第15話 最後の告白
雨が降っている影響で、森を包む空気は冷えていた。雨と濡れた葉の匂いが、開けた窓の隙間から入り込んでくる。小屋の屋根を打つ雨音は絶え間なく、時折強くなってはまた細かな音へと戻っていった。
外は、昼だというのに薄暗い。
「……」
そんな中、エリアスは腕を組む、難しい顔で鍋を睨んでいた。火にかけられた鍋の中では、何かがぐつぐつと煮えている。その色はどうにも怪しい。灰色とも茶色ともつかない濁った液体が、泡を立てながら揺れていた。
「……何故だ」
材料は間違えていないはずだ。棚にあった本を開いて、書かれていた手順を何度も確認しながら、材料を適切に切って順番通りに鍋に入れたはずだった。
……はずだったのだが、どう見てもこれは食べ物の見た目ではない。
「これは……食えるのか?」
自分で作っておいて、自信がない。騎士団では料理などしたこともなかった。食事は厨房が用意するものであり、遠征の時は携帯食をかじるか簡単な炊き出しを受ける程度だった。火を起こし、鍋を扱い、味を調えるなどという作業は、彼にとっては剣の鍛錬よりも難しいことだ。
彼女が目覚めた時に、何か食べられるものを用意しておきたい。そう思って始めたのだが、この有様である。
「…………」
エリアスが鍋を見つめて深々とため息をついた、その時。
「エリアス。何をしているのですか?」
背後から、かすれた声が聞こえた。振り返ると、毛布を肩にかけたエルシリアが、寝ぼけ眼のまま立っていた。頬はまだ熱を帯びているのか赤く、髪も乱れている。普段ならきちんと結われている髪が肩に落ちているだけで、いつも以上に彼女の姿が儚く、可愛らしく見えた。
「起き上がるな。まだ寝ていろ」
「目が覚めてしまいまして。ずっと寝ているのも退屈なのですよ」
そう言って、彼女はふらりと一歩踏み出した。しかしすぐに足元が揺らいで、身体が傾く。彼は慌てて彼女の身体を支えた。
「ほら見ろ、まだ万全の状態じゃないだろう」
「……すみません」
「謝るくらいなら、寝ることだな」
「ですが……」
そこでようやく、彼女は鍋の存在に気づいたらしい。ぼんやりとした目でそれを見つめ、きょとんと首を傾げた。
「それは、何ですか?」
「粥だ」
「…………」
二人で、しばらく鍋を見つめる。二人の間に沈黙が落ちた。鍋の中では、何かがさらに泡立っている。
「お粥、ですか?」
「……その予定だったものだ」
エルシリアは一瞬だけ目を丸くし、それから堪え切れなかったように吹き出した。
「ふふっ」
「……笑うな」
「ごめんなさい。だって……」
肩を震わせながら、彼女は笑う。熱のせいか潤んでいるその瞳が、笑うたびに柔らかく細められた。
「エリアス、料理は苦手なのですね」
「……切るだけなら得意なのだがな」
「お料理は魔物ではありませんよ? 今のあなたの顔は、まるで魔物を相手にしているかのようでした」
「……」
エリアスが眉を寄せると、エルシリアはますます楽しそうに笑った。その笑顔は、あまりにも眩しい。
やはり彼女は、無理をせずに笑っている方がいい。ずっとこんなふうに、何も気にせずに笑っていてほしい。
「私もお手伝いします。一緒に作りましょう」
「駄目だ。君は座っていろ」
エルシリアは彼の隣に立とうとしたが、それを制止して椅子に座らせた。毛布を肩に掛け直して、背もたれにはクッションを置く。
「君は、そこから指示をしてくれ。俺が動く」
「……分かりました。お願いします」
「まず、何から入れるのが正しいのだ。この本には、葉から入れろと書いてあったが」
「そんなことどこにも書いていなかったように思いますが……。まずは、塩を入れます」
「これか」
「違います。それは砂糖です」
「……」
エリアスは無言で砂糖を戻した。すると、エルシリアはくすくすと笑い声を漏らす。
「エリアスって、可愛いところもあるのですね」
「からかうな」
「ふふ」
エルシリアは楽しそうに目を細める。エリアスはそんな彼女を横目で見ながら、少しだけ肩の力を抜いた。彼女が笑ってくれるなら、 自分がどれほど不器用であるかを知られても構わないと思える。
昼過ぎ。エルシリアが「少し喉が痛いです」と言ったので、エリアスは薬草茶を淹れようとした。だが、棚に並んだ薬草の束はどれも似たように見え、どれがどれだかすら分からない。
