2-6
祭りの日に降り始めた雨はその恩恵を惜しむことなく地上に降り注がせた。
神話のとおり、雨の女神が空に現れて喜びの舞を踊っているようだった。
長いことくすぶっていた熾火が消えるように、人々の狂気をはらんだ熱も静まって、少しずつ日常を取り戻していった。
畑を耕し実りを得る──そんな当たり前すぎる奇跡を。多くはなくても、分かち合って生きていけるのだということを思い出したから。
リリーは降り注ぐ雨の音に耳を澄ませた。
いつか立ち入って怒られたアモルの部屋。
ベッドでは少年が一人、昏々と眠っている。
「アモル様、今日も雨ですよ。お庭に緑も戻ってきました。まだほんの少しですけど、みんな本当に喜んでるんですよ。ドニーなんか、雑草が花を咲かせただけで子どもみたいにはしいじゃって、リリーとどっちが子どもなんだかってマーガレットに呆れられるんです」
くすくす笑いながら、そっとアモルの手を取った──応えはない。
「みんな雨を喜んでます。アモル様がみんなを笑顔にしてくれたんですよ。なのに、なんでアモル様が見てないんですか……」
祭りからひと月経っても、アモルは目覚めなかった。
毎日、何かにつけて話しかけても、憎まれ口のひとつも返ってこない。
怒っててもいい。嫌われててもいいから、声が聞きたかった。
元々、線の細かった少年の肌は透けるように白くなり、目を離した隙に、本当に消えてしまうんじゃないかと思うと怖かった。
(……っ)
リリーはアモルの枕元に顔をうずめた。
こんなことになるのなら、魔法を見たいなんて言わなければよかった。
祭りのときだけではない。
リリーは事あるごとにアモルに付きまとって魔法を披露させたがったのだ。
自分が魔法を見たいという、ただその一心で。
無邪気にも──愚かにも。
「……リリーちゃん、ご飯食べな。あんたの方が参っちゃうよ。アモル様なら身体が癒えればちゃんと起きるから」
部屋に入ってきたマーガレットに、リリーはかぶりを振った。
嘆息して、また引き下がっていく気配がする。
リリーの心はここにあらずだった。
(このまま目が覚めなかったらどうしよう……)
貧しい村で生まれ育ったリリーだったから、幼いながらに、誰かが死ぬのは何度も見てきた。
昨日までは元気だった近所の子どもが、今日になったら冷たくなっていたこともあった。
屋敷に来てから忘れていた──枯れ葉が地に落ちるほど呆気なく、ひとは死ぬのだということ。
(……お母ちゃん。おら、どうしたらよかったの……?)
そのとき、ふと、母の言葉を思い出した。
随分、昔の記憶だった。
自分の手がもみじのように小さく、繋いでいた母の手は包み込むように大きくて、こんな風に雨のそぼ降る中で話していたことまで鮮やかに甦った。
『悲しいときは歌うんだよ。悲しみに負けちゃいけない。心が食われちまうんだ。ほら、耳を澄ませてごらん。花も木も雲も、ひとには聞こえない声で精一杯歌ってるんだよ』
ほとんど無意識のうちに、リリーは歌っていた。
激しい雨に打ちひしがれようと空に向かって咲き誇る花の歌だった。
記憶に埋もれるほど遙か昔、母がよく歌ってくれていたもの……。
ベッドで眠る少年と二人だけの部屋に、微かな魔力を乗せた旋律がゆっくりと広がっていった。
☆☆
辺り一面、真っ暗な闇に塗り潰されていた。
いつからそこにいるのか、アモルにはわからなかった。
朧気で途切れがちな意識を繋ぎ止めるたび、脳裏に囁きかけるのは奇妙な声だった。
それは何かをしきりに訴えかけてきた。
──受ケ入レロ。
(……うるさい)
抗議しても、声はかまわずに語りかけてくる。
──我ヲ受ケ入レロ。
(あっち行け……!)
アモルは腕を払って追い払おうとした。
身体を見下ろせば、祭りのときに着ていた白い衣装を着ている。血でべっとりと汚れたはずなのに、洗い晒したように真っ白だった。
闇に染まっていないその色彩に、わけもなくほっとした。
(……? 何してたんだっけ。ってか、どこだ、ここ。頭がぼーっとして思い出せない……)
すると、囁き声が嘲笑うかのように言った。
──帰ル場所モワカラナイノニ。
(うるさいな。おまえ、何なんだよ)
言い返して、ぎくりとした。
振り払おうとした腕が、いつの間にか無数に寄り集まった羽虫にたかられている。
羽音に混じって咀嚼音が聞こえる。
自分の輪郭が食われていく音だった。
あまりのことに、アモルは絶句した。
(なっ……?!)
──帰リ道ノワカラナクナッタ亡霊ハ消滅スルダケ。
──サア、早ク我ヲ受ケ入レロ。
──闇ニ食ワレテシマウ前ニ、サア……。
アモルは恐怖に駆られて逃げ出した。
その間にも腕がどんどん羽虫に食われてなくなっていく。
そんなバカなと思った。
食われた部分は痛みも感覚もなく、それがかえって不気味だった。
このままでは自分が自分であるという感覚まで「食われて」しまう。
(冗談じゃない……! 帰るんだ。あいつが泣くから。……あいつ? あいつって誰だ? ……僕は誰なんだ?)
