冷蔵庫の拍手
最初の拍手は、午前二時十三分に鳴った。
パチ。
三田村修司は、冷蔵庫の前で動きを止めた。
右手には棒アイス。左手は冷蔵庫の扉にかかっている。
築三十年のワンルームには、壊れかけのエアコンの音が満ちていた。
ゴォォォォォ。
風量だけは立派だが、吐き出されるのは生ぬるい風だった。
八月に入ってから、東京では熱帯夜が続いている。窓を開けても、外から流れ込むのは室外機の熱と、濡れた布のように重い空気だけだった。
遠くで救急車のサイレンが鳴っている。
上の階では、誰かが椅子を引きずっている。
冷蔵庫のコンプレッサーが低く唸る。
ブゥゥン。
それだけだった。
「聞き間違いか」
修司は扉を閉めた。窓ガラスに、閉まりきる寸前の自分の姿が映った。
一瞬、その背後にもう一人、同じ格好で立っている影があった気がした。
瞬きの間に消えた。エアコンの風で、カーテンが揺れただけだろう。
パチ、パチ。
今度は二回だった。
冷蔵庫の中から聞こえた。
修司はゆっくりと扉を開けた。
白い庫内灯が顔を照らす。
麦茶。卵。半分になったスイカ。賞味期限が昨日までのヨーグルト。コンビニでもらった小袋の醤油とからし。
ほかには何もない。
音も止まっていた。
修司は扉を閉めた。
パチパチパチパチ。
開ける。
静かになる。
閉める。
パチパチパチ。
開ける。
止まる。
修司は何度も繰り返した。
冷蔵庫を開けたり閉めたりしているうちに、恐怖よりも先に、妙なおかしさが込み上げてきた。
扉を閉め、冷蔵庫に向かって軽く頭を下げる。
「どうも」
パチパチパチパチパチパチ!
盛大な拍手が返ってきた。
「ウケるな」
修司は吹き出した。
その瞬間、冷蔵庫の奥で、誰かが息を吸った。
すうっ。
修司の笑いが止まった。
耳を澄ませる。
カラン。
製氷皿から氷が落ちただけだった。
「……驚かせるなよ」
誰にともなく言い、修司は棒アイスをくわえてベッドへ戻った。
スマートフォンには、母からの不在着信が一件残っていた。
時刻は午前二時十三分。
留守番電話を再生する。
『修司、まだ起きてる? 別に用事じゃないんだけどね。ちょっと声が聞きたくなって』
修司は最後まで聞かず、停止ボタンを押した。
「こんな時間にかけてくるなよ」
メッセージを削除する。
直後、台所から小さな音がした。
パチ。
*
翌晩、修司は拍手の条件を調べた。
普通に冷蔵庫を開ける。
無反応。
勢いよく開ける。
無反応。
映画俳優のように横顔を作り、振り返りざまに開ける。
パチ、パチ。
「こういうのが好きなのか」
修司は卵を取り出した。
片手で割ってみる。
カツ。
割れない。
もう一度、強く叩く。
ぐしゃっ。
殻ごと潰れた。
白身と黄身が指の間から垂れ、床に落ちる。
パチパチパチパチパチパチ!
冷蔵庫から大喝采が起きた。
「成功した時じゃなくて、失敗した時に盛り上がるのかよ」
床を拭きながら、修司は笑った。
次は牛乳を一気に飲んで、むせた。
「ごほっ、ごほっ」
パチパチパチ。
スイカの種を皿へ飛ばそうとして、自分の頬にくっつける。
ぺち。
パチパチパチパチパチ!
「お前ら、趣味悪いな」
冷蔵庫の中から笑い声がした。
くすくす。
修司は口を閉じた。
くすくす。
今度は、ひとりではない。
大人に交じって、子どもの笑い声も聞こえた。
ひひひ。
修司は扉を開けた。
音は止まった。
ヨーグルトの容器が、棚から落ちていた。
蓋には小さなくぼみがいくつもついていた。
指先で、内側から押したような跡だった。
*
修司は会社で総務をしていた。
社員証の再発行、会議室の予約、消耗品の補充、入館カードの停止。
誰かが困った時だけ名前を呼ばれ、問題が解決すれば、そこにいたことごと忘れられる仕事だった。
昼休み、社内チャットに会社紹介の動画が流れてきた。
広報部の若い社員が、カメラの前で笑いながら仕事のやりがいを語っている。
動画の下には、拍手の絵文字やコメントが並んでいた。
『会社の顔ですね』
『素敵です』
『次回も楽しみにしています』
修司も十年前には、映像を作る仕事をしたいと思っていた。
大学時代、友人たちと短い映画を撮ったことがある。
脚本を書き、カメラを回し、自分でも出演した。
学園祭の小さな上映会で、観客が笑った。
最後には、まばらながら拍手も起きた。
あの音を、修司は今でも覚えている。
就職活動では制作会社を何社も受けた。
最終面接まで残った会社もあった。
だが、採用されたのは別の人間だった。
生活のために入った今の会社で、最初は広報への異動を希望していた。
希望調査には毎年そう書いた。
一年目は「経験を積んでから」。
三年目は「今の部署に必要とされている」。
五年目には、希望欄を空白で提出した。
最近では、自分が何になりたかったのかを思い出すことさえ少なくなっていた。
その日の会議で、修司は業務改善案を説明した。
「備品申請をオンライン化すれば、承認状況が可視化できます。月に十時間以上は削減できるはずです」
課長はパソコンから目を上げなかった。
「うん。資料、あとでメールしといて」
二十分後、課長はほとんど同じ内容を自分の案として部長に話した。
「申請手続きをオンラインに一本化すべきだと思いまして」
「いいね。進めて」
会議室に小さな拍手が起きた。
パチパチパチ。
修司は顔を上げた。
拍手をしているのは、同僚たちだった。
もちろん、修司に向けたものではない。
帰宅後、修司は冷蔵庫の前に座り、缶ビールを開けた。
プシュッ。
「今日さ」
冷蔵庫は静かだった。
「俺の案、課長が自分の案みたいに言ったんだよ」
パチ、パチ、パチ。
「しかも、みんな拍手してた」
パチパチパチパチ。
「笑い事じゃないぞ」
パチパチパチパチパチパチ!
