に恋をしなければ、そもそも関わりもないのに。

 全て、自己責任ではないですか。やめてください。もう私だってあなたが戸籍上、親なんて認めたくない。私にはパパが――紀彦さんがいます。

 何ですか? 紀彦と呼ぶな? どういう意味ですか? 私には分かりません。

 嫉妬ですか醜いですね。そんなに眉間に皺を寄せて、威圧のつもりですか? そんな威圧的な態度、他人が見たらどう思いますかね。父親の子供孕んで、何が楽しいんですか? それ以前に子供の気持ち考えたことありますか?

 みんな、みんな私を見るのよ、不思議そうな眼で、私を哀れんでいる!! あんたさえいなければ、もしかしたら、もしかしたら。




 ※


(中略)


 人を殺すことに生きる價値かちを見出す。

 彼の女はまさに狂女きちがいだ。が、そんな狂女を好きになつてしまつたわたくしもどうやら狂人になつたやうだ。

いや、初めから狂人なのかも知れない。

 わたくしは醫學者として道理を外れた。人を殺めた。血を見た、見開いた目を見た、声を聞いた。その時、全身が震へた。何とも言へない快楽が全身が巡つたのだ。

 彼の女に頭を与える。酷く喜んだ。落ち窪んだめぐりに涙をためて、『ワタクシノ、ワタクシノ子供』と言ふ。


(中略)


 約束を交わす。彼の女に綺麗になつて欲しい。これは純粋な思いだ。どうすればいいか、綺麗にするには、どうすれば良いか。

 逡巡の末、考えが至る。これなら――もしくは。


(以下略)


 ※








 ある医学者はある患者を任された。

 その患者は統合失調症を患っている女性だった。

 患者は兄の病死にショックを受け、また両親に過保護に育てられていた。それは患者にとっては酷なことであった。

 それから眠れぬ夜が来る度に、患者は睡眠薬を服用するようになる。そして依存し、統合失調症、昔で言う精神分裂病を発病した。

 そこまでは患者、である。だが、この患者は何人もの若い男の命を奪った殺人犯なのである。

 患者は現行犯逮捕だった。犯行が行われてから三日後の夜、定期的に患者はある場所を基点に五km以内で犯行に及んでいた。それは容易に逮捕することが出来た。

 これでようやく連続殺人事件に終わりが見えると思いきや、犯人は急に自分を偽り始めた。

 もともと心的外傷から統合失調症を患っていた犯人は、一時的に解離性同一性障害を起こしていた。これは直ぐに症状がおさまるはずだった。

 だが、警察は犯人を現行犯逮捕し、証拠も十分にあることを理由に、犯人の一時的な言い逃れだと勘違いをしてしまった。

 長い長い取り調べだった。別の人格を形成した犯人にとって、あることないことを聞かれるのは拷問に類似していた。これにより、心的外傷は色濃くなり、一時的な解離性同一性障害が慢性的に現れるようになった。

 そこで呼ばれたのがある医学者だった。



 プラスチック越しに医学者と患者は向かい合う。この面会室では医学者と患者の二人きりだ。正確に言えば後ろに警察官が見守っている。

 「こんにちは」

 「こんにちは、てる子ちゃん」

 てる子と呼ばれた者は瞳に悲しみを潜ませて医学者を見つめた。医学者はもうてる子のその瞳に慣れている。何年も患者――てる子の担当医だったからである。

 医学者は話をしようと、切ろう切ろうと忘れて伸び放題な髪を後ろでまとめた。てる子の瞳が鈍く光る。

 「てる子ちゃん、実はもう時間がないんだ。僕はてる子ちゃんではなく千鶴ちゃんとお話したいんだ」

 「千鶴は私よ、けれどてる子も私なの」

 てる子はそういって可愛げらしく首を傾げた。

 医学者は焦っていた。今夜づけで患者から犯人にしなくてはいけない。どうにかしててる子を、千鶴に――殺人犯にしなくてはいけない。そうしなければ、担当から外されることになる。それは医学者にとって全てが水の沫だった。

 「昔、竜田姫のお話をしたよね。僕は竜田姫の話は人生だ、勝手に命をつくられて、分厚い書物に綴じられる。あの時、こう言ったよね。分かるかい? 竜田姫はてる子ちゃんなんだよ。そして分厚い書物が千鶴ちゃんなんだ。千鶴ちゃんはてる子ちゃんを勝手に作りだして、千鶴ちゃんという殻に閉じ込めて、てる子の世界を形成した。けれど、お話は読んでもらうことに意味があるはずだ。千鶴ちゃんだけ読むことは、てる子ちゃんの寿命を――人生を短くする。それは身勝手じゃないかい、千鶴ちゃん」

