5-7
「うぁ……っ!?」
深夜の館で机に向かっていたアモルは、突然襲ってきた頭痛に呻いた。
頭を万力で締め付けるような痛みが津波のように押し寄せてくる。
(な、何だ……!? 何が起こってる?)
手伝いに来ていたリリーはもう既に帰って、館にいるのはアモル一人だった……はずだ。
だが、アモルは背後に誰かの気配を感じて振り返った。
エルバンス魔法学院の制服を着た少女が立っていた。
「……ガブリエラ・モンド……?」
クラスメイトの一人だった。
いつも取り巻きの少女たちに囲まれている女子で、直接、話したことはなかった。だが、名前は覚えている。
どうして彼女がこんなところにいるのか……必死に考えようとするが、頭が痛くて思考がうまく働かない。
明らかに具合の悪そうなアモルを前にしても、少しも動じていないのが妙だった。
アモルが直前まで机に広げていた黒魔術の文献を覗き込んで、くすりと笑った。
「ふふ。わたくしの影を追い求めて、こんな深淵にまで足を踏み込んだのね。かわいいアモル……かわいそうな子」
「……母さん……?」
愕然と、アモルは呟いた。
そんなはずはない。
母──エルシア・ワーグナーは三年前に死んでいる。
……だが、クラスメイトの口から出た言葉は確かに母のものだった。
(夢でも……見てるのか?)
割れるような頭痛が消えず、視界が蚕食されて白く霞がかっていく。
(何か、術でも、かけられたか……?)
そう思っても、金縛りに遭ったかのように動けない。
息を吸い込み損ねた喉が、ひゅっと嫌な音を立てた。
苦しんでいるアモルとは対照的に、少女はその場でくるりと回ってみせた。
制服のスカートが、可憐な花のようにふわりと広がった。
「……どう、この姿? 昔はわたくしもこうやって魔法学院の制服に身を包んでた。おまえには想像もつかないでしょうね。ふふ」
かつて可憐な少女だった頃を思い出して、歌うように言葉を紡ぐ。
「今でも校訓を覚えてるわ。『少年たちよ、驕るなかれ。少女たちよ、忘れるなかれ。我ら、偉大なる力の使徒。民のために我が身を捧げん』……あの頃は疑いもしなかった。魔法はわたくしたちみんなを幸せにしてくれるんだって、純粋に信じてた……」
──……その「みんな」の中に魔法使いが入っていないと気付くまでは。
少女の顔に似つかわしくない倦怠を帯びて、エルシアは語り続ける。
燭台の灯りが彼女の顔に影を落として、不気味な陰影をつけて踊っていた。
「……バカだったわ。どうしようもないほど夢見がちで、愚かだったの。魔法は所詮、ひとのエゴ。わたくしたち魔法使いは愚かな民の生贄。すべてのひとを幸せにする道なんか、結局なかったのよ。……でも、わたくしは諦めなかった。魔法使い協会が禁じている魔法の中に手がかりがあるんじゃないかと思って、黒魔術を研究し続けた」
「……その研究の果てに、あんたは異界から魔物を召喚する術にたどり着いた」
アモルはまだ苦悶に顔を歪めながら、エルシアの言葉を継いだ。
少女が意外そうに目を瞠って、次いで大きく笑みを広げる。
……やっぱりか、とアモルは思った。
……そうではないか、と薄々は勘付いていた。
既に魔法使い協会から除籍追放されていたエルシアが、火あぶりの刑に処されるまでに至った理由──それは世界の秩序を揺るがしかねない術を見つけてしまったからだ。
術者の心臓のエネルギーという有限な資源ではない……魔物という名の、無尽蔵な魔力の源。
それを手に入れれば、これまで魔法使いが背負ってきた代償はなくなり、思うがままに魔法を操れるようになる……理論上は。
だが、それは……──
「この世界に魔物を招き入れるということだ。この世界の秩序を崩壊させ、人々を恐怖と混沌に陥れるということだ……!」
「──そして、わたくしたち魔法使いがこの世界の支配者として君臨する」
アモルはすみれ色の眼を見開いた。低く呻いた。
