第14話 撃退と悲痛
ドラコが攫われた日の翌日、ヴァロは不穏な気配で目が覚めた。
昨日は村へ戻って早々、村の入り口で待っていたエルゼルに捕まってしまった。村につく頃にはナハトは眠ってしまっていて、そのナハトの血まみれ具合にエルゼルが悲鳴を上げ、その悲鳴を聞きつけてまた村人が集まりと、めちゃくちゃな事態になってしまった。
あとで全部説明するから帰らせてと懇願し帰ってきたら、今度は家の前にゴドがいて、こちらにも後日説明するからと言い含めて、やっとのことで解放されたのだった。
時計を見ると朝の6時。まだまだ早朝と言っていい時間だ。クローゼットは閉まっていて、耳を立てると寝息が聞こえてくる。
ナハトを起こさないように扉を開け外へ出ると、ああやっぱりなと思う。そこには血走った目で、怒り狂ったヨルンがいた。
「あいつを…あの野郎をだせ!!!」
「…ヨルン、静かにして。ナハトが起きちゃうから」
唾を撒き散らして叫ぶヨルンに、ヴァロは淡々と言葉を返す。
以前はあんなに恐ろしく見えたヨルンの顔は、吐瀉物と涎にまみれていて、とても見窄らしく見えた。
(「俺…ヨルンの何があんなに怖かったんだろう…」)
昨日、洞窟に駆け付けたときは、確かに恐怖を感じていた。足は震えていたし、まともにヨルンの目を見ることも出来なかった。
だけど今は、不思議なくらい、ヨルンを見ても何も思わない。あんなに涎垂らして汚いなぁとか、ナハトたちが起きちゃうから静かにしてくれないかなぁとか、目がすごい血走って痛そうだなぁくらいしか思わなかった。
「どけよクソ雑魚が!!あの野郎を出せって、言ってんだろーが!!!」
ふりかぶった拳がヴァロの頬を殴った。衝撃に頭の芯が揺れた。2回、3回と振り抜かれ、口の中に血の味が広がる。痛い。殴られた箇所がズキズキと痛み、熱くなる。
この拳で、ヨルンはナハトのことも殴ったのだ。殴られた頬よりも、じわじわとした怒りで頭が熱くなっていく。
「…何でこんな事をするんだ。あんな…あんな風に、何でナハトを殴ったんだ!」
「うるせーんだよクソが!気に入らないやつを殴って何が悪い!」
あまりに、あまりに酷い。あんなに小さくて、あんなに軽くて。ヴァロ達優等種と違って、木の破片なんかで肌を切るような人を、何故そんな風に殴れるのか。
「殺してやる…!俺様の事コケにしやがって…!ぶっ殺してやるから出せって言ってんだよ!!!」
「ううっ!」
殺すという言葉に、かっと頭に血が上った。
振り上げられた拳を避けて、ヴァロはヨルンの胸ぐらをつかむと、そのまま地面にたたきつけた。
「げぇっ!!」
ヨルンがつぶれたカエルのような声を出した。
だがヴァロは力を緩めず、そのまま喉元を押し付ける。その拳を外そうと暴れるが、ヴァロの方が力が強かった。馬乗りになって、拳を振りかぶる。
「放せクソ野郎が!!!」
振りかぶった拳を振り下ろせないでいると、ヨルンが押さえつけられながらもにやりと笑った。右手で砂を掴んで投げつけられ、思わず手が離れる。その瞬間を狙って、ヨルンはヴァロを蹴り、走り出した。
「てめえの相手は後だ!」
向かった先はヴァロの家。長く鋭いヨルンの爪に、ナハトとドラコが引き裂かれる瞬間がよぎった。
「おまえなんか…!お前なんか!!!」
「ぎゃああっ!!」
ヴァロは一気に距離を詰めると、その背中に拳を叩きつけた。グシャっと骨がつぶれる音がして、ヨルンが地面を転がる。必死に息をするようにあけられた口に向かって、そのままさらに拳を叩きつけた。潰れた鼻から血が噴き出した。歯も折れ、衝撃で地面にヒビが入る。
