07-B
結局私は、その夜一睡もできなかった。
別に、ずっと悩んでいたわけじゃない。
……私は、我慢していた。っていうか、もう限界だった。
朝。ノックの後、ドアが開く。
その音だけで、私は少し安堵した。やっと来てくれたか、と。
「おはよう、ティナ」
心の中で挨拶を返しつつ、ハイディマリーがベッドに歩み寄ってくるのを待つ。
「あらあら、随分疲れた顔をしてるわね。もしかして、ホントに一晩中考えてたの?」
そう言って笑う彼女は、すでに化粧をしてスーツを着込んでいた。
……答えはもう出てる。そんなことより、一刻も早くこの拘束を解いてほしい。
私は必死に、そう目で訴えかけた。
「ん、どうしたの? そんな怖い顔して」
怖い顔? どんなふうに怖いのかわかんないけど、そりゃそんな感じの顔にもなる。
早く、早く鎖を解いて! ホント、ヤバいんだって……!
「なにモジモジしてるの? ……あ、もしかして」
ようやく気付いてくれたようだ。
ハイディマリーはニヤリと笑う。
その笑みに、嫌なものを感じ取らざるを得なかった。まさか……。
「そっかそっか。昨日のお昼頃からずっとここにいるんだもんね。うふふ」
何ですか、何のつもりなんですか、その微笑みは。
「トイレ、行きたいんでしょ」
その言葉に、一も二もなく私は頷いた。何度も何度も。
そんな私の様子に、ハイディマリーは「そうよねぇ」と笑みを深めながらベッドに腰掛ける。
「……でも、あなたが無事に解放されるかどうかは、あなたの返答次第よ?」
彼女は、私に背を向けたままそう言った。
ああ、やっぱりそういう展開になるのか……。
白金の髪をさらりと揺らしながら振り向いたハイディマリーは、そのまま肘を曲げて身体を捻りつつベッドに這い上がってくると、「うふふ」と笑う。
「鎖を外してほしければ、うちの社員になりなさい」
はい来た。予想通り。
ハイディマリーは重ねた腕の上に顎を乗せ、足をパタパタと上下に動かしながら、さらに笑みを深める。
それはとても綺麗な微笑みなんだろう。だけど私には、悪魔の笑顔に見えた。
「なんか変な顔をしてると思ったら、漏れちゃいそうだったのね。どうする? 私としては、このままあなたを放置しちゃっても全然構わないわけだけど?」
ベッドが汚れてもいいって言うのか? 嘘でしょ?
「ここで、あなたが漏らすまで待ってるのもいいかも。じぃっと見ていてあげる」
この人、綺麗な顔して性格が悪い。悪すぎる!
「ねぇ、どうする? ……社員になる? トイレは隣、すぐそこだよ? 今ならまだ間に合うんでしょ? 早く頷いた方がいいと思うけどなぁ」
ねっとりとした口調で言うハイディマリー。その顔にはニヤニヤと楽しげな笑みが。
腹立つ~!
「……!」
ああっ、もうダメだ。これ以上我慢するのは無理。でも、こんなところで漏らすわけにはいかない。
…………仕方ない!
「お」
私は、小さく繰り返し頷いて見せた。
「本当に?」
コクコク。
「ふふふ、いいわねその表情」
一体私は、どんな顔をしているのだろうか。
「わかったわ。だけど、その前に見てほしい物があるの」
「?」
身体を起こしたハイディマリーは、スーツの内ポケットから一枚の紙を取り出した。
それを広げて、私に突きつける。
「これはね、労働契約書っていうの。傭兵には必要無い物だから、見たこと無いでしょ?」
確かに、こんな物は見たことが無い。
「簡単に説明すると、我が社の社員として働く意思の証明になる書類ね。これにサインすれば、あなたはうちの社員として法的に認められ、同時に、この契約を守るという義務が生じるわけ。もちろん、守らなければ、法的に罰せられることになるわ」
……何だよ、それ。
ぞわりと、頭に血が上っていくのを感じる。
「怖い顔。……そうね、口くらいは解放してあげましょうか」
「!」
ハイディマリーは、ニヤニヤしながら私の上に跨る。
そして、ゆっくりと手を伸ばしてきて、私の口を塞いでいた布を解いて捨てた。
「そ、そんな物を書かせるつもりでいたんなら、私には最初から選択の余地は無かったんじゃないですか! 卑怯です!」
その紙を奪って引き裂いてやりたかったけど、できずに苛立ちばかりが溜まっていく。
私の怒声を聞いたハイディマリーは、「うふふ」と笑い声を発した。
「――!」
けれどそれは、今までのものとは全く異質の笑み。思わず身震いするほどの冷笑だった。
カーテンを閉め切っている部屋の薄暗さが、その冷たい笑みに闇を加える。
「そうよ。あなたをここから帰す気なんて最初から無いわ。言ったでしょう? 欲しかった物を手に入れたって。もしかしてあなた、ちゃんと自分の気持ちを伝えて断れば、私が理解してくれるとでも思ってたの? あまりに楽観的だわ」
……これが、この女の本性か。
「卑怯、卑劣、汚い、……どうとでも言えばいい。ティナ、私はね、欲しい物を手に入れるためなら何だってする人間なのよ? 手段を選ばず、狙った獲物は逃さない。私に狙われた以上、あなたはもう逃げられない」
そして彼女の口からどろどろ漏れるのは、気味の悪い笑い声。
地の底から湧く魔物の声のようだ。
「さぁ、どうするの、ティナ。これにサインしないなら、あなたはずっと拘束されたまま生活することになるわよ。私はそれでも構わないけどね。食事から下の世話まで、私が全部やってあげる。うふふふ……」
この女に対する感情は、もう嫌悪感しか残っていない。
こんな人間が組織のトップを務めているとあれば、キースのような人間が属していても、何らおかしくないなと納得できる。
そして私は、自分の警戒心の無さにつくづく呆れ、呪った。
どうしてあの時、彼らについて行こうと簡単に決めてしまったのか。
今となっては後悔と自責の念しか無い。
「どうしたの、ティナ。さぁ、どうするか答えなさい。サインするの? しないの? どっち?」
そう言いながら、ハイディマリーは私の上で身体を揺さぶる。その振動が、私の下半身を刺激した。
「うぅっ……!」
渾身の憎しみを込めて彼女を睨むけど、ダメだ、力が入らない。
もうホントに、限界……!
