[てる子]
[てる子]
大人に近づくにつれ疑問に思うことが増えた。
それが当たり前なのか、今では疑問を持たず生きていたことは途方もなく空虚に思える。
だから数ある疑問に悩む私は確かに生きている、と言いたいし主張したい。私はここにいる! と。
悩みが多い。思春期だからかも知れないけれど、私の場合は大人の苦悶するそれと似てる。際どくて悩まされ、際どい故にその行為に身を投じたくなる。
大人――か。
私はアホらしくなり、空虚なる吐息を広がり果てない青空に吐きかける。
青空は綺麗だ。のんびりと時間が過ぎ、長い雲が伸びている。
私が今いる公園は、騒がしい子供や休みをとる人もいなく閑散としている。ぷらんと鎖に繋がったブランコが悲しく軋んだ。遠くで鳥の鳴く声があかねを誘い、時間はもう夕刻を告げる。公園が段々とあかねに染まる時刻。
――てる子、もう帰ろうよ。
後ろの方で声をかけたのは私のたった一人の理解者、犬飼だ。
――犬飼、私はなんと言った。家出をすると言ったのだ! 私に帰る場所はない!
ふんと鼻を鳴らし、自己主張する私は自分で言った言葉に少し心を痛めた。
――てる子、だからって僕を連れまわすのはよしてよ。僕は家出をしようとはミジンコ程にも思ってない。
なよなよとした口調の犬飼は、その雰囲気と女々しさのせいで男としての魅力が欠如した男だ。犬飼は女男、とよく馬鹿にされるが強い否定もしない。犬飼はそれで満足しているのだから救えない。
――私は一人なんだぞ! これからどうすればいいんだ! 野に伏し目を塞ぎ息絶えろと言うのか犬飼!
――違うよ。まず家出って発想をやめてさ、家に帰ればいいんだよ。
犬飼は退かずに口答えする。私は少し言葉を失い、まだ赤みがかった空を見上げた。遠くに黒い鳥が悠然と飛んでいる。
――なんで家出をしようなんて馬鹿なことを。
馬鹿――私は馬鹿なのか。また一つ疑問が増えた。
私は犬飼の方へ向くと、あかね色に染まる犬飼に近づき、込み上げる溜め息を一杯に吐き出した。
――所詮私は馬鹿さ。自分の望み通りにならないからって、ごねてひねくれて家出をしようと思った私は馬鹿さ。
犬飼は情けない眉を吊り上げて問う。
――てる子は何が不満なんだよ?
犬飼の声に少しだけ、ほんの少しだけ、泣きたくなった。鼻の奥が焼けていくようになった。何故かは知らない。知らないけれどあの人に会いたいとふと思った。会って甘えたい、泣きたい、褒めてもらいたい。
けれど、
私は家出をしなくてはいけない。私はいけない子供だから、あの場所にいてはいけない。真実を知り過ぎた私が悪いのだ。
――てる子。
犬飼はぼそりと呟く。その呟きが黒の影に飲まれて、あかねが薄らいだ。もう夕陽も落ち初めていた。
――犬飼、すまないな。もう帰っていいぞ、私は遠くへ行く。何処か遠くへ。
そう言って私はとにかく足を進ませた。犬飼の影が伸びている。私の影は私より先にある。夕陽は真後ろで消えかかっている。
――てる子、よく考えるんだ! 家出だなんて考えより、もっと簡単な方法があるかも知れない!