「……正気の沙汰じゃない!」
「ええ、そうよ。──そして、おまえも」
「違う……僕は!」
吐き気がこみあげてきた。
喉にまとわりつく酸っぱいものを、アモルはかろうじて飲み下す。
自分の足下がぐらぐらと揺れていることに、アモル自身が気付いている。
酩酊するような目眩に襲われて、立っていることすらおぼつかなくなる。
「……僕は、貴女とは、違う……!」
眼を開けているのもつらくなってきて、つぶった。
そのとき、閉じたまぶたの裏側で、よく知った声が降ってきた。
「──アモル様」
ギクリとした。
再び眼を開けたとき、クラスメイトの少女の姿は消え失せていて──
代わりに、一人の人物がそこに立っていた。
年齢は二十に届くか届かないか。
背中まで伸びる燃えるような赤い髪が印象的な若い女だった。
真珠色の肌に吸い付くようなロングドレスの胸元は開いており、ふくよかな乳白色の谷間を大胆に覗かせている。
それだけは変わらぬ緋色の瞳が、ひたとアモルを見つめた。
「アモル様、もう、自分に嘘つかなくていいんです。だって、アモル様も、もう気付いてる。私たちはこの世界の真の支配者になれるのに、その力を封じられて飼い慣らされてる。大勢の民のために命を犠牲にして奉仕するのが定めなんだって思い込まされてる……」
「……リリー? 何を、言って…………」
幻影を見せる魔法の霧が室内に広がっていることに、アモルは気付かない。
妖艶な魔性の女が深紅のマニキュアを刷いた細い指で、アモルの手をぎゅっと握った。
その途端、アモルの心臓が、わし掴みにされたかのように痛んだ。
「全部、魔法使い協会のせいなんです。私たちの切り札を封印して自分たちだけが甘い蜜を吸ってる。あいつらは恐れてる。私たちが尽きない魔法の源泉を手に入れたら自分たちが勝てないのをわかっているんだわ……」
「…………魔法使い協会、が…………」
──そう、アモル自身、疑念を抱いていたではないか。
『そう取り決めたのは、エルバンス・オードベルトですよね? 初代魔法使い協会長の。魔法使いは民のためのものだって──そう教育するのが、魔法使い協会にとって都合がいいから』
ベシルバードに投げかけた問いは、まさしく、この世界への不信感。
燃えるような赤い髪の女がアモルを優しく手招いた。
きつい香水の匂いに頭がくらくらした……どこかで嗅いだことのある匂いだった。
だが、そんな思考も甘い香りに押し流されて、現実と夢幻の境があいまいに溶けていく。
いつしか、割れるような頭痛がやんでいた……それは、ひどく危険なことのように思えた。
この状況をおかしいと思う理性が眠らされて、自分が自分でなくなってしまうような……。
「みんなが幸せになる道なんかないんです……でも、大丈夫。尽きない魔法の源泉を見つけたもの。私たち、きっと幸せになれるわ。私たち魔法使いがこの世界の支配者になれば……」
──そうだ。
いつだって、この世界は理不尽で、狂ってた。
生き延びるために子どもを売ったり殺したりする親も。
大勢のために数少ない魔法使いが犠牲になる現実も。
貧困のために勉強の機会すら奪われる子どもたちも。
いつだって、弱者や少数派が虐げられて、それでも世界は何も変わらない。
一番、大切な少女の笑顔さえ、守れない……。
「……………………僕、は…………」
目の前に、断崖絶壁の幻が見えた。
一歩、踏み出せば奈落の底に落ちるとわかっていながら、アモルはその方向にふらふらと歩き出した。
ドレスを着た赤い髪の女が両手を広げて、艶然と微笑みながらアモルを迎え入れる。
アモルは彼女の胸元に顔を埋めた。
急激に襲ってきた、まどろむような睡魔に身を委ねる。
甘美な眠りに落ちたアモルの耳元で、幻影をまとった女がささやいた。
──さあ、一緒に世界を悪夢に陥れましょう。
──わたくしたちを軽んじたこの世界に復讐を……。




