11・《逆転の狼煙》
十年前。
腐乱した愛する者たちの首を目にし、全てから逃げ出したあの日。《深淵》はヘンリーの元にやってきた。
罪人として追われ、山中へと落ちのび、食う物も無く、飢えと渇きの中でただ震える彼に訪れた天啓。
閃くように、溶け込むように《深淵》は突如彼の頭の中に入りこんで来た。
古代の英知。おびただしい数の数式。確率計算。幾つもの遊戯の知識。
爆発的な量の知識が絶望に染まった頭の中を駆け巡ったのを昨日のように覚えている。
知識、興奮、苦痛、悲しみ、苦しみ、喜び。
今までの人生全てで得た物を遥かに超える《何か》がヘンリーの脳を掻きまわし、壊そうとする。
狂ってしまえばどんなに楽だっただろう。
死んでしまえればどんなに安らかだっただろう。
だが、彼は生き残ってしまった。
深淵の知識を得たまま。むざむざと絶望を胸に生き延びてしまった。
――爆炎の魔術姫には感謝しなければね。
心中で呟く。
一年前、小さな賭場を運営する中、ヘンリーは限界を感じていた。
胴元は間違いなく儲かる。生きて食う分では余るほどに。
だが、金は彼の絶望を埋めてはくれなかった。
その時だった。ヘンリーの元にフランシスカが現れたのは。
彼女はヘンリーに、《深淵》の概念と、より効率的に金を集めるシステムを提案してくれた。
フランシスカのお陰で、全てが繋がったのだ。
数年かけて磨いてきた、カモを熱くさせるヘンリーの手管。古代文明の人類が考案したシンプルかつ中毒性の高いゲーム・ルール。そして、爆炎の魔術姫の考案した《イカサマ》。
――これが、私の求めていたものだ。
小銭を抱かせ、大金を奪う。
市民から、為政者から、貴族から、男から女から年寄りから若者まで。
ありとあらゆる人間から希望を奪い、心を乱し、最後に再び世の中を争いと嘆きの世界へと戻す。
その先の事など、どうでもよかった。
どれだけの人間を不幸にしようと、生贄にしようと、家族は帰って来ない。
あらゆる事が可能と言われた古代文明の人類にでさえ、死者を蘇らせる事は出来なかったのだから。
短絡と言うのなら勝手に言えば良い。嘲笑えば良い。
だが、現実はどうだ。
辺境では反乱の意思が燻り、中央でもヘンリーに逆らうことができない者が加速度的に増えている。
城砦都市周辺は市民権さえも換金し、そして失った浮浪者で溢れている。
この賭博村の周辺でさえも、野草を喰らい、暴力により身を立てる者だらけではないか。
彼が望む世界が、間もなくやってくる。
貴族も市民も、金持ちも貧乏人も関係無い。
誰もが等しく、死と理不尽を受け入れなければならない世界。
――もう少し、もう少しだ。
胸の内を渦巻く昏い炎に焦がされながら、ヘンリーは歪んだ笑みを浮かべた。
彼の全てを奪った根源。深淵の智将の破滅が目の前に迫っている。
仇敵の命が、ヘンリーの手の内にある。
深淵の智将カエデを絶望に叩き落とした時、彼の復讐の狼煙が上がるのだ。
「あなたがたがずっと待っている《助け》ですが……来ませんよ」
喉を鳴らし、デックをテーブルに置く。笑いと興奮が、いくら抑えつけても止まらなかった。
「何を言っているのか分からないな」
カエデは惚けるが、それでも心の余裕が削られているのは手に取るように理解できた。
「既にあなた方の策は筒抜けだと言っているのです」
ならば、最後に告げてやろう。
彼の心を折るであろう事実を。
戦友が、裏切っているという真実を。
「何故なら、《爆炎の魔術姫はこちら側の人間》なのですから。最初からね」
カエデの顔色が変わる。
――勝った。
そう確信した瞬間。
突如、ヘンリーの体に強い寒気が走った。
そして、直後。
「ぎゃああああああああああ!!」
轟いたのは、テントを引き裂かんばかりの悲鳴。
声の源はヘンリーの向かい端。目を向けてはみるが、何も起きている様子はない。
何も無いはずの空間から上がる、男の悲鳴。あまりに不可解な事象。
だが、変化はすぐに表れた。
《テントの壁が、燃え始めたのだ》。
「おや? 何が起きたんだろうなァ」
炎に見向きもせず、対面のカエデが皮肉たっぷりに口にする。
――まさか、この男。
《システムに、気付いている?》
悲鳴と同時に炎が上がるのはヘンリーもよく知っている現象だった。
封魔結界が反応した時のものだからだ。
だが、不可解な事が二つある。
《炎が、結界の外から上がったのだ》。
そしてもう一つ。
《この炎は、本物だ》。
ヘンリー達の結界は、いわば虚仮である。魔術を打ち消しつつ、見た目ばかり派手な炎を上げる。目的がイカサマの防止なのだから当然だ。
だが、どうした事だろう。
燃え盛るテントの壁に向け、従業員が消化活動を行っているが、火の勢いは弱まる事を知らない。
まるで何者かの悪意――いや、憤怒さえも感じられた。
《お前たちを、絶対に許さない》と、誰かが言っているようだった。
「なあ、誰が裏切ってるって?」
大騒ぎのカジノ内にも関わらず、カットを終えたカエデが問いかける。
カエデは、不敵な笑みを浮かべていた。
既に資金は底を尽きたはずなのに。
それどころか、ホテルの権利書や全ての財産まで奪っているのに。
さらには、自らの命さえも危ぶまれているというのに。
彼は、ただ笑っていた。