腹が立った。
それでも、少しだけ嬉しかった。
冷蔵庫の中の誰かは、少なくとも修司の話を聞いていた。
*
翌日から、修司は帰宅するたび、冷蔵庫に一日の出来事を報告した。
その中でも、よく覚えているのは水曜のことだ。
社員食堂で、修司の注文だけがいつまでも来なかった。
厨房に声をかけると、伝票が見当たらないと言われた。
結局、食券を握りしめたまま、昼休みが終わった。
空腹のまま午後の仕事をした。
その夜、冷蔵庫に話すと、観客はひときわ沸いた。
パチパチパチパチパチパチ!
修司が恥をかくたびに、拍手は少しずつ大きくなっていった。
拍手の向こうから、椅子が軋む音も聞こえるようになった。
ギィ。
ギィ。
時折、咳払いもした。
誰かが飴の包み紙を開く。
カサ、カサ。
後ろの席から、静かにするよう注意する声。
「しっ」
修司は冷蔵庫に尋ねた。
「そこ、何人いるんだ?」
一斉に音が止まった。
しばらくして、冷蔵庫の奥から何かが答えた。
「まだ、足りません」
男とも女ともつかない声だった。
「何が?」
返事はない。
代わりに、何本もの爪が冷蔵庫の内壁を擦り始めた。
カリ。
カリカリ。
カリカリカリカリ。
修司は扉を閉めた。
*
一週間後、冷蔵庫は突然、拍手をしなくなった。
修司が帰宅しても、何も聞こえない。
「ただいま」
無音。
プリンの蓋を額に貼る。
無音。
冷凍ご飯を頭に載せて踊る。
無音。
修司は息を切らし、冷蔵庫の前にしゃがみ込んだ。
「おい。今日、体調悪いのか?」
口にしてから、自分が冷蔵庫の体調を心配していることに気づいた。
だが、返事がないのが怖かった。
誰にも見られていない。
誰にも聞かれていない。
世界に自分一人しかいないような気がした。
「……俺、本当はさ」
修司は膝を抱えた。
「会社、辞めたいんだよ」
一秒。
二秒。
三秒。
パチパチパチパチパチパチパチパチ!
これまでで最も大きな拍手だった。
修司は顔を上げた。
「それが見たいのか?」
足を踏み鳴らす音が返ってきた。
ドン。
ドン。
ドン。
翌日、修司は辞表を提出した。
課長は驚きもしなかった。
「急だなあ。引き継ぎはちゃんとしてよ」
感謝も、慰留もなかった。
「もちろんです」
修司は笑った。
帰宅して冷蔵庫を開ける。
ワアアアアアアア!
