第2話:58歳の末期病患者、最強魔法で完全復活する
『記憶解析』の魔法によって脳内から引き出した情報を整理し、俺はこの肉体の現状と、今置かれている状況を完全に把握した。
ここは俺がいた異世界とは全く異なる、魔法という概念が存在せず、代わりに科学と技術が極限まで発展した『現代日本』という世界。
そして、この肉体の元の持ち主である冴島宗一は、中堅商社に勤める58歳のビジネスマンだった。天涯孤独で家族はおらず、現在は末期の臓器ガンという不治の病に侵され、医師からは余命数日の宣告を受けてベッドに寝たきりになっていたようだ。
「元の魂はすでに病魔の苦痛に耐えきれず限界を迎え、天国とやらへ旅立った直後だったか。その空になったばかりの器に、タイミング良く俺の魂が滑り込んだというわけだ」
元の持ち主には哀れみを感じるが、俺にとっては好都合だった。生きた魂を押し出すような真似は、大賢者の矜持として気が進まなかったからだ。
さらに記憶の深淵を探っていくと、俺は驚くべき事実を知ることになる。
この冴島という男、勤め先の会社では覇気のない窓際族を演じ、周囲からは「うだつの上がらないおじさん」として扱われていた。だが、それはあくまで仮の姿に過ぎなかった。
彼は裏の顔として、世界経済の動向を見抜き、相場の波を正確に読み切る天才的な相場眼を持つ『個人投資家』だったのだ。
現在、彼の所有する複数の証券口座や海外の銀行口座には、合計で数十億ドル――日本円にして数千億円規模というとてつもない資産が眠っている。
「なるほど、金には全く困らないというわけか。異世界での生活基盤を築く手間が省けるのはありがたいが……」
ゴホッ、ゴホッ!
少し思考を巡らせただけで、肺の奥が焼け付くように痛み、激しく咳き込んでしまった。口元を手で覆うと、手のひらにはべったりと赤黒い血がへばりついている。
「……悠長に構えている余裕はないな。このままでは、せっかく転生したのに数時間後にはまた死んでしまう」
俺は痛みに呻く体を無理やり落ち着かせ、意識を丹田に集中させた。
大賢者としての膨大な記憶と、魔法の深淵に至る知識は、俺の魂にしっかりと刻み込まれている。まずはこの弱り切った体を蝕む病魔を、跡形もなく消し去るのが先決だ。
「最高位回復魔法――【完全治癒】」
手のひらに淡い聖なる光を集中させ、自分の胸へと押し当てる。
――しかし。
光はチカッと瞬いたかと思うと、パチッと小さな音を立てて無惨に弾け飛んでしまった。
「なっ……魔力が足りない、だと?」
俺は思わず息を呑んだ。
魔法の術式構築は完璧だった。呪文の詠唱も、イメージの形成も、異世界にいた頃と何一つ変わらない。
しかし、原因はこの五十八歳の病に侵された肉体そのものにあった。現代日本という魔法が存在しない世界で生きてきたこの体は、魔力を体内に巡らせるための「魔力回路」が完全に退化し、萎縮しきっていたのだ。
水道管が錆び付いて細くなっている状態に、ダムの激流を流し込もうとするようなものだ。大賢者の強大な魔法の出力に、この脆弱な器が耐えられるはずもなかった。
「……だが、不可能ではない。回路が焼き切れるギリギリのラインを見極め、極細の糸のように魔力を絞り出せば……!」
言うは易しだが、それは針の穴に嵐を通すような、絶望的なまでの精密な魔力操作を要求される神業だ。
しかし、俺は大賢者だ。この程度の逆境で諦めるつもりはない。
全身の毛細血管から血が滲み出そうになるほどの激痛と、細胞が悲鳴を上げる感覚に耐えながら、俺は再び魔法を構築した。魂の奥底に眠る大賢者の魔力を、限界まで細く、そして鋭く練り上げていく。
額から脂汗が滝のように流れ落ち、心臓が破裂しそうなほどに早鐘を打つ。
「【完全治癒】……発動ッ!!」
カァァァァッ……!!
次の瞬間、薄暗い病室が目も眩むような黄金の光に包み込まれた。
極限まで研ぎ澄まされた治癒の光は、俺の体内に深く浸透していく。それは暴走するガン細胞を細胞レベルで捕捉し、一つ残らず焼き尽くして死滅させると同時に、機能不全に陥っていた臓器を若く健康な状態へと強制的に再生させていった。
「ふぅ……」
数分後。光が完全に収まった後、俺は深く、そして清々しい息を吸い込んだ。
先程まで感じていた呼吸の苦しさも、鉛のような体の重さも、全身を苛んでいた痛みも、すべてが嘘のように消え去っている。
俺は体にまとわりついていた心電図のセンサーや点滴のチューブを無造作に引き抜くと、ベッドから降り、冷たい床の上にしっかりと両足で立った。
足元がふらつくことはない。力の入らなかった足腰には、確かな活力が満ちていた。
「病気は完治した。……だが、先程の魔法一発で、この肉体は完全に限界だな。俺の全開の魔力には到底耐えられない器だ」
俺の最終目的は、この平和な世界で余生を過ごすことではない。
異世界へ戻り、俺の背中を刺した裏切り者を見つけ出し、必ず報いを受けさせることだ。
そのためには、世界と世界の次元の壁を突き破る超高等魔法【次元転移魔法】を使う必要がある。しかし、今の脆弱な肉体でそんな途方もない魔法を使えば、空間のねじれと凄まじい魔力の反動に耐えきれず、体が木っ端微塵に吹き飛んでしまうだろう。
「この五十八歳の肉体を、俺の強大な魔法に耐えうる『最強にして不老の肉体』へと根本から改造する必要があるな」
俺は病室の窓ガラスに映る、自分の姿を見つめた。
そこにいるのは、白髪混じりで少し疲れた顔をした、中年の男。だが、その瞳だけは、かつて魔王を討ち果たした大賢者の鋭い光を放っている。
「まあいい。資産は腐るほどあるのだ。元の世界に戻る準備をじっくりと進めつつ……せっかく得た第二の人生だ。この『現代社会』という未知の世界を、少しばかり楽しませてもらおうか」
大賢者としての圧倒的な知識と、冴島宗一が遺した莫大な資産。
二つの武器を手にした最強のおじさんの、現代日本での新たな戦いが、今静かに幕を開けた。




