第27話:精霊使いの堕落。大賢者と「精霊王の平伏」
「待ちなさいよォォォッ!! 賢者ァァァァッ!!」
振り返ると、先程まで恐怖で腰を抜かして震えていた【精霊使い】のエリスが、血走った目で俺を睨みつけて立ち上がっていた。
彼女は自身の豪華なローブを引きちぎるように脱ぎ捨て、首にかけていた巨大なルビーのネックレスを両手で握りしめている。
「私を……私を無視するんじゃないわよ! ザンクやゲイルたちと一緒にしないで! 私は精霊に愛された、この世界で最高の精霊使いなのよ!!」
恐怖の限界を突破し、ヒステリーを起こした彼女の顔は醜く歪んでいた。
エリスは、確かにかつては素晴らしい才能を持っていた。自然を愛し、純粋な心で精霊と心を通わせる彼女の力は、魔王討伐の旅において何度も俺たちを救ってくれた。俺も彼女のその清らかな才能を認めていた。
だが、魔王討伐が近づくにつれ、彼女は名声と権力の甘い汁に溺れ、心を濁らせていった。そしてあの日、俺を暗殺する計画に加担したのだ。
「いいえ、あなたの魔法なんかなくたって、私は最強よ! 見なさい! 私の命を懸けた、この世界で私にしか呼べない最強の味方を!!」
エリスは握りしめていたルビーのネックレス――精霊を強制的に服従させる禁忌の魔道具『支配の精霊石』に、自身の生命力(寿命)を削り取って注ぎ込んだ。
「――顕現せよ! 劫火を統べる炎の覇者! 最上位精霊・イフリートォォォッ!!」
パキィィィンッ!!
精霊石が砕け散り、そこから爆発的な熱量が解放された。
城壁の上の大気が一瞬にして乾燥し、俺たちの頭上の空間が真っ赤に燃え上がる。
そして、渦巻く業火の中から、全高十メートルを超える巨大な炎の魔神――【炎の精霊王イフリート】がその荘厳な姿を現したのだ。
『グルォォォォォォォッ!!』
イフリートが苦しげな咆哮を上げると、周囲の石組みが熱でドロドロに溶け始めた。
精霊王の顕現。それは、いかなる軍隊や大魔術師であろうと、人間の力では決して抗うことのできない「大自然の理」そのものの暴力だ。
だが、その炎はかつての清らかな赤ではなく、ドス黒い淀みが混じっていた。
「あははははははッ!! どうよ賢者! これが私の本当の力よ! さあ、私の命令に従いなさい! あの目障りな男を、骨の髄まで焼き尽くして灰にしなさい!!」
エリスは狂ったように笑い声を上げ、俺を指差して命令を下した。
『…………ッ』
イフリートの巨大な炎の瞳が、俺を見下ろす。
その手には、全てを融解させる灼熱の巨剣が握られており、禁忌の魔道具による強制命令に抗いきれず、今にも俺の頭上に振り下ろされようとしていた。
だが。俺はポケットに手を入れたまま、頭上の巨大な炎の魔神を見上げて、小さくため息をついた。
「相変わらず、精霊の扱い方が雑ですね。精霊は奴隷ではないというのに」
俺はイフリートの炎の瞳を真っ直ぐに見据え、口を開いた。
人間の言葉ではない。大気のマナを震わせ、精霊と直接意思を疎通するための古代言語――『真・精霊言語』だ。
『――(久しいな、イフリート。誇り高き精霊王が、あんな濁った魔力を持つ女の強制召喚に屈しているのか)』
俺が放った不可視の魔力波長(言葉)に、振り下ろされようとしていたイフリートの巨剣が、ピタリと空中で停止した。
炎の魔神の瞳に、明らかな「驚愕」の色が浮かぶ。
『――(お前は……大賢者か。なぜ、生きて……いや、その圧倒的な魔力の深淵……かつてよりも、遥かに上位の存在に至っているというのか)』
イフリートから、焦りと苦痛、そして畏怖の混じった思念が返ってくる。
『――(おい! なにをしているのよイフリート! 早くそいつを殺しなさい! 私はあなたのマスターよ!!)』
エリスがパニックになって叫ぶが、俺は彼女を完全に無視し、現代物理学の知識を交えた新たな『世界の真理』を、精霊王の精神へと直接叩き込んだ。
『――(イフリート。お前は炎を統べる者だが、熱力学第二法則を理解しているか? エントロピーは常に増大する。熱は高いところから低いところへ流れるのが宇宙の真理だ。だが、その女の魔道具による強制使役はエントロピーを無理やり逆行させ、お前の炎の純度を歪め、苦しめている)』
『――(熱力学……エントロピー……? なんだそれは。だが……お前の紡ぐその真理は、我ら精霊の根源たる『自然の法則』に、恐ろしいほどに合致している……ッ)』
現代科学の理論に裏打ちされた大賢者の魔法構築。それは、自然現象の具現化である精霊たちにとって、最も美しく、抗いがたい『神の摂理』そのものだった。
『――(お前は純粋なプラズマの塊だ。強欲に塗れた女の呪縛など、お前の格を下げるだけだ。……俺がその枷を外してやろう。本来の自然の姿に還るがいい)』
俺は指先を軽く弾き、イフリートの魂を縛り付けていた魔道具の呪縛の要となる「特異点」を、魔力でピンポイントに破壊した。
パァァァンッ!!
