第8話 歌うのは好きでしけど苦手なんです
「コルブロ。冗談は止めてくれよ。」
ブッルスに頼まれ、走り方を教えたときに近衛兵と混じっていたのがコルブロという男だった。彼は40歳にして軍の司令官になった変り種だ。ついこの間まで現代でいうドイツで植民地の警備に当っていた人物だ。
スポーツ競技の専門教育を受けて居ない人間は100メートル走で1秒くらいは簡単に短縮できる。兵隊たちはそれなりに足は速かったが現代人よりは随分遅かった。腕の振りや足の上げ方を改善するだけで2秒くらいは短縮できたのだ。
騎馬民族といえど、いざとなれば足の速さが生死を分ける。僕の教える走り方は結構、評判を得て方々から指導者が教えに請うようになっていた。
「冗談じゃねえって。ほら皆の前で歌えよ。」
指導が終った後、飲みに行ったのだが、その時そこかしこで、何の歌かわからないが皆で気持ちよく歌った。その中でも肺活量の多い僕は調子に乗りすぎたのだ。
コルブロがローマ軍でも走り方を教えて欲しいと言われた僕はほいほいと行ったのが間違いだった。指導の時間が終ると皆の前で1曲歌って欲しいと言われたのだ。
実は僕は音痴だ。自分でもわかるくらいに伴奏の主旋律に合わせられないのだ。歌うこと自体は好きなので、コッソリ1人でカラオケボックスに行って歌うことはあっても、誰にも聞かせられない。学校で合唱することがあってもクチパクだった。
飲みに行ったときに歌ったのはアルコールで酩酊状態だったのと皆が楽しそうに歌っていたからだった。それなのに勝手に場所までセッティングされてしまった。本当に勘弁して欲しいんだけど、強引に舞台に立たされて歌わされてしまった。
調子ぱずれた歌でも声量が大きかったから良く聞こえたのだろう。拍手が返ってきたのだ。
☆
「勘弁してくれよ。セネカでもブッルスでもいいから、何とかしてくれ。」
今度は本物の歌手たちに交じって、大きな舞台で市民たちの前で歌わされることになったらしい。それもこれもコルブロが用意した舞台だという。
「いいじゃないですか。欠点があるほうが愛されますよ。民衆を味方につけるチャンスです。行ってらっしゃい。」
ブッルスが笑いながら、背中を押してくる。
「そうだ。ネロ祭でも歌の種目を作りましょう。」
セネカも笑いながら、とんでもない提案をしてくる。どんどん話が大きくなる。勘弁してくれ。君たちは聞いていないから、そんなことが言えるんだ。泣く子が笑う、いや違った笑う子が泣くほど下手なんだぞ。
「えっ。チケット買ったわよ。下手なのは知っているけど、1回出れば諦めてくれるわよ。」
当日にアクテのところに逃げ込もうと思って来てみるとニヤニヤしながら、そんなことを言われた。普段のからかいの仕返しのつもりのようだ。
ローマではかなり有名なホールのようで数千人規模の入場があるらしく。毎回、売り切れだという。マジか。そんな大勢の人たちの前でやれるような技量は無い。どう考えても笑い物になればいいほうで、場内が静寂に包まれたらどうしたらいいんだろうか。
「マジか。冗談じゃねえ。なんとか止めさせないと。」
「無理でしょ。名義だけだけど主催は皇帝が行うものよ。そう簡単には中止にできないわよ。」
「それはいいことを聞いた。直接、お願いしてみるよ。」
今まで我が儘は言ったことないけど、皇帝は僕を甘やかしたいようで、いつも欲しいものを尋ねてくる。それこそ、皇帝になりたいと言えば、共同皇帝にもしてくれそうな感じなのだ。
これぐらいの我が儘ならヨシヨシと許してくださるに違いない。
「ズルイ!」
いやだから何で?
許してくれそうな機嫌が良いときを狙ってお願いしてみたのに。突然、不機嫌になってしまった。
コルブロが走り方の指導方法も歌を何度も繰り返し褒め称えてくれていたようで、その場に居なかったことが悔しかったようだ。意外と大人げないぞ。
「あの男が他人を褒めるのを聞いたことがなかったんだ。誰にも出来ない無理な仕事ばかり押し付けたからだと思う。自分より優秀な人間は居ないと思っておったんだろう。それがお前のことを褒めるじゃないか。しかも、お前のためなら死ねるそうだ。どんな戦地に送り込んで貰っても構わないと言っておった。軍の司令官としては優秀過ぎるくらいの男が此処まで言うんだ。付き合ってやれ。」
どうやら、とんでもない男に好かれたようだ。僕個人が嫌なだけで世間的には無理なことじゃ無いのだろう。まあ一つや二つ、恥を掻くのは仕方がないのかもしれない。
頼みの綱の皇帝にも断られたのでは、もうどうしようもない。今更逃げるわけにも行かなくなった。腹を決めて歌うことにすることに決めた。
今日舞台に登場する人間はすべてアカペラで歌うそうだ。そこで僕はズルい手を思いつく。選曲を小学校、中学校、高校の校歌にした。誰も知らない曲だ。音程を外していても気付くまい。歌詞も日本語だから『翻訳』スキルがなんとかしてくれるかもしれない。
他の歌手の歌い方を見ていると会場の隅々まで声を届かせるのが上手いと思われているようだった。それならなんとかなると思った僕は音程をすべて無視して自前の肺活量を駆使してパーフェクトに全力で歌いきった。最後に歌った僕は割れんばかりの拍手に包まれて会場を後にできたのだった。
☆
「そういえば、アクテは何故、僕の歌が下手なことを知っているんだ?」
誰にも僕の歌が下手なことが気付かれずに済み、意気揚々とアクテの屋敷に立ち寄り、風呂に入って出て来たところだ。古代ローマ帝国には風呂文化が根付いているから、日本人の僕には助かっている。
「知っているも何も、毎日お風呂で歌っているじゃない。お気に入りなんだよね。あの曲。毎回違う音程なんで違う曲かなと初めは思ったほどだったわよ。」