3-6
「──あれ? リリー先生だ!」
「ほんとだ。せんせーい! リリーせんせい!」
アモルと一緒に土手の斜面に座っていたリリーは、がばりと起き上がった。
下は五、六歳、上は十歳ほどの子どもたちがリリーを見つけて駆けてくる。
あっという間に囲まれた。
「リリー先生、今日は『教室』ないのー?」
「しゅくだい、やったよ。しゅくだい! ねぇ、エライ? エライ?」
唖然としているアモルの傍らで、リリーは進退きわまった。
まさかこんな場面をアモルに見つかるなんて。
「……こいつら、何?」
「街の子たちです。たまたま知り合った子に読み書きを教えてたら、いつの間にか増えてこんなことに……」
エルバンス魔法学院のあるルシアーズは大きな街である。
地方の野良仕事ではやっていけなくなった者たちが一攫千金の夢を見て都会に出てくる。
だが、光が大きくなれば、影も大きく深くなる。
成功するのは一部の商人や地主たちで、残りの者たちは小作人として重い税を課せられるか、仕事にすらあぶれてスラムに落ちる羽目になった。
さらに不幸なのは、その子どもたちである。
まともな仕事どころか教育も受けられず、盗みや物乞いをして生きるしかない陰の犠牲者たち。
そうした現状を知ったとき、リリーは無視することができなかった。
放課後、時間ができると街に降りて彼らに読み書きを教え、話し相手になったり遊んであげたりした。
アモルはリリーが寮を留守にする理由を初めて知った。
「なぁなぁ、こいつ誰? 先生の彼氏?」
「えっ、ほんとに?」
「ちちちち、違うわ。このひとは私のご主人様!」
ご主人様、という言葉に、子どもたちが固まった。
リリーがその反応を疑問に思ったのも束の間──
「えっ、嘘ぉ! 何、もう結婚してんの?」
「リリーせんせー、『ひとづま』なのぉ?」
なんでそうなる……、とリリーは立ちくらみを覚えた。
珍しいことに、アモルが肩を震わせて吹き出している。ほら見ろ、言わんこっちゃないといった感じだ。
みんなでワイワイ騒いでいたところに十歳のモモがやってきた。
「ねぇねぇ、モモがないてる」と言った誰かの声を聞いて、みんなが道を空けてリリーのところに通した。
「どうしたの、モモ?」
「お母さんに怒られた。女の子は勉強なんていらない。やっても役に立たないって……」
モモが泣きじゃくっているのを見て、他の子たちも一様に視線を落とす。
親が小作農をしているサウルも言った。
「うちもそうだよ。字なんか読めたって腹にたまるかって。遊んでないでさっさと畑に行けってさ」
うちも、おらもという声があがる。
リリーの胸が痛んだ。
この子たちが一生、小作農や盗みで生きていくのなら必要のない知識なのだろう。
けれど、それでは選択肢がなさすぎる。
過酷な労働や飢饉の際の餓えに堪えるしかなく、家族が生きるために売り飛ばされる子も出てくるだろう──かつてのリリーのように。
拾われた先がワーグナー家でなかったら、主人がアモルでなかったなら、リリーもどうなっていたかわからない。
「でも、俺、小作農で終わるのなんか嫌だよ。将来、先生になりたいんだ」
おまえがー? と茶化す野次が飛んで、サウルは真っ赤になって喧嘩し始めた。
その横で年下のチャコが声を弾ませる。
「あたしね、およーふくやさん! まいにち、おひめさまみたいなおようふく、きるの!」
無邪気で純粋な夢に、リリーはほっと頬を緩ませた。
「きっとなれるよ。モモは? 何になりたいの?」
モモはもじもじと身じろぎした後、意を決して言った。
「……魔法使い……なれるかな?」
リリーは少しだけ言葉に詰まった。
魔法使いになるには、ある程度、生まれもっての素質を問われる。
ひとが生まれつき持っている魔力の多寡が少なからず影響するし、魔法学院の入学だけでも、代々、魔法使いを輩出している家柄か推薦が必要になる。
それを心配してのことだろう。
アモルもリリーを窺って小さく目配せした。
きっとなれるよ、と言うのは無責任かもしれない。
まだ幼い少女のためを思うのなら、夢を見るんじゃない、とたしなめる場面なのかもしれない。
そうした逡巡を瞬きのうちに収めて、次に目を開けたときには、リリーは少女の目をまっすぐ見つめて微笑んだ。
「……私も魔法の勉強ができるなんて思わなかった。モモと同じように勉強して、やっと学院に通えるようになったの」
少女の夢が叶わないなんて、誰が言えるだろう?
