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【短編】(その2)新月の上の兎〜A rabbit on the New Moon〜

雨は相変わらず隙間なく降り続いていた。




車内のアナログクロックを見ると8時52分だった。GPSでの補助機能があるためその時刻は正確だろう。あと6分ほどで彼が現れるはずだ。




私は車を降りて黒い傘を差した。勤務3日目の雨の日に渡部氏から渡された傘だ。それも彼の愛用するブランド品らしく、会社のフロントの女性に「信頼された証拠ですよ」と褒められたのを覚えている。




どうやらその傘の授与を持って私の試用期間が終わったらしかった。3日のテストが長いのか短いのか私は判断基準を持たなかったが、きっとドライバーを選ぶにも渡部氏には基準や方針があるのだろう。




私は運転用のスーツに身を包んでいる。基本的にストライプや飾りのない細身のものを着用するようにしていた。




その日着ていたのもネイビーブルーのシンプルなスーツに同じ色調のブルーのシャツにワインレッドの細身のタイを合わせていた。靴はベルトと同じチャコールだった。




雨は私の身体を宿命的に包んでいった。無数の小さな水滴が服に付着し、撥水コートのせいで水は吸収されず、スーツ全体が白みがって見えている。




フロントの女性がこちらを見ていたことに気付き、私は目礼をする。普段はこのくらいよそよそしいくらいがちょうどいいはずだ。彼女は静かに微笑んだ。




渡部氏は自分の身近に置く人間の採用は通常の採用ルートは一切使わず、友人や知人を介して行っているという話だった。現に私がこうして彼の運転手を勤めることになったのもそのつ・て・によるものだった。




私は腕時計に目をやる。あと45秒ほどで彼が来るはずだ。しばらく待っていると、フロントの彼女が立ち上がり、エレベーターのホールに向かって会釈をした。彼が来たのだ。




私がドアを開け、彼が乗り込み、車は赤坂のホテルに向かう。




千駄ヶ谷の駅を過ぎて、神宮外苑に入り、イチョウ並木を抜けて青山通りに出た。外堀通りを抜けてミッドタウンに向かう。取引先との会合があるのだ。




六本木のビル群は霧雨に降られて先端の方がかすみ、それはメレンゲに刺さったアイスピックのように見えた。ホテルの車寄せに車を入れる。白手袋を付けたドアマンがドアを静かに開けた。




「おそらく昼には終わる。12時にはここにいてくれ。12時半からの食事はどこだったっけ?」




「東麻布です」と私は答えた。「20分もあれば着くと思います」




「ありがとう」と言ってドアが閉まった。




車寄せには1千万円以下の車は見当たらなかった。メルセデス、BMW、アウディ、ベントレー、マイバッハ。




ここにいるとそもそも大衆車なんてものがこの世にあるとは思えなくなる。ここにはカローラもシビックもデミオもない。




〈富める者はますます富み、貧しき者は持っているものまで取り去られる〉という言葉が頭をよぎる。私はそのうちのどちらだろうか? やめよう。きっと愚問だ。




私はSクラスのあとに続いて車寄せを出た。あと1時間半、どこかで時間を潰す必要があった。ランニングをするにもプールで泳ぐにも少し時間が足りないし、昼食を摂るには長すぎる時間だった。




私はそのまま来た路みちを戻り、神宮外苑の周回道路の一画に車を停めて本を読むことにした。




タクシーの後ろに車を停めた。そしてシートの側面にあるボタンを押して別のシート・ポジションのメモリーを呼び出す。




シートやハンドルの位置を車側が記憶して、各ドライバーに合わせてそれらが自動で設定した場所に動く便利な機能だ。




夫と妻の価値観が異なるのと同じように、彼らのシート位置もまた異なる。彼らの使う歯ブラシの銘柄さえも違うかもしれない。




とにかくそのレクサスは私の休憩用のシート位置を記憶していた。




私はグローブボックスから本を取り出し、適当なページを開いて読み始めた。ウィリアム・トレヴァーの「A Bit on the Side」だ。その短編集はどこを開いてどのように読んでも実にウィリアム・トレヴァー的な文体とリズムがあった。




トレヴァーはチェーホフの作品に影響を受けているらしかったが、残念ながら私はチェーホフの作品を読んだことがなかったので、その作風がトレヴァーにどれだけ影響を与えているのかもわからなかった。




