[第八章]真相編 ―田辺栄人と鳴海悠馬/瞬きの間の相棒―
………。
…………。
……………。
僕の全てを肯定し、受け入れてくれる理想の世界。
この世界に転生してからというものの、おかしな夢を見ることが多くなった。
そこは真っ暗で何も見えない、耳障りな異音だけが聞こえる世界。何も変化のないつまらない世界だけど、不思議と不快感はない。まるで、ぬるま湯の中を漂っているような感覚に、僕は――夢の中だというのに変な表現だけど――全身の筋肉を弛緩させていた。
この黒の夢を見る回数は、転生先の世界で過ごしていく内に徐々に増えていき、今では毎日のように黒の夢を見ていた。
これから死ぬまで永遠に黒の夢に付き合わなければならないのかと思うと少し憂鬱になるけど、夢のような世界に転生出来た手前、これくらいの苦難は受け入れるべきだろう。
だけど、今日の夢は違った。
今日の世界はぼんやりと照らされ、更にいつもと違う音が耳に飛び込んできた。これは、男の声だ。最初は何を言っているか分からなかったけれど、時間が経つに連れ、その内容は清明になっていった。
「俺は鳴海悠馬、『さがしや』の所長だ! 聞こえてるんなら、返事をしてくれ!」
「う……あ……」
鳴海悠馬と名乗る男の切羽詰った声に、僕は引っ張られるように声をあげた。あれ、おかしいな。上手く言葉を発せない。全身もひどく重く、まるで自分の身体ではないような気分だ。
やっぱり、この夢はいつもと違う。僕は自分の置かれた現状を確かめるべく、ゆっくりと――一瞬、あまりの眩しさに目を閉じてしまったけれど――目を開ける。
ぼやけた世界が、徐々に輪郭を形作っていく。
「良かった、目が覚めたのか!」
悠馬と目が合った。悠馬は感極まった様子で、僕に抱き着いてきた。男に抱き着かれて喜ぶ趣味はないんだけれど……。
僕は周囲に広がる、異世界とはかけ離れた光景に戸惑いを隠せなかった。木造でも、石造でもない、近代的な部屋。それは、まるで僕が捨てた世界を彷彿とさせる、忌々しい光景だ。そもそも、何故僕はこんなところに居るんだろう。僕はエルフィーやマリアン団長と共にクエストの途中であった筈なのに……。
「ここは、八建睡眠科学研究所だ。覚えてないか?」
ハチケンカガクスイミンケンキュウジョ。
聞き覚えのある名前に、頭の奥を針で刺されたような痛みがする。
それは、遥か遠い昔の記憶のように思えた。頭痛に耐えながら、追想を試みた。
あの日は、寒い夜だった。自殺を図ったものの、最後の最後で尻込みしてしまった僕の前に現れたのが、岡峰あずささん。僕の『夢』に興味を示してくれた、僕の救世主。 そしてあの人に導かれて、僕は、ある場所に、足を踏み入れることに、なる。その、場所の名前は、八建睡眠科学研究所。そこで、僕、は、『ホープ』という名の、装置に、入って……。
……………は?
僕は生まれて初めて、目の前が真っ白になる感覚を体験した。僕は装置の中で眠らされていたが、睡眠周期を操り強制的にレム睡眠――脳だけが起きている状態――を維持されていたことが逆に幸いしたのだろう。僕の脳は、あずささんが自分の研究のために、僕の夢を利用していたという情報を記憶していた。
つまり、今までの僕の冒険は、エルフィーやマリアン団長は、全て、僕の妄想……?
口の中が焼けるような錯覚に襲われる。まるで、口の中に熱湯を流し込まれたようだ。叫びたかった。叫んで、全てを忘れたかった。だけど、焼けるように熱くなった口では、それすらも叶わなかった。どうしてだ、どうして、僕がこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。今までの人生もそうだった。社会のゴミである犯罪者や不良たち、この世には裁きを受けなくてはいけない人間で溢れているのに、世界はそいつらを差し置いて僕だけに不幸を与える。だから、こんなクソみたいな世界を見捨て、新天地で今度こそ自分らしさく生きようと思ったのに、そんなたった一つの夢さえも、叶えられないというのか!