いつにない強い口調で犬飼の声が背中にあたる。私は――遠くを見据えて歩いた。理由もなく途方もなく、ただ歩いた。いずれ壁に行き着き道が別れる。もし壁がなくても何処か袋小路に行き着く。とにかく、歩こう。歩き疲れるまで歩こう。
夜になると不思議と不安になる。
それは今まで明るかったからで、夜道を照らす外灯は太陽とは違うおぼろ気な発光をしているからだ。
私は歩いていた。見慣れた道だった。だから不安などありはしない。にもかかわらず、白い発光はやはりおぼろで、今にもぷつりと消えそうにしているから私もおちおちしていられないそんな気分にさせる。
夜道は果てなく一本道だった。暗くても知っている道だから、ここからずっと一本道が続く。
そこから道は別れ、右に行くと私の家を通る道になり、左を行けば畦道に繋がる。畦道まで行くのにこれまた時間が要するのだが、左は不自然に何もないただの一本道だ。
私が今歩いているのは一本道だが、ちゃんと外灯もあるし自動販売機だなんてものがでんと突っ立っている。
けれどこれから行こうとする畦道に繋がる左の道は、欠伸が出る程何もない。ただ、舗装もされてない砂利道が続き、急に畔が現れる。
実際のところ急に畔が現れる訳ではないが、私はいつも下を見て歩く癖があり前方に何かがあることに気付かない。だから突然足許に現れる畔にびっくりしてしまう。
暗い道が別れた。私は左へと進む。
ここから先が長い。砂利の道が遠くにかすみ、不自然なぐらいにずんと伸し掛かるようにして黒い空間が砂利道を包んでいる。
私はその砂利の感触を靴越しに感じながら、犬飼の声を思い出した。
――なんで家出をしようなんて馬鹿なことを。
家出をしようと考え至ったのは私がいけない子供だからだ。
だが、私がいけない子供だとしても、私の家庭は私以上にいけない関係を未だ実行しているのだから仰天物だ。
なのにママは顔を顰めて、いけない子――と蔑むのだから私は難儀する。ママだって私と同じじゃないか、とそんな鈍刀のような大して斬れぬ愚痴を零してはみるも、五十歩百歩似たり寄ったりのただの言い訳にしか過ぎない。
だから私には確実にママと対峙出来る術が必要だ。その術はパパが私に一言耳打ちしてくれれば全て収まる。そうすればママに勝てる、と思う。でもこれはパパ次第だ。
そんな野望を考えていると、目の前(正確には足許)に畔が現れた。
例のごとく、下を見て歩いていたので急に畔が現れた。長いと思っていたが案外速く着いた。
顔を上げると、黒い空間に埋まったようにして畦道が伸びている。畦道を中心に田んぼが左右対称に並んでいる。
ふぅと秋風が吹くとその穂並みは一斉に囁き始め、私を融然とさせた。
畦道から先はあまり覚えていないが、確か何かの建物があったはず。正直その先は覚えていない。
今私がここに立っている所は、私にとって思い出の場所でもある。
ここで――この畦道で私は泣いていた。寂しくて泣いていた。
私は昔、ここで迷子になっていた。私はその日例のように下を見て近くを散策していた。その癖のせいでこの長い砂利道を歩き、ここまで来た。子供の視点でしかも下を見て歩いていたから、突然現れた畔に頭を突っ込みそうなったことを今でも鮮明に思い出す。
私は途方に暮れ、うわんうわん大口を開いて泣いた。涙も不安や恐怖に押され、ボロボロと幾筋の糸を伸ばした。
そんな情けない私をあの人は――パパはいつの間にかそっと傍らに立ち
「大丈夫だよ」と言うのだから、私は救われる。
私の涙を親指で拭い、そっと手を差し伸べるのだから、私は高揚とする胸を押さえてしまう。
そんな昔を蘇らせて、確証のない助けを私は待つことにした。
そして夜が明けてもパパが来ないなら、本当に家出をしようと思う。
秋風は忘れた頃にまた吹いた。その秋風は優しく、黒い雰囲気に一枚の葉をひらひらと運ばせた。
その葉はゆっくりと宙を漂い、まるで生きているように黒い空間で踊って見せた。その度、葉は表裏と見せつけている。
やがて葉が地に着くと、残喘を保とうとかさかさと僅かに動き続けた。先程の優雅さは何処へやら、葉は惨めに地に這い蹲り命を乞うているように私の目に映った。
――てる子、ここにいたのかい?
黒い空間に白い塊がぼぅと現れた。
私は直ぐに白い塊がパパだと分かった。
――パパ。
今でも白い塊に身を投じたくなった。が、それは思春期の私には少し抵抗ある行為であった。私はパパの前では清楚で厳かにしているように心がけていた。パパに好かれるようにと。
――てる子、もう遅いから家に帰ろうか。
あの時と――昔迷子になった時と同じように傍らでそっと手を差し伸べるのだから、私は無性に安堵し、故に涙を流しそうになった。けれど、もうあの時とは体も心も大きく成長をしている。
だから、平然を装い言い訳がましく何かを言おうとした。
――パパ、と。
けれど、パパは私の言葉を遮り割り込んで淡々と優しく言う。
――てる子、いいかい? 僕は確かにてる子の父親さ、だからパパと言っても構わない。でも何度も言うように、家に帰ってパパなんて言っちゃあだめだよ。
皺のない白いシャツを着たパパは、そう言って微笑んだ。もう三十幾つを過ぎたパパは、歳相応の顔立ちをしてはおらず、いつまでも若々しい雰囲気をしては、苦労一つない呑気な顔をして綻んだりしている。そこが魅力的で、そこに甘えたくなる私はいけない子だ。
――いつまでママと関係を続けるの?
