【短編】(その1)新月の上の兎〜A rabbit on the New Moon〜
その日は霧雨が降っていた。
それは砂嵐の中を進むみたいに視界がかすむ雨だった。道行く人はみなそれを迷惑がっているようで、目を細めたり、顔を歪めたりしていた。なかには落胆したように肩を落とす者までいた。
あるいはそれはいつもどおりの通勤の姿なのかもしれない。
私はそんな彼らの往来を――実際彼らの多くは駅を背に歩いていたので、流れとしては殆ど一定方向に近い――窓越しにぼんやりと眺めていた。
時刻は朝の8時42分。渡部氏との待ち合わせは9時だった。おそらく彼はその2分前に現れるだろう。それがこのひと月で私が彼について知ったことのひとつだった。
音楽はブラームスを流してある。カラヤンがフィルハーモニーを指揮したときのものだ。
渡部氏は三大B――バッハ・ベートーヴェン・ブラームス――の中でも特にブラームスを好んだ。
少なくとも残りふたつのBを指定されたことは今までなかった。今後そのほかのBを指定されるかもしれないが、彼の性格からしてその可能性は極めて低かった。
「人生で重要なことは方針を持つことだ」というのが渡部氏の持論であり、その方針はブラームスを支持していたからだ。
彼にとって人生のすべてはその方針により瞬時に決定される。悩む時間を減らしてそのほかの時間に充てるということがその目的らしかった。
いずれにしてもまだひと月ではデータが不足していた。
彼の運転手を務めはじめて2週間ほど経った頃、酔った彼が後部座席でぽつりぽつりと言った話を私は鮮明に覚えていた。
彼はバックミラー越しに私の目を見てその言葉を発していたので、おそらくその言葉は私に向かって放たれた言葉だったのだろう。少なくとも車内には彼を私の二人しかいない。
「人生で重要なことは方針を持つことだ。しかし、多くの人がその方針というものを持っていない。だから人はいちいち迷う。
しかし俺は迷うのが嫌いだ。本当に嫌いだ。同じ類のことで二度も三度も迷うのは特に嫌いだ。時間の浪費としか思えない。
多くの人間が人生の重要な時間を浪費していくのは、自分がどこへ向かうべきかを把握していないことが原因だ。わかるか? そういう人生に対する方針を持っていないことがなによりの原因なんだ」
それは断定的というよりも、真理を諭す教祖のような口ぶりだった。
車のタイヤは丸いとか、地球は第4惑星であるとか、ジャズは死んだとかそういうことを言うのと同じような口調だった。
「だから人は迷うんだ。そりゃあ俺だって迷うことはある。――いや、正確には迷うこともあった。しかし、今では本当にそんなことは少ない。なぜかわかるよな? 方針があるからだ。
それはトイレットペーパーのメーカーやら万年筆やらカード会社やら小さなことからはじまって、いくら会社に留保金をとっておくか、どんな愛人を選ぶべきか、そして彼女たちと会う頻度とか、とにかくいろいろだ。
いずれにしてもその方針が重要だ」
私は彼の言う「その方針」について少し考えを巡らせてみた。
彼の万年筆はペルナンブコ、カードはアメックス――ブラックとプラチナの併用、愛人に会うのは週に2日まで――そして遅くとも深夜2時には必ず帰宅する、私が知っている彼の方針はその程度だった。
彼の買い付ける株やトイレットペーパーの銘柄も、歯磨き粉のメーカーも私は知らない。彼の話は淀みなく続いた。
「誰かに資格を取った方がいいと言われればそれを取り、この店に行った方がいいと雑誌で読めば行列に並び、コールセンターから便利なオプションサービスが出来たと言われれば申し込む。
俺から言わせれば、世の中の75パーセントがそういう人間だ。
彼らは自分の頭で物事を考えているようで実は考えていない。考えているように思わされているだけだ。
残りの25パーセントは比較的自分で物を考えている人間だ。彼らには少なくともそれぞれに方針がある。ただ、本当に自分の頭で考えて自分の価値観で判断して行動をしている人間はこの世の中のせいぜい5パーセントくらいのもんだ。
でもそれは仕方ない。それが誰かが作った世界の摂理というものだ。いいか? 俺は別に世の中を馬鹿にしているとか、自分で考えない連中を否定しているわけじゃない。ただそういう人間が多すぎるということだ。
問題なのは自分で物事を考えられないと結局ほかの人間に良いように使われてしまうってことだ。俺は昔からそういうことが好かん男なんだ」
話の続きがあるかと思ったが彼の話はそこで終わった。
バックミラーを見てみると彼は革張りのシートに深く沈みながら眠りに落ちていた。
私はオーディオから流れていたショパン――指揮はもちろんカラヤンだ――のボリュームを下げた。まるでショパンの儚い片思いのように、そのピアノは静かに消えていった。
私はいくつかの大通りから脇道に入り、閑静な住宅街の細い路地に入って車――レクサス600hL――を停めた。
徐行運転時からすでにエンジンは停止してモーターのみで車は進んでいたので、車が停止したこともわからないほどだった。
「渡部様」と私は言った。
彼は催眠術でも解かれたようにすっと目を開けると、少し辺りをうかがった。そして「ありがとう」と言った。
私は車を降り、後部のドアを明けた。彼はすでにすっかり目を覚まし、酔いまで覚めているように見えた。
この男は寝床を襲われてもおそらく無事なのかもしれない。そういうときの行動方針もきっと用意しているのだろう。
彼は自宅の門戸の脇にある小さな通用口の鍵を開け、するりとそこに入っていった。ドライブウェイを歩く革靴の音がわずかに聞こえ、そして消えた。
私は運転席のドアを開きシートに座るとひとつ深呼吸をして自宅に戻った。
(つづく)




