読切短編 部長のいない花見
俺は常に、桜前線を追いかけてきた。
営業部長として三十二年。子供の頃に見た上野の夜桜を、俺はいまだに覚えている。
東京に開花情報が出る頃には、俺は九州出張を終えて次の土地へ向かっていた。五月に北海道の桜が咲く頃には、今度は現地の社長と盃を傾けていた。「日本一早く春を見てきた男」が俺の自称で、部下たちは毎年それを聞かされた。 春は稼ぎ時だ。花見なんかしている場合か——俺は毎年、そう言って部下を急かしていた。
来月、定年だ。
退職パーティは会社の宴会場で開かれた。後輩の田中が幹事で、若い頃から目をかけてやった男だ。スクリーンが用意してあって、俺はてっきり表彰スライドか何かだと思っていた。
「部長の三十二年を振り返ります」
画面に映ったのは、桜だった。
満開の、見事な桜並木。見覚えのある公園だ。本社近くの、毎年花見をする場所。日付は四月の中旬——俺が九州に出張していた時期と完全に重なっていた。
次のスライドも桜だった。場所が違う。でも日付はやはり、俺の出張期間中だった。
「部長が全国を飛び回っている間、私たちはお花見をしておりました」
笑い声が上がった。
スライドはまだ続いた。大阪の造幣局、名古屋の鶴舞公園、仙台の西公園。どれも俺が全国を飛び回っている時期に、本社近くで部下たちが開いた花見の記録だった。気づけば、三十年以上分の桜が並んでいた。
田中が言った。
「部長が出張に行くと、みんな妙に機嫌が良くてですね。だから毎年、花見は部長の出張中でした」
会場が沸いた。 少し遅れて、俺も笑ったが、喉の奥が少し詰まった。乾杯のビールが、少し苦かった。
そういえば、と思った。
俺は三十二年間、一度も花見をしたことがなかった。先頭を走り続けて、気づいたら桜の季節はいつも移動中だった。桜前線の先端にいると思っていたが、実際には——気づけば俺だけ、春に追いつけなくなっていたのかもしれない。
最後のスライドには、こう書いてあった。
「来年の春は、一緒にお花見しましょう。」
俺はグラスを持ったまま、少し黙った。
窓の外では、夜風に花びらが舞っていた。
三十二年分の春が、今夜ようやく、俺のところまで届いた気がした。




