【短編】(その10)新月の上の兎〜A rabbit on the New Moon〜
私は考えてみた。私はこの先に進んでみたいのだろうか? もちろん進んでみたい気持ちはあった。しかしそれはあくまで好奇心であって、意志とは少し違うものだった。
好奇心はあるか、と問われれば答えはイエスだが、意志はあるか、と問われると答えはイエス・アンド・ノウとなってしまう。つまりどちらにすべきかわからないのだ。
そこでふとあのBMWの運転手の言葉が浮かんだ。「あのお嬢さんね、おそらく浮気してますよ」と彼は言っていた。私はそれについて、本当のことを知りたいのだろうか。
仮に彼女が他の男と寝ていたからと言って、私はそれに対してどう思うだろうか。そもそも私は彼女のことが好きなのだろうか。イエス・アンド・ノウ。わからなかった。
いや、でも、と私は思う。私は彼女に対する好奇心はあった。しかし、好きだとか胸が高ぶるといった気持ちは持っていなかった。持とうとしていなかっただけかもしれない。それはなぜだろう。
私たちの関係はある意味で大人の距離感とも言えた。しかしそれは簡単に言ってまえば中途半端な関係のことでもあった。私は彼女に対するなにかしらの意志を持っているのだろうか。
「さあ、どうしますか?」と再び兎が言った。
「もう少し考えさせてください」と私は言った。
「もしあなた様がそうしたいのであれば」と言って兎は上品な笑みを浮かべた。
彼はすっかり人参を食べ終えていて、あとは葉っぱの部分を少し残すだけだった。口元にはまったく土が付いておらず、上品な髭もそのまま残っていた。彼はさきほどよりも幾分満足しているようにも見えた。
「また改めてここに来ることはできますか?」と私は訊ねた。
「ふうむ」と兎は言った。
断られるかもしれないと私は思ったが、それは仕方のないことだった。なにせ中途半端な気持ちでそこに入られてしまっては、彼は迷惑なのだ。言葉にはいつでも誠実であるべきだ、というのが私が出した結論だった。
兎はしばらく私の目をじっと見つめながら、ときおり鼻をヒクヒクとさせた。その瞳に見つめられていると私はまるで宇宙空間にでも放り出されたような気持ちになった。
「なるほど」としばらくしてから兎が言った。「わかりました。正直でいいと思います。中途半端な意見ならそれはないほうがいい。わかりました。認めましょう」そう言って兎はトントンとステッキで地面を叩いた。「しかし、こういう機会はそう何度もあるものではありません。それはわかっておられますか?」
私は肯いた。きっと私はそれをわかっているはずだ。「タイミングを見てまた改めさせてください」と私は言った。
「そうですね。しかし、気を付けてください。ここの扉が開かれるのは限られた夜の限られた時間帯しかありませんから」
「限られた夜の限られた時間帯」と私は繰り返した。そして思い出したように私は訊ねた。「たとえばそれは新月の夜とか?」
「そんなところです」と言って兎は少しだけ笑った。そして持っていたステッキをふわりと上げ、U字になった柄の部分でシルクハットのつばの部分をくいと下げた。帽子の後ろには綺麗に耳がたたまれていた。「それでは今宵はこの辺で・・・・・・。さてと」
兎がそう言った瞬間、私の意識は猛スピードで後退し、周りの景色は前方のある一点向かって吸い込まれるように消えていった。
気が付くと私は先ほどの外苑の入口部分の交差点に立っていた。左手には絵画館が見え、右手には公園、その隣にはビア・ガーデンがある。
そこでは聞き慣れない日本のポップ・ミュージックが流れ、それに混じって人の声も聞こえてきた。私の足元にはスタン・スミスの靴があり、空にはまばらに星が輝いていた。
私はしばらくぼうっとしていたが、ふと思いついて試しに手を叩いてみることにした。
ぱんっと切れよい音がした。私は手を叩くのが上手いのだ。
通りがかった二人の女性が私の方を見ていることに気が付いた。彼女たちは明らかに怪訝そうな表情をしている。それもそうだ。神宮外苑の入口で、男が夜にひとり手を叩いているのだから。しかも手を叩いたその男の表情は少し満足げと来れば、怪しむには充分過ぎるはずだ。
彼女は浮気をしているのだろうか? そんなことはもうどうでもよくなっていた。
私は思いついて自分の手の匂いを嗅いでみた。先ほどあの人参を持っていた右手だ。そこにはかすかに土の匂いがした。
少なくとも私には資格があるのだ、そう思った。
(おわり)