私は面と向かってパパに質す。パパは少し躊躇い片眉を吊り上げて困ったような顔をした。
――分からない。
パパは真っ直ぐに私を見るとそう言ってから寸時も入れず、すまないと謝った。
私の家庭は普通の家庭より歪だ。だけれど、ちゃんと均衡を保っている。もしかすると永久に崩れはしないのかも知れない。
その崩壊しそうな家庭の中で私はちゃんと歪に育った。けれど私はまだましな方だ。
私を産んだママはまさしく気狂いだ。なんたってパパの娘と言う立場のくせして際限なく愛しているのだから。
私の家庭は少し可笑しい。私は説明が下手なので上手くは伝えられないかも知れない。
ただ簡単に言うと、私がいつもパパと呼んでいる父親は、元々は私から見ておばあちゃん(パパの本妻)と夫婦関係をしている。
そのパパと本妻の一人娘が私のママであり、私はママとパパとの子供。つまり、パパは娘であるママの父親であり、私の父親もまたパパと言うこと。
ただこのことはパパの妻であるさと子さん(私から見ておばあちゃん)は知らないそうだ。
と言うより、さと子さんは少し抜けている所があり、何処かぼんやりとした女性だ。普段はきちんと主婦として仕事を全うしているのに、急に子供みたいにふざけたり、ただぼぅと惚けてみたりとしたりする不思議――いや、さと子さんもまた気狂いなのだ。
私のママ(さと子さんの娘)は物心がつく前からパパを慕っていたそうだ。子供の頃には良くあることらしく、大人になるにつれ父親を嫌悪し始めるのが一般的な症状らしい。
だが、私のママは家族の中で一番の気狂いなので、大人になった今でもパパを愛している。いつもべたべたとくっついて離れようとはしない、ただ図体が大きくなった子供である。そして剰えパパの種で孕んで、私を産み落としたのだから人間失格の烙印を押しざるを得ない。
と言う私も人のことは言えない立場だ。
私は十三と年月を数えても、私は未だパパのことを考えずにはいられないでいる。私もちゃんと狂人として着々と根付いているのだから救えない。
――で、結局は家出しなかったの?
隣の席に座る犬飼は、そう言って切り出した。
――うるさいわね、女男。私は高尚な煩いをどう打開するか、検討中なのよ。
私は犬飼の視線から逃げるようにしてノートの方に目を滑らせた。ノートは未だ白紙だった。
――まぁ本当に家出をしてたら、今頃学校は大事件だよ。
アハハ、と高笑いして犬飼は教室を眺めた。私もノートから目を離して教室を見渡した。教室はがやがやと騒がしく、雑多な話で充満していた。
――犬飼、あんたは呑気ね。私はこんなにも苦渋しているってのに。
――苦渋して家出するなんて子供のすることだよ。僕らはもう大人さ、そこら辺を忘れちゃだめさ。
そう言って胸を張る犬飼。まだ着慣れない制服は少し大きめだ。
――私の知る大人はまだ子供だわ。家出なんてあの大人に比べたら可愛らしいもんだわ。
ここで言う大人とは勿論ママのことである。
犬飼は女男と言われる根源である長い後ろ髪をいじりながら、
――そりゃあ、見てみたいね。
と言った。私はもう見慣れた犬飼の所作を見ながら適当に相槌を打った。
所詮は分かり得ない世界だ。いくら私を――わがままで屁理屈な私を理解しようと、その原因であるものが分からない犬飼には本当の意味で理解し合えない。
――いや、まず私が犬飼を理解しようとしていない。男のくせして髪を伸ばして、それが個性だ! と言い張るのだから私には分かり兼ねない。
けれどもし、パパの髪が長かったらそうも思わないかも知れない。とにかく私にとってパパはあらゆる基準だった。その基準から外れる人はどうも相容れない。
パパが小説を読むなら私は必ず読み耽った。これはパパの好みや考え方に少しでも同調しようとした為だ。
パパが料理をするならば、私はその料理に倣いパパの好き嫌いを見定めた。パパはどうやらナスが嫌いらしい。
そうやってパパから倣い学び取り入れ、パパ好みの女性へと近づく努力をしている。ここまでくると本当に救えない。
――てる子、まぁ家出なんて考えるなよ。てる子がいなくなったら僕、一人になっちゃうじゃないか。
――寂しい男だね、情けないったらありゃしない。私はあんたの為に存在するつもりはないよ。
私は結局、何も書かずにノートを閉じた。高尚な煩いの打開策はまだまだ時間が掛りそうである。