しかしトレヴァーが誰に影響を受けていようと私にとってそれはたいした問題ではなかった。我々は限定された出会いの中で生きているし、その限られた出会いの中で影響を受け合って生きているからだ。




作家と読者の出会いとはそういう限られたもののうちのひとつだ。




音楽と聞き手の出会いも同じだし、きっと絵画やジャズ・バーに関しても同じことが言えるだろう。限られた人生の時間のなかで惹かれ合ったり出会ったりできるものは本当に限られている。そうやって出会ったものに我々は影響を受けながら生きていくしかないのだ。




私はひとつの短編を読み終えると本を閉じて電動シートをゆっくりと倒した。それから「チェーホフは誰に影響を受けたのだろう?」と考えた。そして「カラヤンは誰に影響を受けたのだろう?」と考えてみた。




きっと彼らも分野を問わずあらゆる人の影響を少しずつ――場合によっては盛大に――受けているはずだった。




そう考えると、1人の人間が成長し大人になっていくということは、あらゆるものから絶え間なく影響を受けながら情報を吸収し、それらを取捨選択していく過程そのものなのかもしれなかった。




なにかを得たのちに、そこから自分に合ったものだけを残してあとは捨てる。人がどうこう言うのではなく、最後は自分で決める。




少なくとも人生のある段階ではそういった取捨選択や優先順位付けがその後の人生に影響を与えてくる。しかし渡部氏から言わせれば、そういうことができる人間が世間には少ないということなのかもしれない。




トレヴァーもチェーホフもカラヤンも、誰かの影響を受けたはずだったが、彼らは最終的に自分だけの世界観を作り上げた。そうやって綱渡りであってもなんでも、とにかく進んだ人間だけが、後世の人間たちになにかしらの影響を与えていくのだろう。




私はシートに身体をもたせ掛けながらそんなことを考えていた。




ふと目について私は、車の天井に貼られたアルカンターラの素材を指で撫でてみた。それはまるでフィルターで濾した砂のような滑らかな触り心地だった。なぞったところの毛の向きが変ったためか、細い指の跡が残った。




車内は新車独特の香りで満たされている。




空からは相変わらず細かい雨粒が降っていて、フロントガラスに載ったそれらが、車内の様子を隠してくれていた。水滴はときどき思い出したかのように他の水滴とまとまって一つの大きなかたまりとなり下へと落ちていった。




窓の向こうには雨の中で外苑を走るランナーがいた。しばらくそこを観察してみたが、ランナーは彼1人だけだった。




平日の昼間に外苑を――しかも霧雨の中を走っている――人間はいったいどんな気持ちでそこを周回しているのだろうか。なにか使命感でも持っているのだろうか。




とは言え、私もこの外苑を周回コースにするランナーの1人だった。しかし私は彼ほどの使命感は持ち合わせていない――もし彼がそれを持っていたとすればの話だが。したがって私はこんな雨の日には外を走ったりしない。




私は車のなかで特にやることもなかったので、そのランナーのタイムを測ってみることにした。私は普段7分程度でそこを1周する。1キロあたり5分20秒のペースといったところだ。それでもかなりくたびれる。




彼が車の横を通ったとき、私は腕時計を見て測定を開始した。彼は果たしてどのくらいのペースでここを走っているのだろうか? その間私はオーディオから流れるブラームスに耳を澄ませていた。




そしてカラヤンやチェーホフやトレヴァーのことを考えた。ブラームスのことも考えてみた。彼らは誰から影響を受けていたのだろうか?




そのランナーが戻ってきたのは7分より少し前だった。計算してみると1キロあたり5分5秒程度の速さだった。まずまずと言っていいタイムだ。




自分でなにかを実際にしてみると、それをすでにやっている人の凄さや苦労がわかるものだ。ちょうどそのランナーの大変さが分かるのと同じように。




明日は場合によっては休みになるかもしれないと以前渡部氏が言っていた。




もし休みになったら――そして雨が降っていなかったら――明日走ってみようと思った。そしていつもより速く走ってみようと思った。




私はまたシートメモリーのボタンを押して自分のドライビングポジションを呼び出し、ギアをドライブに入れて再び赤坂のホテルに向かった。




(つづく)

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