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01-A

 雨が降りしきる並木道を、早足で進む。

 地面に足がつくたびに水しぶきが上がり、泥が靴や足を汚す。


「朝はあんなに晴れてたのに……」

 この文句、さっきから何度漏らしているだろう。……とにかく急がなきゃ。


 何しろ、私は傘を持っておらず、すでにずぶ濡れ状態なのだから。



 ミドルスクール卒業から約2週間。私は以前にも増して仕事漬けの日々を送っていた。


 もう学校のことを考えなくてもいいというのは大きい。

 勉強やら試験の点数やらに意識を割かなくてもよくなったというのは、非常に清々しいことである。



 そして今日も、私は仕事を終えて、ここ数日拠点にしている街への帰路についているというわけだ。


 時刻は夕方。だけどすでに、空に立ち込める暗雲のせいで辺りは暗い。

 周囲に木々があるせいか、余計に暗く感じる。


「ちょっと強くなってきたかな……」

 降り注ぐ雨は、次第に強さを増していく。


 頭に被せた大きめのタオルは水を限界まで吸い、もはや雨よけの役目も果たしてはいない。重いし水は滝のように垂れてくるしで、かなり鬱陶しい。


 服も上から下、そして中までぐっしょり不快に濡れ尽くしている。靴の中も同様で、さっきから歩くたびに変な音が鳴っている。

 この分じゃ、肩に掛けているバッグの中も水浸しだろう。


「……ん」

 雨の帳の向こうから、ぼんやりと人影が現れた。こんな雨の中、徒歩でどこへ向かうのだろうか。


 だけど私は、そんなことよりも、その人物が傘を差していることに口を歪める。

 そして、どうして私は傘を持ってこなかったのかと悔やむんだ。


「あのぉ……」

 向かいから来た人物の横を通り過ぎようとした時、声をかけられた。


 遠慮がちな、女性の声だ。


「え?」

 振り向くと、その女性は立ち止まって私の方を向いていた。


 顔は、傘のせいでよく見えない。


「どうかしましたか?」

 こんな状況で呼び止めるなよと内心苛立ちつつ、その女性へ問いかける。


 すると女性は、ゆっくりと私の方へ歩み寄ってきた。

 音もなく、ゆっくりと。その歩みは、不気味でさえあった。


「――?」


 直後、私は自分の身体に妙な衝撃を感じた。左脇腹の辺りだ。

 それは違和感へと変わり、そしてすぐに熱さへと変わって広がっていく。


「え……?」

 鼓動が一気に激しくなり、視界がゆっくりと下へ。


 そこにあるのは、女性の頭。傘は地面を転がり、明らかになったはずの女性の顔は目深に被ったフードで見えない。

 身体は、黒の長いコートに包まれている。


 ……フード付きの、黒いコートだ。


「やぁっと見つけた」


「――!」

 女性の頭がわずかに動き、フードの下の顔がちらりと覗く。


 その唇は、冷たい笑みを浮かべていた。

 弧を描いて横に大きく裂けた口の中に見えるのは、ぬらりと濡れた白い歯。


 私の身体に寄りかかるように密着しているその女性は、尚もぐいぐいと身体を寄せてくる。

 そのたびに、私の喉から苦鳴が漏れる。


「ぅ、あ、ぁ、……」

 激痛に耐える、潰れたような声が。


「死ね。ティナ・ロンベルク」


「ぁ……!」

 ずるりと私の腹から引き抜かれたのは、血で赤黒く染まったナイフ。


 血の糸は雨で切れ、刀身の朱もどろりと流れ落ちていく。


「うっ……ぁ……」

 腹を押さえる手が、服が、赤く染まっていく。


 熱い。痛い。熱い、熱い……!


「あ、ぐ、ぁぁ……」

 ビリビリとした絶え間ない痛みが、私の身体から力を奪っていく。


 熱湯でも流し込まれたかのような熱さも、止まることなく広がり続ける。



 刺された。私、刺されたんだ。


 ……死ぬ? ……嘘でしょ?

 私は、こんなところで死ぬの……?



 気付けば両膝が地面を叩き、私の身体はそのまま崩れ落ちていった。

 顔の一部が、水溜まりに沈む。口の中に泥水が入ってくる。


 息がどんどん荒くなっていく。身体の力がどんどん抜けていく。

 それでも私は、自分を刺した人物の顔を確かめるべく、首をわずかに巡らせた。


 だけど、地面から見上げたそいつの顔は、フードの影でちょうど見えない。

 辺りの暗さも手伝って、その影は深く濃い。



 ……私は、なぜ刺されたのだろう。


 この女は、私の名を呼んだ。

 一体、誰なの……?



