6-3
窓の外は、新月の闇に包まれていた。
蝋燭を点した室内にいるアモルの足下には、描き終えたばかりの巨大な魔法陣が、静かに時を待っている。
エルシア・ワーグナーが生前、研究していた不完全なものとは違う。
アモルとエルシア、魔法使い協会の掟に反した二人の魔法使いが組み上げた渾身のもの。
元々は、舞踏会などに客人を招くためのだったのだろう。
他の階のように部屋が区切られておらず広大な室内には、色褪せてくすんだ絨毯が敷き詰められている。
巨大なシャンデリアが天井のいたるところに吊されていて、かつて使われていたテーブルや椅子、飾られていた高価な壷や絵画の残骸がそこかしこに転がっている。
普段は立ち入らない館の、その三階のフロアにアモルはいた。
傍らでは、幻惑魔法をまとった赤い髪の女が微笑んでいる。
「さあ、アモル様。これで私たち魔法使いは無敵よ……ふふふ。魔物を召喚して、尽きることのない魔法の源泉を手に入れるの。魔法使い協会ではない、真に魔法使いのための、新しい秩序を生み出すのよ」
「…………」
「今更、何をためらっているの?」
「いや……」
──何か、変だ。
アモルはこめかみを押さえた。
頭が霞がかったようにぼやけている。
考えようとする意思がくじかれて、香水のきつい香りに押し流されていく……。
うわごとのように言った。
「……魔法の源泉として、魔物をよび出せば、取り返しのつかないことになる……」
「だから、何だっていうの? 私たちを苦しめた奴らがどうなろうと知らないわ」
赤い髪の女はいらだたしげに肩をすくめた。
血を思わせる深紅のロングドレスをさばいてアモルに歩み寄り、思わせぶりに肩を抱く。
胸元から銀の鎖に吊した香炉を取り出すと、幻夢の霧が一層濃く漂った。
知らず知らずのうちに、アモルはその甘ったるい香りを深く深く吸い込んでいく。
女に身を預けるように、くたりと身体の力が抜けた。
「思い出して……アモル様。彼らこそ、私たちの犠牲なんて気にしなかったじゃない。私たちが魔法を使うリスクなんて気にせず、都合のいいときだけ『魔法使い様』って崇めて使い捨てにしてきた」
妖艶な魔性の女が、耳元でささやく。
熱い吐息が、妙に心地よかった。
揺り戻されていた頭痛が再び静まっていく。
「アモル様、もう世界のことなんか考えなくていいんです……お願い、私だけを見て。二人で幸せになりましょう」
「……」
「さぁ、私と一緒に詠唱して……──」
女に優しく促されて、アモルは一歩、魔法陣の方に踏み出した。
両手をかざし、自身の生命エネルギーたる魔力を注ぎ込む。
空気中に存在している四大元素が、寄り集まるのではなく、反対に恐れおののいて逃げていくのを肌で感じた。
何もないところから、この世ならざる空間に時空を繋げて、異形の存在を引きずり出す──まさしく、無から有を生み出す召喚魔法。
その禁忌の術式が、発動しようとしている。
魔法陣が怪しく発光するにつれて、女が愉悦の笑みを刻んだ。
「異界に巣くう闇を揺り籠とする者よ、異なる摂理に縛られ魔力を拠り所としてさ迷う者よ、我が呼びかけに応えよ。我が契約に応じ、この世界に姿を現せ──……」
巨大な魔法陣の中心に、奇妙な時空のゆがみが生じた。
何もない虚空に亀裂が走り、この世ならざる堕気がアモルたちのいるホールの空間を染め上げる。
古びたシャンデリアが強風に煽られ、転がっていた家具や調度品があまりの衝撃に軋みをあげる。
──その物陰から、複数の人影が飛び出した。
「──させるかっ!」
死角から羽交い締めにされたアモルがたたらを踏む。
「……っ!?」
「アモル様!? ……くっ!」
赤い髪の女も別の人物に背後から捕らえられ、身動きがとれなくなった。
「アモル、おまえどうしたんだよ! こんなの、正気の沙汰じゃねーぞ!」
「何かに操られてるみたいだ……この子もすごい力だよ!」
物陰で息をひそめていたダイス・グストフとマクウェル・ショーンズに取り押さえられて、アモルと女はなすすべもなく立ち尽くした。
「おまえら……始めからこの部屋に!」
「ピンポン、ご名答。リリーが、ここに来るんじゃねーかって踏んでたからな」
いらだちを隠さないアモルに、ダイスがニヤリと笑う。
同い年の少女の身体らしからぬ抵抗を押さえながら、マクウェルが言った。
「リリーさん、ティナさん、魔法陣を壊して! それが異様な魔力を生み出してるっ」
「はい!」
「任せてくださいっ」
「……っ!?」
別の物陰からリリーとティナ・ランドールが飛び出すのを見て、マクウェルに捕らわれた女が、悪鬼のごとく叫んだ。
「その魔法陣に触るなぁっっ!」
「……!?」
「きゃあ!」
何もない空間に小型の黒雲が発生し、魔法陣に駆け寄ろうとしていたリリーとティナの周りで雷鳴が爆ぜる。
術者もいないのに発動した魔法に、ダイスとマクウェルも呆気にとられた。
「リリー! ……ティナ!?」
「いったい何が起こって……ぐあっ!」