僕は目の前にいる男を睨んだ。この男が、僕の夢を壊したんだ。
「どうして、僕を起こしたんだ。誰が助けてくれと頼んだんだ!」
言葉が終わるのと同時に、僕の足が地面を離れ、数秒後に地面に顔を叩き付けられた。そこで初めて、僕はあの男に殴られたことを知った。
「馬鹿野郎!」
男は目に涙を浮かべていた。泣きたいのは僕の方だ。
「嫌なことから逃げ続けてどうするんだ!」
「逃げてない! 僕が捨てたんだ!」
「そうやって自分の弱さを隠し、他人を見下し続けた結果が今のお前だろうが!」
「僕の気持ちも知らないくせに、デタラメを言うな!」
僕はこの男のように、自己満足の正義を振りかざして僕に説教をしてこようとする人間を論破するために、日頃から頭の中で理論武装を固めていた。今こそ、その成果を発揮するときだというのに、思考がまとまらない。胸がざわつく。
「お前らはいつだってそうだ。自分より劣っている人間を見るとすぐに上から目線で接してくる! 虫唾が走るんだよ! 僕を憐れむ自分に酔っているって、見え透いてるんだよ!」
時間をかけて固めた理論武装を捨て、僕はただ心のままに叫んだ。
「僕だって、僕だって、本当はお前らのようになりかったよ! でも、出来なかった! だったら、自分の世界に逃げるしかないじゃないか! ああ、分かっていたよ、そんなことしても現実は変わらないって! でも、じゃあ、教えろよ! 僕はどうやったら良かったんだよ!」
「戦うしかねぇだろうが!」
男は迷うことなく断言した。
「その頭、その体、お前の全部を使って戦うんだよ、現実と! 勝ち取るんだよ、未来を!」
「あ……」
心を、価値観を、今までの人生で積み上げてきたもの全てを否定された気がした。
胸が痛い。息が上手く出来ない。
でも、何故だろう。あの男の言葉に不快感も嫌悪感も感じない。
僕は理由を求めるように、男の顔を見上げた。
「お前はやれば出来る男なんだ。だから、お前が本当の力を発揮出来る場所を俺が作ってやる」
僕の心を覆っていた霧が、晴れたような気がした。
いつの間にか視界が霞んでいたため、男の表情はハッキリとは分からなかったけど、その声色はとても優しく、男の……悠馬の笑顔が頭に浮かんだ。
「あ、あり……う……」
なんて情けないんだろう。嗚咽が止まらず、お礼すらまともに言えないなんて。
認めよう。僕は完全無欠のエイトではなく、まともに学校生活すら遅れない欠点だらけの田辺栄人なんだと。すると不思議なことに、すぅっと心が軽くなった。僕は思わず噴き出してしまった。なんということだろう。今まで自分の弱さを認めたくなくてファンタジーに逃げ込んでいたが、劣等感はなくなるどころか、妄想を重ねるごとに大きくなっていった。なのに、他人の言葉を聞き入れ自分の弱さを認めるだけで、こんなにも心が晴れ渡るなんて。まったく、今までの僕の人生は何だったんだろう。
「そこまでよ」
冷たい声が、水を差す。声する方へと顔を向けると、そこには拳銃を構えたあずささんの姿があった。
「田辺栄人くん、その男の戯言に惑わされないで。さあ、そのマシンの中に戻りましょう。貴方の望む全てが詰まった夢の世界が、貴方の帰りを待っているわ」
あの日の夜のように、あずささんは優しい声で僕に語りかけてきた。
あの日の夜、僕は自分にとって都合の良い言葉をかけてくれた彼女に心を奪われた。あの日の彼女は、とても美しく見えた。だけど今はどうだ。その美しさの裏に隠れていた欲望が、ハッキリと分かる。自分の目的のために、僕を利用した彼女は、僕が今まで見てきたどんな人間よりも醜かった。
「断る。僕はもう間違えない。妄想に逃げず、現実と戦うと決めたんだ!」
「このっ、クソガキがぁぁ!」
激昂したあずさは、躊躇なく拳銃の引き金をひいた。
渇いた音がする。撃たれた……はずなのに、痛みを感じない?