 私を刺した女は、やがて傘を拾ってゆっくりと踵を返し、来た道を戻り始める。


「……ま、て……」

 震える手を伸ばす。だけど、その手はもちろん、私の声も雨にかき消されて届かない。


「ぅ……」

 伸ばした手が、ぱしゃりと水溜まりに落ちる。


 ……身体が、あれだけ熱かった身体が、冷えてきた。

 私の身体が沈む水溜まりが、赤く染まっていくのが見える。


 血を流しすぎたんだ……。


「や、だ……」

 死にたくない。


 だけど、もう身体が動かない。


「お、と、う、……さ、ん……」


 直後、急激に視界が狭まり、真っ暗になった。




 真っ白な世界の中、ぼんやりと、人影が見える。


(誰……?)


 問いかけても、返事は無い。

 返事は無いけど、反応はあった。


 その人影の顔の部分。そこにある口が開き、ぐにゃりと笑みを作ったんだ。


 黒い影に、吊り上がった白い口。

 一体あれは、何だ?


(誰なのっ?)


 ……? 変だ。

 叫んでいるつもりなのに、声が出ている気がしない。


「苦しいか?」

(――!)


 明瞭な声が届く。男の声だ。

 誰? あの人影が喋ったの?



(!)


 パッと、世界が白から黒へと変わる。


「俺が味わった苦しみは、そんなもんじゃねぇぞ」

(――――!)


 聴覚が馬鹿になるほどの大声が響く。

 そして、そのボリュームのままの哄笑が世界を覆う。


 何重にもなって響くそれに、私は耳を塞ぐ。


(いやっ!)


 いくら塞いでも、声はするすると入り込んでくる。


(やめてっ!)


 その場で膝を折り、身体を丸める。


(やめてええええぇぇぇぇぇぇぇぇっ!)



「――――!」


 目が勢いよく開く。と同時に、一瞬呼吸が止まった。

 直後大きく息を吐き、同じだけ息を吸う。


「いっ! つぅ~……」

 鋭い痛みが、左脇腹から走る。


 静かに呼吸を整えながら触れてみれば、そこを覆うように何かが身体に巻かれていることに気付く。


 ……これは、包帯か?


 そうして、自分がベッドに寝かされていることと、服が変わっていることに気付いた。

 これは、……病衣だ。以前、同じような物を着たことがある。


「……病院?」

 白い天井には、淡い光を放つ電灯。


 視界を巡らせてみれば、カーテンが閉められた窓、その反対側に白いドア。

 狭い部屋だ。個室、かな。


 どうして私は、こんなところにいるんだ?


「……あ」

 思い出した。私、女に刺されたんだ。


「……」

 そこまで思考を巡らせてようやく、自分が生きていることを理解し、実感した。


 死を覚悟したんだけど、っていうか絶対死んだと思ったんだけど、どうやら私は運が良かったらしい。

 おそらく、あの後誰かにここまで運ばれたんだろう。


 そう思った直後、ガチャリとドアが開いた。


「おっ、気がついてるじゃん」

 現れたのは、眼鏡をかけた、濃い山吹色の髪の女性だった。


「ちょーっと待っててね。すぐに先生を呼んでくるから」

 女性は明るくそう言い残すと、ドアを閉めてどこかへ行ってしまった。


 あれ? 今のって……。


 私は、以前彼女と会ったことがある。




 簡単に言ってしまえば、私はあの後あの道を通りがかった馬車に拾われて、この街の病院に運び込まれたというわけだ。


 すでに手術は終わっていて、私が目を覚ましたのはそれからおよそ4時間後。

 時刻は午後9時を回っていた。



「いや~、驚いちゃったよホント。いきなり馬車が止まったと思ったらさぁ、道に人が倒れてるんだもん。もうちょっとで轢くとこだったって、御者のおじさん焦ってたよ」


 ベッドの横に椅子を持ってきて腰掛けたその女性は、肩口までの長さの髪を揺らしながら、快活な口調でペラペラと喋る。


「病院に運んでくれて、ありがとうございます。モニカさん」



 彼女の名はモニカ・アイヒマン。私の恩人の親友だ。

 8ヶ月ほど前にその恩人に会いに行った際に彼女と出会い、少し話をしたのを覚えてる。



「ふふふ、感謝しなさい。あと少しあのまま放置されてたら危なかったって、……あ、それはさっき先生が言ってたね。えへへ。まぁとにかく、助かってよかったよかった」

 白い歯を見せて笑うモニカ。


 その時、ドアがノックされる音が響く。

 こちらが返事をする前にドアが開き、男性が2人入ってきた。


 あの制服は……。


「あ、そうだった」

 モニカは、何かを思い出したかのように立ち上がると、私を見て「病院が呼んでくれたの」と囁く。


「ティナ・ロンベルクさん、だったかな。ちょっと話を聞かせてもらっていいかね。君を刺した犯人のことについて」


 部屋に入ってきた2人の男性が着ているのは、警官の制服だった。

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