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読切短編 部長のいない花見

作者: 黛 文彦
掲載日:2026/05/05

 俺は常に、桜前線を追いかけてきた。


 営業部長として三十二年。子供の頃に見た上野の夜桜を、俺はいまだに覚えている。


 東京に開花情報が出る頃には、俺は九州出張を終えて次の土地へ向かっていた。五月に北海道の桜が咲く頃には、今度は現地の社長と盃を傾けていた。「日本一早く春を見てきた男」が俺の自称で、部下たちは毎年それを聞かされた。 春は稼ぎ時だ。花見なんかしている場合か——俺は毎年、そう言って部下を急かしていた。


 来月、定年だ。


 退職パーティは会社の宴会場で開かれた。後輩の田中が幹事で、若い頃から目をかけてやった男だ。スクリーンが用意してあって、俺はてっきり表彰スライドか何かだと思っていた。


「部長の三十二年を振り返ります」


 画面に映ったのは、桜だった。


 満開の、見事な桜並木。見覚えのある公園だ。本社近くの、毎年花見をする場所。日付は四月の中旬——俺が九州に出張していた時期と完全に重なっていた。


 次のスライドも桜だった。場所が違う。でも日付はやはり、俺の出張期間中だった。


「部長が全国を飛び回っている間、私たちはお花見をしておりました」


 笑い声が上がった。


 スライドはまだ続いた。大阪の造幣局、名古屋の鶴舞公園、仙台の西公園。どれも俺が全国を飛び回っている時期に、本社近くで部下たちが開いた花見の記録だった。気づけば、三十年以上分の桜が並んでいた。


 田中が言った。


「部長が出張に行くと、みんな妙に機嫌が良くてですね。だから毎年、花見は部長の出張中でした」


 会場が沸いた。 少し遅れて、俺も笑ったが、喉の奥が少し詰まった。乾杯のビールが、少し苦かった。


 そういえば、と思った。


 俺は三十二年間、一度も花見をしたことがなかった。先頭を走り続けて、気づいたら桜の季節はいつも移動中だった。桜前線の先端にいると思っていたが、実際には——気づけば俺だけ、春に追いつけなくなっていたのかもしれない。


 最後のスライドには、こう書いてあった。


「来年の春は、一緒にお花見しましょう。」


 俺はグラスを持ったまま、少し黙った。


 窓の外では、夜風に花びらが舞っていた。


 三十二年分の春が、今夜ようやく、俺のところまで届いた気がした。

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