「まず、オオバコの葉を細かく刻みます」
「これか」
「違います。それは潰すと毒になります」
「……危なかったな」
「危なかったですね」
二人で顔を見合わせる。そして、どちらからともなく笑った。エリアスは微かに口元を緩め、エルシリアは肩を揺らして笑う。
「エリアス。あなた、何かを作るのには向いていませんね」
「……俺が一番分かっている」
「ですが、一生懸命なのは伝わってきました。ありがとうございます」
彼女は薬草の束を見つめながら、柔らかく目を細めた。
彼女の一言だけで、救われた気になる。彼女のために何かをすることが、こんなにも満たされるものだとは思わなかった。
夕方には、エルシリアの熱は少し下がっていた。彼女は寝台に横になっている。毛布を胸元まで引き上げ、まだ荒い呼吸を整えながら目を閉じていた。
エリアスは椅子を引き寄せて、その傍へ座る。小屋の中は静かだ。雨音だけが絶え間なく響いている。雨音と共に彼女の浅い呼吸音が聞こえてくるので、彼は落ち着かなくて仕方がなかった。
「エリアス」
不意に、彼女が名前を呼んだ。
「……どうした」
できるだけ平静を装って返す。エルシリアは天井を見つめたまま、少し間を置いてから尋ねた。
「あなたは、どうしてそんなに優しくしてくださるのですか?」
エリアスは息を止めた。違う。違うのだ。こんなふうに気を配って、こんなふうに手を尽くして、こんなふうに心を乱されることなど、彼女を相手にした時だけだ。エルシリアだけが、そうさせる。
それなのに、この感情をどう説明すればいいのか分からない。
「俺は……」
言葉が詰まる。喉まで出かかった想いは、あまりにも大きくてあまりにも重い。
好きだから。守りたいから。失いたくないから。
全ての想いを、伝えたいのに。
「俺は……その……」
情けない。自分は、一人の女性に想いを伝えることすらできないのか。
そんな彼を見て、エルシリアは小さく笑った。からかうような笑いではなく、安心したような、嬉しそうな笑みだった。
「エリアス」
とても優しい声で、名を呼ばれる。春の陽だまりのような、温かな声。
「好きです」
——世界の時間が止まったかのように思えた。
「…………え?」
頭が真っ白になる。心臓が嫌になるほど煩い音を立て、耳が熱い。今、彼女は何と言った。好き……好きだと? 彼女が、自分に。
その言葉を理解した瞬間、彼は勢いよく立ち上がった。
「お、俺も!」
声が裏返る。格好悪い。あまりにも格好悪いが、もう止められそうになかった。
「俺も……!」
拳を握りしめる。逃げるな。今しかない。今言わなければ、きっと一生言えないだろう。
「君を、愛している」
やっと、言えた。ずっと胸にしまっていた言葉。何度も飲み込んで、何度も諦めようとして、それでも消えなかった想いを、ようやく口にできた。
「……エルシリア?」
しかし、彼の言葉に対する応えはない。恐る恐る寝台を見ると、エルシリアは目を閉じていた。すぅ、と規則正しい寝息が聞こえてくる。
「…………」
いつの間にか、彼女は眠りに落ちてしまっていたようだ。エリアスはしばらく固まったあと、深く、深く息を吐く。
「聞いていないのかよ……」
思わず苦笑が零れた。残念だと思うと同時に、あまりにも彼女らしいと思う。人の心をこんなにもかき乱しておいて、本人はぐっすりと眠っている。そんなところまで、どうしようもなく愛おしい。
エリアスは寝台の傍へ寄った。眠る彼女の傍でしゃがみ込み、乱れた前髪をそっと払う。額に触れると、まだ少し熱かった。
「……好きだ、なんて」
あれはきっと、異性に対していったようなものではないのだろう。家族へ向けるような、友人へ向けるような、そういった優しさの延長。そう分かっているのに、期待してしまった自分がいる。
それでも……。
「君は、困った人だ」
彼は、心から愛おしそうに笑った。そして、彼女の額に優しく触れる。
「……おやすみ」
小さく呟いて、その額に触れるだけの口づけを落とした。
窓の外では、雨が上がり始めていた。差し込んだ夕陽が、小屋の中を淡く照らす。その光は柔らかく、眠る彼女の髪を金色に染めていた。
エリアスは、心の中で願う。
——どうか、この人が笑っていられる未来がありますように、と。
しかし、その願いが叶う日が来ることはなかった。




