【短編】(その9)新月の上の兎〜A rabbit on the New Moon〜
私はうまく考えることができなかったが、ひとまず人参を彼に渡すことにした。彼は私が差し出したそれを受け取ると、また鼻をヒクヒクと動かし匂いを嗅いだ。クンクン。
「新鮮な人参です」と彼は言った。「あなたはなかなか見込みがありそうです」
「人参を嗅いだだけでそれがわかるんですか?」
「そうです。あの人は相手によって渡す人参の種類を変えているんです」
あの人、とはきっと先ほどの老婆のことだろう。しかし私は兎のその言葉を訊いてなぜか嬉しくなった。私にはなんらかの資格があるのかもしれない。そう思ったからだ。
兎はその人参を一口かじった。コリコリという小気味のよい音が辺りに響いた。兎はなにかを考えるようにして目を細めながら空中の一点を鋭く見つめている。
「これは新鮮な人参です。新鮮なのがなにより大切です」と兎は言った。
「それはどうも」と私はよくわからずに言った。
「でもダメかもしれません」と兎は言った。彼は二口、三口と人参を噛み進めている。
「ダメ?」
「あなたはまだここには入れない。味は悪くないが、なにしろ見た目がこんな貧相ですから」
「でもさっきあなたはその味を褒めてくれましたよね」
「たしかに」と兎は言った。「たしかに私は褒めました。ただ、褒められるレベルのものが合格するものとは限りません。どんなにうまくても落第点を取るものだってたくさんあるでしょう?」
「なら僕はここには入れないということですか?」私は彼に訊ねた。少しだけげんなりとしながら。
「そうとも限りません」と彼は言った。「あとはあなたの意志の問題です。先ほどもお伝えしましたとおり、我々どもが大切にしているのはなににおいてもその人間の有する意志であります」
私は黙って訊いている。
「あなたには資質があります。もしかしたらそれは資格と言ってもいいかもしれない。この人参を食べればそれはわかります。でもそこから先に行くにはあなたの意志が必要です。意志のない人間をこの先に通すわけにはいきません」
「僕にはその意志というものがあるんでしょうか?」と私は兎に訊ねてみた。
「そんなこと、私にはわかりません」と兎はきっぱりと言った。「私は一介の兎に過ぎません。私がやることはここに来た人間の資質とその意志を確かめ、その者を通すかどうか、判断をするだけです。
でもいいかげんな判断はできません。そんなことをしたら上役が黙っていませんからね」と言ってまた人参をかじった。「なにより、あなたに意志があるかどうか、それはあなたの問題です」
たしかに、と私は思った。それはまっとうな意見だ。
(つづく)