 医学者は興奮気味にけれど冷静にてる子――または千鶴の目を見つめる。

 最終手段はてる子という人格を根本的に破壊するしかなかった。何年と費やして結果が得られないのは医学者にとってプライドが許さなかった。

 ――一刻も早く。

 「何のお話です?」

 「てる子ちゃん、いや千鶴ちゃん! とにかく聞いてくれ」

 医学者はてる子――千鶴の言い分を制する。

 「僕は千鶴ちゃんにこうも言った。てる子ちゃんが家出をするといった時、僕は『よく考えるんだ、家出だなんて考えより、もっと簡単な方法があるかも知れない』と。これは千鶴ちゃんからてる子ちゃんの人格が頻繁に現れるようになって、てる子ちゃん自体が自我を持ち始めた時、僕が言ったことだ。その時から千鶴ちゃんはてる子としての疑似生活を幻覚するようになった――」

 医学者は困惑するてる子を見据えながら、話を進める。

 「――てる子ちゃんのいう〈家出〉は、千鶴という辛い過去から――殺人犯の記憶から逃れることをさしている。それは心的外傷がてる子ちゃんにとって害をなさない為に考えられた自己防衛本能だ。だから空想の世界のてる子ちゃんが無意識に発言した家出というのは、てる子ちゃんが千鶴という現実から家出をするということなんだ。てる子ちゃんはずっと逃げている内にあることないことを幻覚するようになった。けれど、千鶴としての記憶はまだあった。そして千鶴ちゃんとてる子ちゃんは少なからずリンクした登場人物や場面をつくりだした」







 千鶴かてる子は口をぱくつかせ、何かを言おうとしていた。

 医学者はとにかくてる子の人格を壊そうと焦りながらも冷静に真実を述べる。

 「てる子ちゃんの好きなパパ――紀彦あきひこ。てる子ちゃんの叔母にあたるさと子。てる子ちゃんのママにあたる玲子。これらは千鶴ちゃんの登場人物をオマージュし、設定を変えた仮想人物だ」

 「まっ、待って」

 てる子か千鶴は大きく見開いて、目のへりに涙を浮かべている。医学者はその一瞬間、言葉を呑んでしまったが、てる子か千鶴の意見を耳にして気持ちが揺らぐのが酷く怖く感じた。

 医学者はとにかく、真実を伝えることに専念する。

 「紀彦は千鶴ちゃんの兄として、さと子は紀彦の妻、玲子は紀彦とさと子の子供としてそれぞれ登場していた。これはてる子ちゃんの仮想現実と大差ない。そして千鶴は兄を――紀彦を愛していた。そこも変わらない」

 てる子か千鶴はびくりと強張る。口許は震え、徐々に理解したのか身をよじらせて、ここから逃げ出そうとしている。

 「けれど最愛の兄を病気でなくしてしまったね、千鶴ちゃん。それは確かにショックかも知れない。でも、その結果睡眠薬に依存して――そして精神分裂。千鶴ちゃんはそれから妄想にとり憑かれるようになった。注察妄想、嫉妬妄想、家族否認妄想それらに蝕まれ、無意識に殺害をするようになった。あの頃の千鶴ちゃんの妄想は肥大化していた。その膨れた妄想で千鶴ちゃんは兄との子供を作り出した――」

 千鶴かてる子にもう考える思考は無かった。医学者から真実を絶えず聞かされているうちに、段々と千鶴の記憶の鱗片を掘り返していた。

 それはてる子の人格崩壊の兆しだった。

 「――だけれどそれは妄想だ。ありもしない。そこで千鶴ちゃんは悩んだ、何故赤ちゃんがいないか。そして被害妄想へと発展する。そして、踏み外してはいけない所まで来てしまった。僕は言った、『普通も狂気も、恋愛はない』それは他人の目をあまりにも気にする千鶴ちゃんに対する言葉だった。あの時――兄が死んだ時、言いたかったんだろう? 人目を気にしないで『愛している』と……」

 医学者はここまで話してどっと疲れが襲ってきた。医学者はもう、あらゆる面でへとへとだった。

 てる子か千鶴は泣き崩れた。てる子としてか、千鶴としてか。してか。それは分からなかったが、泣く千鶴かてる子に医学者は見守ることしか出来なかった。

 数分経って、てる子か千鶴は鳴咽混じりに言葉を紡いだ。

 「それでは犬飼は? あれはありもしない登場人物なのですか?」

 「……そうです。あなたは登場人物のバリエーションを増やせず、既存する登場人物を縮小し、設定も少しいじくった。そして出来たのが龍彦をモデルにした犬飼。そして柚木もまたオマージュした登場人物だった」

 てる子か千鶴に驚きの色が現れる。顔は涙でぐしょぐしょだったが、柚木の名前が不意だったのだろう、かっと目を見開いた。

 「柚木は誰の……」

 「……玲子がモデルです。けれど、あなたは大きなミスをおかしてしまった。そして、てる子の世界に障害が現れ始めた。あなたは本当にてる子としての人生を歩み始めていた。だけれど、あなたの再構築した玲子は予想以上にあなたを苦しめた。あなたは玲子の設定を間違ったのです。そして玲子に嫉妬をし、仮想空間で自分の首を絞めていたんです。いずれにしてもてる子としての人格も崩壊に近づいていた」