リリー自身も、幼い頃に見た「夢」の中にいる。
たとえ、それがどんなに現実とかけ離れた無謀なものであっても、子どもの夢の芽を踏みつける権利なんて、誰にもない。
「大丈夫。モモなら、きっとなれるよ」
心から、そう言った。
泣いていた少女の顔がぱっと輝いた。
「リリー先生、学校楽しい?」
「……うん。とっても」
少女の前で、ちゃんと笑えていればいい。
リリーの表情に影が射したことに、アモルだけが気付いた。
☆☆
子どもたちに別れを告げると、アモルとリリーは来た道を引き返していった。
空を茜色に染める夕日が眩しい。
二人分の影法師が長く長く伸びて静かについてきた。
二人きりになると、リリーはまた元の無表情に戻った。
何を考えているのか、その表情からは読み取れない。
けれど、何も考えていないわけではない。
ましてや昔と別人になったわけでもないのだった。
そんなことを、とりとめもなく考えていたアモルに、リリーがぽつりと言った。
「読み書きができれば、可能性が広がります。不作で食べられなくても、どこかのお屋敷で雇ってくれるかもしれない。計算ができれば、売り上げを騙されることも随分減るでしょう」
「……」
切々とした願いのこもった言葉に、アモルはどう返したらいいかわからなくなった。
リリーの言っていることは、あくまでも希望論なのだった。
現実はそんなに簡単ではない。
子どもの頃に思い描くような甘い砂糖菓子でできてはいない。
十歳の子どもだったアモルも成長し、そのことが実感としてわかるぐらいの年にはなっていた。
残念ながら、ルシアーズのように発展した都市部でも、一般人の識字率は地を這うほど低い。
大人たちの間でさえ、「読み書きができたって腹にたまらない」「女子に教育は必要ない」という声が大半なのだ。
子どもが教育を受けている間、その分、稼ぎ手が減ってしまえば貧しい家計にとって大打撃になる。
将来への投資よりも今日食べるパンを──彼らの親たちがそう考えるのは、ある意味、仕方のないことだった。
……それを仕方がないと頭の隅で割り切って考えている自分自身に嫌気が差した。
所詮、学院の生徒でしかないリリー一人でできることなど、たかが知れている──そんなことはリリー自身が一番よくわかっている。
それでも諦めきれなくて、何かをしたくて、自分の勉強を投げ打って子どもたちのために駆け回っている……その姿を否定することはできなかった。
女子寮の門の前で、リリーの足が止まった。
アモルに送ってもらったことに対して丁寧に礼を言って頭を下げた。
「今日は付き合ってくださってありがとうございました」
「ああ……おやすみ」
「アモル様。あの、アモル様は……」
呼び止めてしまってから、リリーはまた逡巡するふうになった。
春にしては冷たい風が二人の間を吹き抜けていく。
何度も何かを言いかけて、結局は言葉にならなくて俯いてしまう。
アモルが待っている限り、ずっとそうしていそうだった。
「──…………いえ、なんでもありません」
「……本当に?」
リリーは虚を突かれたように押し黙った。
そうして口にしたのは、散々訊こうとしていたこととは、きっと別の何か。
祈るような吐息が、リリーの唇から零れた。
「──アモル様。私は今も貴方の夢を覚えています……」
☆☆
アモルは寮にある自分の部屋に戻ると仮眠をとろうと横になった。
眠りはなかなか訪れない。
今日出会った子どもたちの笑顔やリリーの言葉が頭の中をぐるぐる回っていた。
『変えたいと思わないか? この理不尽な世界を。生き延びるために子どもを売ったり殺したりしなくてもいい、大勢のために数少ない魔法使いが犠牲にならなくてもいい、誰もが幸せになれる世界にするんだ。おまえみたいな子どもが泣かない世界に──僕たちの力で』
他ならぬ自分自身が言ったことだった。
たった五年前のことなのに、今となっては遥か遠い追憶だった。
かつて見た夢の残り香が胸をざわつかせる。
リリーと過ごした五年前の出来事がひどく遠い昔に思えた。
あの頃の自分たちは、二人ならなんでもできると思っていた。
「……夢、か……」
十歳の子どもでなくなったアモルは、もう、自分がどんなに恵まれた境遇だったかを知っている。
立ちはだかる現実がどんなに高い壁なのかも……。
時を刻む奏石が夜の訪れを告げた。
窓の外で、あるかなきかのか細い月が雲間から優しく覗いている。
それを横目で見て、アモルはついに睡眠を諦めた。
「……そろそろ出るか」