混乱した頭で必死に考えた。
少年はもう、帰る場所のわからない亡霊と化していた。
その少年だった意識の残滓にも羽虫が容赦なく襲いかかり、食らいつき、むしゃぶっていく──そのまま永遠の闇に食われるだけかと思われた。
深淵の彼方、どこからか、歌が聞こえた。
差し込んだ一条の光に戸惑った虫たちが羽音を乱した。
闇に消滅していくばかりだった少年の意識が浮上した。
豪奢な衣装に包まれた線の細い手足が形取られ、黒髪の一本一本までが形を取り戻し、最後に、伏せられた瞼が開いてすみれ色の瞳に意思の光が覗いた。
(……この、温かい魔力は……)
虫たちが飛び去った後から闇が払われ、霧散していく。
後に残ったのは荒涼とした岩肌だった。
アモルは自分が今にも断崖絶壁を踏み外そうとしているのに気が付いた。
闇の中をがむしゃらに逃げようとして、自分から奈落の底に落ちようとしていたのだ。
歌はまだ続いていた。
馴染みのある魔力の旋律が光の粒子となって差し込んでいる。
誰のものかはわかっていた。
アモルは光の方に駆けていった。
いつか踏み外す、その道の先へ……。
☆☆
明るい方へ──優しい光に向かって。
アモルは天井に向かって手を伸ばした。
伸ばしたその手を、リリーがしっかり握りしめていた。
「……?」
「う、うなされていたから……どうしようかと、思って」
「僕が……? ……覚えてない」
だが、何者からか全力で逃げたかのように息が切れ、動悸はしばらく収まりそうもなかった。
着せられていた夜着が寝汗でぐっしょりと濡れている。
ふと、右手に目がいった。
リリーが真っ赤になって手を放した。
「あ、いや。これは……その」
必死になって何か言おうとする。
もっともらしい言い訳とか、そういったことを。
結局、何も思いつかずに、ベッドサイドの椅子にへたりと座り込んだ。
寝転んだままのアモルは、離れていった体温の名残を惜しむように、自分の右手をじっと見つめた。
多分、あの手があったから戻ってこれた。
それに、夢うつつに聞こえたあの優しい歌声……──
「眠りながら、おまえの魔力を感じた。それを辿って目が覚めた」
「……?? 魔力?」
リリーは複雑怪奇な顔をした。
自分の歌に魔力が宿っていたことなど、まるで無自覚である。
なんとなく身体がだるい感じはしたけれど……。
「雨の匂いがするな。雨音も……。成功したのか。よかった……」
心の底から安堵したように、アモルが言う。
リリーは胸を突かれた。
熱い涙が後から後から零れた。
「心配すんなって言っただろ」
「するに決まってるじゃないですか。バカァ」
「……悪かったよ。何も言わないで」
あの祭りの夜を、アモルは思い出す。
夜空に咲いた幻想的な魔法の花々。
待ち望んだ雨に沸き立つ群衆──駆け寄ってくる赤毛の少女。
喜ぶ顔が見たかった。
けれど、着ていた衣装が真っ赤に塗れて、アモルは掴んでいた意識の切れ端を手放した。
次に、目に入ってきたのは少女の顔だった。
もう何日もまともに食べていないようでひどく顔色が悪い。
アモルの胸が痛んだ。
ただ笑ってほしかったのに……。
「アモル様が起きなくなって、おら、すっごく後悔しました。『あんたみたいに恵まれたひとにはわからない』って言ったこと。おら、何も知らなくて……」
魔法使いの家に生まれて、何不自由ない暮らしをしてきたアモル。
家族も家も待遇も、リリーにないものをなんでも持っていて、悩みなんて何もないのだと思っていた。
けれど、現実は違った。
魔法使いは、魔法という奇跡の炎を燃やすための薪に過ぎない。
魔力と呼ばれる心臓のエネルギーを使っている以上、常に命の危険と隣り合わせに晒されているのだ。
そして、燃え尽きればそれまでなのだった。
だが……──
「──……僕は黙って燃え尽きる気はないんだ」
「……アモル様?」
不思議がるリリーの目の前で、アモルはベッドの上で身体を起こした。
ひと月昏睡していたとは思えないほど力強く、確固たる意志を秘めて、すみれ色の瞳がリリーを射抜いた。
「──おまえ、魔法使いにならないか?」
リリーは一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「え……ええぇっ!? ムリムリムリ! いきなり何言ってるんですか。おらが……魔法使いぃ?」
まだアモルが夢うつつでうわごとを言っているのではないかと思った……アモルの瞳に宿った光が、正気を告げていた。
「変えたいと思わないか? この理不尽な世界を」
「……世界を、変える……?」
「生き延びるために子どもを売ったり殺したりしなくてもいい、大勢のために数少ない魔法使いが犠牲にならなくてもいい、誰もが幸せになれる世界にするんだ。おまえみたいな子どもが泣かない世界に──僕たちの力で」
それは、大人が聞けば、鼻で笑い飛ばすような壮大な夢物語。
それでも、微かな疑念がよぎった。
(……本当に、ムリなのかな?)
確かに、リリーの胸に炎が灯った。
自分が魔法使いになれるかなんてわからない。
アモルが語る理想論が本当に実現するかどうかも。
それはアモル自身も同じなのだろう。
それでも、夢を語るアモルの眼差しを見ているうちに、リリーの目にさっきとは別の涙が浮かんだ。
──ムリかどうかなんて、やってみないとわからない。
「……はい」
リリーは、アモルが差し出した手を握り返した。
交わされた幼い約束。
──それから五年の月日が流れた。