「や、やめてっ! 書きます。サインしますから!」
とにかく、今はこの強烈な尿意をどうにかしないと。
逃げる手段は、それから考えよう。
「行っておくけど、逃げようとしても無駄よ」
「!」
「あなたを襲ったイルマと、私が連れてきたサイラスたちは全員、元傭兵。素手ならもちろん、武器を持っていたってあなたでは敵わないわ」
……元傭兵? そうか、だからイルマはあんなに身体能力が高かったのか。
「さてと」
ハイディマリーは私の上からどき、ベッドを下りる。
そして寝室のドアを開け、「イルマー」と手招き。
すると、すぐにあの少女が姿を見せ、ハイディマリーが差し出した物を受け取った。
「あの子を解放してあげなさい」
「いいんですか?」
「ええ。早くトイレに行かせてあげないと、ベッドが汚れちゃうもの」
……やっぱり、嫌なんじゃないか。
「わかりました」
寝室に入ってきたイルマは、私を見て眉根を寄せつつも、ハイディマリーに言われた通りに鎖を外して私を解放してくれた。
「うう……」
自由の身になったものの、激しく動くとヤバイ。漏れる。
だから私はゆっくりと起き上がり、そろそろと歩いてトイレに向かった。
ああ、なんて情けないんだ、私は。
どうにか無事に用を足してトイレを出ると、すぐさまイルマに腕を掴まれ、ハイディマリーが座るソファの近くまで連れて行かれた。
テーブルの上には、広げられた労働契約書と、ペン。
ハイディマリーは「さあ」とそれらを指し示し、サインを促す。
……逃げられない。書くしかないな。
大きく溜め息をついてハイディマリーの向かいに座り、ペンを持って書類にサインをした。
書き終わるや、私がペンを置くよりも早く、ハイディマリーは書類を奪い取るように取り上げ、ささっと折り畳んでスーツの内ポケットにしまい込む。
「これで、あなたはヘルヘイムの社員よ。今日からよろしくね、ティナ」
彼女は「うふふ」と穏やかに微笑んだ。
だけど、その笑顔が優しいとはもう思えなかった。
「じゃあ早速、あなたの制服を用意しないとね」
……制服?
首を傾げる私に、ハイディマリーは私の横に立っているイルマを指差した。
正確には、彼女が着ているコートをだ。
「この黒コートは、我が社の制服なの。私がデザインして、特別な生地を使って作らせた特注品なのよ。新入社員には、まず始めに渡すことにしている物なの」
「へぇ……」
これ、制服だったんだ。コートが制服だなんて、珍しいな。
「予備は無いからね。今から発注しないと」
そう言って立ち上がったハイディマリーは、イルマに「じゃあ、よろしくね」と言い残し、足取り軽く部屋を出て行った。
よろしくねってのはつまり、私の監視ってことか。
向かいに座ったイルマは、私をじっと睨むように見続けている。
……非常に、居心地が悪い。
どうする? 話しかけてみるか?
「……えっと、イルマ……さんって、元傭兵って聞いたけど、ホント?」
別に興味も無いけど、ずっと黙って見続けられるのは耐えられないから仕方ない。
だけど困ったことに、イルマは口を開こうとしない。
……そりゃそうだよね。この子、私をキースの仇みたいに思ってるんだもんね。
そういえば、この子とキースはどういう関係なんだろう。まだちゃんと聞いてないな。
うん、それには興味あるな。聞いてみよう。
「イルマさんって、あの男とどういう関係なの?」
すると、今度は反応があった。
「あの男って、誰」
「あ、えっと、キース……さん」
その名前を出した途端、イルマは私をギロリと睨む。
「……あ、あの、……ごめんなさい」
私はなぜか謝っていた。だって怖いんだもん。
「あの人は……」
そんな私から視線を外し、イルマは言葉を紡ぐ。
「キースは、私の一番大切な人」
え……?
それってやっぱり、……そういう関係ってことなんじゃないの?
「キースは、私を拾ってくれた。私に優しくしてくれた。私のそばにいてくれた」
まるで独り言のように、呟き続けるイルマ。
やがてその双眸が、私を捉える。
「だけど、私はもうあの人と一緒にいられない」
彼女の双眸が、氷のように冷えていく。
「お前が、あの人を斬ったから……!」
今にも飛びかかってきそうな形相の少女から、私は目を離すことができなかった。