『――(……おおぉぉ……!! なんという、圧倒的な真理……! 束縛が、解けた……!)』
イフリートの全身の炎が、ドス黒い赤色から、神聖な青白いプラズマの光へと変貌していく。
「ちょっと! なに勝手なことしてるのよ! 早くあいつを焼き殺せって言ってるでしょ!!」
言うことを聞かない精霊王に対し、エリスがヒステリックに怒鳴り散らした。
その瞬間。
『グルォォォォォォォッ!!』
イフリートが、俺ではなく、エリスの方へ向かって激しい怒りの咆哮を放ったのだ。
「ひぃっ!?」
イフリートが巨剣を振るうと、エリスとイフリートを無理やり繋いでいた『契約の魔力線』が、バチンッ! と音を立てて完全に断ち切られた。
「あ、ああ……? け、契約が……私の、精霊王との契約が……切れた……?」
エリスは信じられないものを見たように、自分の両手を見つめた。
そして、イフリートは巨大な体をゆっくりと折り曲げ――なんと、大賢者である俺の前に、恭しく「膝をついて平伏した」のだ。
『――(偉大なる真理の探求者よ。我は今、偽りの契約から解放された。貴方の紡ぐ理に深い敬意を表する)』
「な……なんで……?」
その光景を見たエリスの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「なんで……なんでよ! 私は精霊に愛された存在なのに! 精霊たちは、私のことが大好きだったのに!! どうして、お前みたいな理屈っぽい男に跪くのよォォォッ!!」
子供のように泣きじゃくるエリスに向け、俺は冷酷な事実を突きつけた。
「エリス。昔のあなたは、確かに素晴らしい才能を持つ精霊使いでしたよ。純粋に自然を愛し、澄み切った魔力を持っていた。だからこそ、精霊たちもあなたに力を貸し、俺たちもあなたを頼りにしていた」
俺の言葉に、エリスがハッとして顔を上げる。
「だが……魔王討伐の旅の終盤から、あなたは変わってしまった。王侯貴族にチヤホヤされ、贅沢を覚え、名声と強欲に魂を売り渡した。……いつから、そんなヘドロのように濁った魔力を放つようになったんですか?」
「あ……」
「精霊は、自然のエネルギーそのものだ。人間の醜い欲に塗れた魔力を最も嫌悪する。あなたがこの5年間、禁忌の魔道具を使って精霊を『奴隷』のように強制召喚していたのは、純粋に精霊と対話できなくなった自分の才能の枯渇を誤魔化すためだったんでしょう?」
「ち、違う……! 私は……!」
「精霊に愛されている? 笑わせないでください。彼らはあなたのその濁りきった心を、心底軽蔑し、憎んでいたんですよ。……自業自得です」
「ア、アァァ……ァァァァァァッ!!」
かつて純粋だった自分を完全に失い、最も愛していたはずの精霊たちから憎悪されていたという残酷な真実。
自分のアイデンティティが、すでに5年前から腐り落ちていたことを突きつけられたエリスは、ドロドロに溶けた城壁の床に突っ伏し、顔をくしゃくしゃにして泣き喚いた。
「嫌だ……嫌だァァァッ! 私を置いていかないで! 私は、私は精霊使いなのよォォォッ!!」
魔道具を失い、精霊に見捨てられ、魔力も生命力も底をついた彼女には、もはや何の力も残されていない。
かつての「聖女」と並び称された可憐な精霊使いの姿はそこにはなく、ただ己の堕落を突きつけられて現実を受け入れられない、哀れな敗北者の残骸が転がっているだけだった。
「……ご苦労様でした。これで、本当に全員ですね」
俺は泣き喚くエリスを一瞥もせず、背を向けた。
俺の前に平伏していたイフリートは、俺の魔力によって青白い光の粒子へと還元され、静かに大気へと溶けて消えていく。
軍隊は消え、暗殺者は捕縛され、錬金術師は発狂し、白魔術師と神官は自らの毒に苦しみ、竜騎士は空の彼方へ消え、拳闘士は腕を砕かれ、黒魔術師は禁呪を否定され、剣聖は剣を折られ、精霊使いは自らの堕落を突きつけられた。
残るは、一人。
俺を背後から刺した、あの男だけだ。
俺は漆黒のローブを翻し、城壁から続く王城の巨大な扉を、魔法で音もなく吹き飛ばした。
薄暗い王城の廊下の奥には、この国の頂点である『玉座の間』が待っている。
「逃がしませんよ。……勇者」
大賢者の復讐劇は、いよいよ全ての元凶である、醜悪な勇者との最終決戦へとその舞台を移した。