 「もう、やめましょう。いくら紀彦が好きでも、仮想空間で紀彦と会話をしても、紀彦はもうこの世にいないんですよ」

 医学者は俯きながら、語った。今までまくしたてるように話していたので喉が乾いていた。気休めに唾を飲み込む。

 話してから時間は刻々と過ぎていた。数十分間に話していたつもりが、もう何時間も経過している。

 短い間をおいて、てる子か千鶴のすすり泣く声が消えた。医学者は千鶴かてる子に視軸を合わせる。

 「私は誰ですか? 私は千鶴ですか? 私はてる子ですか? 今の私はどっちの私ですか?」

 医学者にてる子か千鶴の質問は答えられなかった。けれど、医学者はこの質問を待っていた節があった。

 「中村さん、千鶴ちゃんにアレを渡して下さい」

 中村と言うのはてる子か千鶴のいる部屋の警察官である。中村は事務的にてる子か千鶴に何かを渡した。

 「これは……」

 「鏡です。鏡にあなたの求める答えがある」

 医学者は深呼吸をした。今までの長い時間が終わるかも知れない、そう思うと何故か懐かしく感じる。

 千鶴かてる子は躊躇いながらも、鏡を覗いた。そして覗き込んだ瞬間にひぃ、と短い悲鳴を上げた。

 「長い時間がかかりました。千鶴ちゃんがてる子として生きた時、千鶴ちゃんはてる子ちゃんの十三年分、歳老いた――鏡に映るのは誰ですか?」

 顔には皺が幾筋も深く刻んでいる。たるんだ顔の肉が陰をつくり長い年月を物語る。前髪は眉毛よりも短く、それまで気付かなかった白髪が入り混じっている。

 「そんな、そんなことって……」

 「千鶴ちゃんとして三十七歳。殺人犯として長い取り調べが三年。それからてる子ちゃんとして十三年。千鶴ちゃんは五十三歳になりました。それでもあなたはてる子ちゃんとして生きますか? 千鶴ちゃんとして罪を償いますか?」

 てる子か千鶴は鏡に映る自分にしか意識がいかず、医学者の言葉を聞き入れていなかった。その目は確かな真実を受け止めている。

 そして、

 医学者は医学者としての仕事を終えた。十三年、てる子か千鶴を担当しての今までが、ようやく終わりを迎えたように思えた。

 医学者もまた歳老いた。

 若い頃は作家として志していたが、兄の病死に、そして妹が殺人犯として逮捕された時、その頃から医学者の道を歩むこととなった。険しい道のりだった。

 だが、もともと医学者の兄が医者として生業をしており、医学者は兄からの知識を小説の構想に取り入れていたことがあった。それに兄の人脈にも応援する者がおり、医学者はようやく医師免許を取得した。

 医学者は妹を助けるべく、担当を申しでた。混迷に陥った警察の者達は、もうお手上げ状態だと医学者に半ば投げ出すように担当を任せた。

 その頃、まだ統合失調症ではなく精神分裂病だった。それに原因も全て仮説だった為、医学者は難儀した。

 医学者は考えた。妹を助ける為にはまず、心のケアをしようと。妹は二人の人格を共通していた。主につくり始めた人格だったが、その人格が意識し始めた。

 医学者は作家としての知識を使い、妹をヒロインにした物語りを書き上げた。妹が読んで塞いだ人格が現れればと考えた。けれど失敗した。

 妹は確実にもう一つの人格になり変わっていた。その頃から、妹は医学者を犬飼、龍彦と呼ぶようになった。医学者は妹の登場人物となった。

 それから医学者は妹の話を聞くようになった。妹は仮想空間で得た経験を包み隠さず語った。それは妹のもと人格の追体験だった。医学者は懐かしむように妹の『てる子のお話』を聞きいった。

 それは長い長いお話だった。


 医学者は最後の仕事をする。

 千鶴の精神心理状態及び経緯、てる子の人格形成及び症例それらを報告書に書き上げる。膨大な情報を全て書き込む。それらが一つにファイリングされ、お偉い医学者達に論究される。

 また、千鶴の物語りは有り触れた日常の中でニュースによって広がり、いずれ忘れられた。

 そして膨大な資料として一括に分類される。


 医学者は一日を終えて帰宅した。

 すると医学者の妻が玄関から『お帰りなさい』と出迎えた。

 その妻の表情は悲しそうに、けれど眉間に皺を寄せている。医学者は緩くおっとりとした口調で、

 「ただいま、玲子」

 と返事をした。

 秋の空も忘れ、吐く息は白く、冬の季節がやってくる。楓は全ての葉を散らし、樹皮に霜を作る。

 やがて朝が遅れて顔を出し、太陽は地上全てを照らすことだろう。まるで探し物でも探すようにして。





・文章力がないのでうまく伝わりにくい。

・長く書き過ぎて把握出来ず、中途半端な出来栄え。



以上が今回の反省点。

一つ目は文才のない自分を恨みつつ、これは読書量を増やし努力しなければいけない。


二つ目はプロット制作があやふやだったこと、また生半可な知識で書き上げようとした自分の未熟さ。


何事にも準備は必要だけれど、齧った程度の知識で個人的な文章なんてかけやしないんだなぁ、と後悔の嵐。



最後の太陽が云々は、てる子の癖を云々です。有り触れた結末ですが、最後まで読んで下さってありがとうございまーす。




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