「ぐ……」
僕の隣で悠馬が苦しそうにうずくまっていた。悠馬が、凶弾から僕を守ってくれたのか。
「悠馬!」
「へ……そんな顔をするんじゃねぇ」
悠馬は脇腹からの出血を手で抑え、もう片方の手で僕の頬を撫でた。そこは、先程悠馬に殴られた場所だった。
「いけ、栄人。お前の力で、お前の今までの過ちにケリを付けて来い」
「で、でも、相手は拳銃を持っているんだよ?」
「だったら、逃げるか?」
僕はその言葉に詰まるも、すぐに横に首を振る。決めたんだ、もう逃げないと。
悠馬は息を切らしながら、優しく僕に微笑んだ。
「だったら、行って来い。行って、本当の勇者になってこい!」
「はい!」
僕は腕で涙を拭き、立ち上がった。
目の前には、拳銃をもった人間が一人。だけど、怖がることはない。何故なら、僕の後ろには背中を押してくれる頼もしい男がいるのだから。
「うおおおお!」
自分を奮い立たせるように雄叫びをあげて、あずさに突進した。
「ふん、気持ちだけで勝てるわけないでしょう!」
あずさは、リロードが完了した拳銃を再び構え直す。
撃つ。
瞬間、僕は横に飛び銃弾を回避する
「そんな馬鹿な!?」
まさか、避けられると思っていなかったのだろう。あずさは、我を忘れたように狼狽した。
「射線は銃口から直線に放たれる! だから銃口から目を離しさえしなければ、僕にだって避けれるんだ!」
「それは理屈よ! 銃口を向けられて怯まない人間がいるものですか!」
「残念だけど、夢で見たドラゴンの方がよっぽど恐かったもんでね!」
まさか、ここにきて夢の体験が役に立とうとは。現実逃避の体験も、案外無駄ではなかったということか。
あずさが動揺している、今が最大の好機だ。僕は足元に落ちていたパイプを拾い、一気にあずさとの距離を詰めた。
「どうしてよ! どうして綺麗な世界を捨て、汚い現実に生きようとするの!?」
「その汚い現実の中に、綺麗なだけの世界では決して見つけられないものがあると知ったからだ!」
僕はパイプを握る手に持てる全ての力を込め、あずさの顔をめがけ一文字に薙いだ。
確かな感触が手に伝わる。あずさが床に伏したことを確認した僕は、小さく「エーヴィヒカイト・ドゥンケルハイト」と呟いた。
僕は肩で息をしながら、ぴくりとも動かないあずさを見降ろした。気を失っているのだろう。
「やったな、栄人!」
呆然とする僕の肩を悠馬が叩いた。不思議と不快感はなく、それどころか心地良さすら感じた。
僕は何を話して良いか分からず、ただ無言で悠馬に頷いた。そんな僕の姿を見て、悠馬は笑いながら僕の肩に腕を回した。
「まったく、まさか銃弾を避けるなんざ大した男だよ、お前は! それでこそ俺の相棒だ!」
「あ、相棒? 僕が!?」
「言っただろ、お前が本当の力を発揮出来る場所を作ってやるって! だから、今日からお前は俺の相棒だ!」
「……いいね、最高だ」
僕と悠馬は腹の底から笑い合った。
自ら明かりを消してしまったため、暗闇に覆われてしまった僕の世界。その闇の世界に再び光を取り戻せたのは、悠馬のお陰だ。そんな悠馬が僕のことを相棒と認めてくれた。
ああ、そうか。僕はようやく気付いた。
僕が本当に欲しかったのは、誰からも敬われる最強の力なんかじゃない。こうして腹の底から笑い合える友達だったんだ。
………。
…………。
……………。
静寂を破る耳障りな男が聞こえる。
僕は手探りで音源を探しあて、耳障りな音を叩いて止めた。
時計の針は六時三〇分を指していた。
いつもより少し早く起きてしまった。
(あと三〇分は眠れる……)
僕は二度寝をするために、布団を頭に被ろうとして……手が止まる。
微かに、味噌汁の香りが鼻孔をくすぐったからだ。
ふと、部屋を見渡すと窓から柔らかい日差しが差し込み、小鳥が陽気に鳴いている。
「……たまには早起きするか」
気分良く布団から出ることが出来た僕は、軽い足取りで学校の制服に着替え始めた。
(そういえば、今日は何だか不思議な夢を見た気がするなぁ)
それは、人生に絶望した自分が悪の科学者に騙されていたところを通りすがりの青年に助けて貰う夢だ。
流石に細部は覚えていないけれど、とても勇気の出る夢だった気がする。もしかしたら、この気持ちの良い目覚めもその夢のお陰なのかもしれない。
今日は参観日だ。ウチの両親には困ったもので、中学生になったというのに、未だに二人そろって僕の授業を観に来るというのだ。二人の過保護さと仲の良さには呆れるしかない。もっとも、そこが二人の良い所なんだけど。
「よし、着替え完了」
しっかりとアイロン掛けされた制服のお陰で、普段の僕より二割くらい増して格好良く見える……というのは自意識過剰だろうか。
「さて、今日も一日頑張りますか」
僕は両手を伸ばし身体に気合いを注入する。そして、味噌汁の香りに誘われるように部屋を出た。
「母さーん、おはよー」
今日は良い日になると、僕は確信した。
……………。
…………。
………。