突如、間近に発生した火花の刺激に翻弄され、ダイスとマクウェルが弾かれたように吹っ飛ばされた。
「ダイスさん……マクウェルさん!」
リリーとティナが二人の少年の元に駆け寄る中、拘束から自由になった女が嗤った。
「ふふふ。よくやったわ……私のかわいいしもべたち」
黒猫と魔術人形がどこからともなく現れ、リリーとティナ、ダイス、マクウェルの前に立ちはだかった。
黒猫は全身の毛を逆立て、魔術人形は煤けた身体をぎこちなく動かしながら迫ってくる。
リリーたち四人はたちまち部屋の隅に追い詰められた。
「ねねね、猫が魔法使った!? 人形も動いてるし……」
「ダイス、変なところに感心してる場合じゃないよ」
「いや、これどう考えてもおかしいだろ……って、おまえ何、木札出してんだよ!」
魔法を発動するために木札を掲げているマクウェルを見て、ダイスがさらに動転した。
「いいか、マクウェル。落ち着いて胸に手を当ててよーく考えてみろ。……俺らが百人集まったって魔法で敵うわけないだろ!?」
「そんなの、やってみなくちゃわからないよ」
「いや、やってみなくてもわかるって! ムリムリムリ。魔力切れ起こして全員ダウンするのがオチだって!」
「じゃあ、このまま黙ってやられろって言うのかっ?」
冷静なようでいて、マクウェルも相当、混乱している。
いつもは温厚な横顔に焦りが色濃くにじんでいた。
ダイスとマクウェルが揉め合っている間にも、黒猫と魔術人形は徐々に距離を詰めてくる。
必中の距離で魔法を仕掛けようとする彼らに、リリーとティナが叫んだ。
「あもる……お願い。アモル様のところに行かせて!」
「ランちゃんっ!」
少女たちの願いもむなしく、黒猫の頭上に小さな黒雲が形作られ、魔術人形の両手からは火花が散って、無情な攻撃に備える。
リリーは遠く離れたアモルの方に向き直った。
「アモル様……この子たちを止めて!!」
「あらあら。聞くわけないじゃない。貴方の言葉なんか……ねぇ、『アモル様』」
リリーたちが追い詰められるのを見て表情ひとつ変えないアモルに、女はくすくすと腕をからめた。
胸元に銀色の香炉が揺れている。
アモルは無関心な眼差しでリリーを見た。
すみれ色の瞳に少女を映して、訝しげに首を傾げた。
「──おまえ、誰だ」
砂漠の砂よりも乾ききった声音に、リリーは愕然と凍り付いた。
「アモル様……? 私がわからないの?」
「ただの虫けらよ、アモル様。気にすることないわ」
妖艶な魔性の女が、アモルの傍らで思わせぶりに嗤う。
リリーの緋色の瞳には、ガブリエラ・モンドという名の少女がアモルに腕をからめているのが映っていた。
執拗なまでの嫌がらせをしてきた少女がアモルと親しげに話しているのを見て、押し寄せてくる絶望に呑み込まれそうになる。
(なんで、ガブリエラなんかと……)
拳に血が通わなくなって白くなるまで握りしめた。
いつから……、という疑問が否応なく湧き上がった。
いつからアモルはガブリエラと通じていたのだろう。
リリーが嫌がらせを受けているのを、知っていて。
心配するふりをして……本当は、陰で、ガブリエラと二人で嘲笑っていたのだろうか。
(……嫌だ……)
──……誰よりも信じていたのに。
アモルが魔法使いにならないかと誘ってくれたとき、嬉しかった。
魔法学院で再会して、幼い頃の約束を覚えていてくれて、心の底から救われた気がした。
二人でなら──
世界を変えられると信じていた、のに……。
ガブリエラの身体に宿った魔性の女が、親しげに肩を抱きながらアモルにささやく。
まるでリリーに見せつけるかのように、愉悦に唇をゆがめながら。
「そうだわ、アモル様。せっかくだから、私たちの邪魔をしてくれたこの子たちに異界の力を見せてあげましょう──私たちの魔法の力で」
歓喜に目を細める女に応えて、アモルが眉ひとつ動かさず、おもむろに木札を掲げた。
詠唱とともに、巨大ないかづちの球が頭上に現れる。
黒猫や魔術人形の放っていた魔法が児戯に見えるほどの。
室内に異様な魔力の渦が巻き起こっていく。
ダイスが引きつった笑いを浮かべた。
「な、なんであんな強力な魔法使えるんだよ……いくらアモルでもおかしいだろっ」
「魔法陣がもう異界に繋がってるんだ。そこから魔力を取り出して強くなってる……!」
異様な輝きを増していく雷球の光を腕でさえぎりながら、マクウェルが言った。
「あんなの食らったら、ひとたまりもないですよぉ!」
空間を引き裂くような電火がバリバリと耳障りな音を立てる中、マクウェルにかばわれたティナが悲鳴をあげながら身を丸めた。
「アモル様、やめてぇぇ!」
リリーが悲痛に叫んだのと同時に、アモルが詠唱を終えた。
黒猫と魔術人形の魔法と合わさって、巨大な雷の球がリリーたち四人の眼前に迫ってくる。
「さぁ……アモル様。憐れな虫けらどもに──死を」
空間をまばゆい閃光が満たして目も開けていられない。
すべてが白に塗り替えられた世界で──
──光が、音を置き去りにした。