「ひゃ、ひゃめ…ぎゃぁあ!」
ヴァロの拳を逃れようと動く頭を押さえつけ、もう一度拳を振り下ろすと、ヨルンは白目を向いて泡を吹きだした。だがヨルンのそんな様子にヴァロは気付かず、また拳を振り上げた。
その時―――。
「そこまでだ」
とん、と肩をたたかれた。はっとして振り返った先には、呆れたような顔で佇むナハトの姿があった。
「ナ、ナハト…」
「まったく、何をしてるかと思えば…君は、暴力は嫌いじゃなかったのかい?」
そう言われて、一瞬のうちに滝のような汗をかいた。震えた足では支えきれずにしりもちをつくように後ろに倒れこんだ。怒りに任せて殴った手は拳が裂け、震えて、ヨルンを押さえつける手が震えて。そうして息をすることも忘れていたことに気が付いた。慌てて呼吸をするも、喉がひりついて、浅い息を繰り返す。
そんなヴァロの様子に、ナハトは小さくため息をつくと、ダガーで親指の腹を切った。溢れる血を地面に着くと、そこからまた神秘の花が現れた。
「拳をこんなにしてしまって…ヴァロくん、君は馬鹿だねぇ」
握りこみすぎて固まった指を、ナハトが丁寧にはがしてくれる。興奮していた為痛みはないが、ヴァロの拳は裂けて骨が見えてしまっていた。その傷に蜜が垂らされると、あっという間に傷口はふさがった。
だけれど、ヨルンを殴った右手は重く、震えは止まらない。
ヴァロの拳が治ったのを確認すると、ナハトは残りの蜜を、泡を吹いているヨルンの口に流した。傷が6、7割回復したのを確認すると、その右頬を全力ではたいた。
「……」
「ふむ…」
「ナ…ナハト…?」
そのまま何度か乾いた音が続くと、やっとヨルンが目を覚ました。
ナハトを見て、その後ろにいるヴァロを見て、情けない悲鳴を上げる。
「目が覚めて良かった。…ヨルンくん、君…今死ぬところだったのだよ?」
にっこり笑って近づくと、その分ヨルンは後ずさる。しりもちをついたまま、情けなくも震えている。そんな彼の胸ぐらをつかむと、ナハトはそっと耳に口を寄せた。小さな小さな声でつぶやく。
「…彼の拳の味はどうだった?…鼻が潰れ、骨が砕け…頭が地面にめり込むほどの衝撃は…気持ちよかったかい?」
「うっ…うわぁあああああああああ!」
「おっと」
ナハトの手を振り払ってヨルンは脱兎のごとく逃げ出した。あの様子では、彼はもう戦えないだろう。これからは拳を振り上げられただけで記憶がよぎるはずだ。
「さて…」
振り返ると、そこには己の拳を見つめているヴァロがいた。両手を握ったまま、震えている。
「ングー」
「おや、ドラコも起きたのかい?…ありがとう」
そのヴァロの後ろから、ドラコが丸めたタオルを加えて走り出てきた。タオルを地面に着けないよう精一杯のけぞって、そのままナハトの肩まで登ってくる。
タオル受けると、それを広げてヴァロの頭にかけた。
「…人を殴った気分はどうだい?」
「………最悪の、気分だ…」
「そうだろうね。…だというのに、何故彼を殴ったんだい?」
ぽんぽんと頭をなでると、ヴァロは言い淀み―――結局口を閉ざした。
言いたいことを探して口を開けたり閉じたりせず、引き結んだまま何もしゃべるつもりがないのを見て、ナハトは少し呆れて息を吐いた。
「言いたくないなら、もう聞くことはしないよ。ただね、君はもうその拳をふるってはいけないよ。ヴァロくん、君は根本的に暴力は向いていない。心を壊したくなかったら、もう2度としないことだ」
ヴァロは小さく頷いた。