歓声が部屋を揺らした。
拍手。口笛。足を踏み鳴らす音。
何百人もの観客が、扉一枚隔てた向こうで熱狂していた。
修司は胸に手を当て、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
冷蔵庫の奥で、何かが舌なめずりをした。
ぺちゃ。
*
会社を辞めてから、修司の昼と夜は曖昧になった。
目覚ましをかける必要がなくなり、昼過ぎに起き、明け方に眠った。
床には空き缶が転がり、テーブルには食べかけの弁当が残った。
修司は、より大きな拍手を求めるようになった。
十年間連絡を取っていなかった友人に、深夜、電話をかけた。
呼び出し音が三回。四回。留守番電話に切り替わる直前、回線が切れた。
かけ直しても、同じことが繰り返された。
最後には、機械的な女性の声が告げた。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』
修司はしばらく、切れたままの通話画面を見つめていた。
パチパチパチ。
拍手が大きくなるたび、修司の周囲から人がいなくなった。
だが、冷蔵庫の観客だけは離れなかった。
*
ある夜、修司は冷蔵庫の前で眠ってしまった。
目を覚ました時、部屋は暗かった。
停電していた。
エアコンも、電子レンジの時計も、冷蔵庫の駆動音も止まっている。
完全な静寂だった。
その中で、冷蔵庫の奥から声がした。
「見えない」
修司は身を起こした。
子どもの声だった。
「暗い」
別の声が重なる。
「どうなった?」
「幕が下りたのか?」
「まだ終わっていない」
「灯りをつけろ」
冷蔵庫の中が、急に騒がしくなった。
椅子を蹴る音。
何人もの足音。
何か硬いものを扉へ投げつける音。
ドン。
ドン。
「修司」
初めて名前を呼ばれた。
「そこにいるんだろう」
「灯りを戻せ」
「見せろ」
声は次第に切迫していった。
「見えない」
「何も見えない」
「このままでは、私たちが消える」
修司は冷蔵庫の前まで這っていった。
停電しているはずなのに、扉の隙間から細い光が漏れていた。
中を見てはいけない。
そう思った。
だが、扉の向こうから何十人もの手が同時に叩きつけられた。
ドン!
冷蔵庫が大きく揺れた。
「開けろ!」
修司は反射的に扉を開いた。
白い光が部屋を照らす。
中には麦茶と卵と、干からびた野菜しかない。
声も消えていた。
停電しているにもかかわらず、庫内灯だけが点いている。
修司が扉を開けたまま立っていると、冷蔵庫の奥で安堵のため息が広がった。
はああああ。
客席全体が同時に息を吐いたような音だった。
やがて、ひとりが拍手を始めた。
パチ。
別の者が続く。
パチ。パチ。
最後には、いつもの大喝采になった。
修司は扉に手をかけた。
ほんの少し閉めてみる。
「待て」
拍手が止まった。
さらに閉める。
「やめろ」
声が震えている。
扉の隙間が細くなる。
「見えなくなる」
「閉めないでくれ」
「お願いだ」
修司は再び扉を開けた。
観客たちが一斉に息を吐いた。
その瞬間、修司は初めて理解した。
自分が冷蔵庫の中を覗いているだけではない。
向こう側もまた、この扉を通して修司を見ている。
そして、扉が閉じれば見えなくなるのは、修司だけではなかった。
*
ある朝、母から電話があった。
修司は画面に表示された名前を見つめた。
冷蔵庫の中から、期待するようなざわめきが聞こえる。
ざわ。
ざわざわ。
電話に出るべきだと思った。
だが、出なければ拍手がもらえる気がした。
修司は通話拒否を押した。
静寂。
そして、
パチパチパチパチパチパチパチパチ!
修司も一緒に手を叩いた。
その日の夕方、親戚から電話があった。
母が自宅で倒れ、病院へ運ばれたという。
修司が病院へ着いた時には、すべて終わっていた。
*
葬儀の夜。
修司は喪服のまま冷蔵庫の前に立った。
「お前らのせいだ」
返事はない。
「お前らが、拍手なんかするから」
扉の向こうで、誰かが咳払いをした。
「俺は悪くない」
パチ。
修司は冷蔵庫を蹴った。
「拍手するな!」
パチ、パチ。
「やめろ!」
パチパチパチパチ。
修司は電源コードを抜いた。
それでも音は止まらない。
冷蔵庫を壁から引き離し、扉をガムテープで塞いだ。
一本。
二本。
三本。
内側から拍手が鳴る。
パチ。
一本目のテープが切れた。
パチ。
二本目。
パチ。
三本目。
扉がわずかに開いた。
隙間から冷気が流れ出す。
真夏とは思えない、死体安置所のような冷気だった。
修司は後ずさった。
午前二時十三分。
部屋の照明が消えた。
冷蔵庫の明かりだけが、白く床を照らす。
その光の中へ、濡れた足跡が一つずつ現れた。
ぺた。
ぺた。
ぺた。
誰かが冷蔵庫から出てくる。
姿は見えない。
足跡だけが、修司へ近づいてくる。
ぺた。
ぺた。
胸の前で止まった。
耳元で母の声がした。
「修司、起きてる?」
修司は振り返った。
誰もいない。
「別に用事じゃないんだけどね」
反対側の耳から聞こえる。
「ちょっと声が聞きたくて」
「母さん?」
冷たい指が、修司の両耳に触れた。
耳のすぐ内側で、拍手が鳴った。
パチ。
修司は悲鳴を上げた。
*
気がつくと朝だった。
修司は床に倒れていた。
冷蔵庫の扉は閉じている。
濡れた足跡も消えていた。
夢だったのかもしれない。
そう思いかけた時、耳の奥から小さな笑い声がした。
くすくす。
修司は冷蔵庫の中へスマートフォンを置いた。
録画を開始し、扉を閉める。
一時間後、映像を確認した。
最初は暗闇だけだった。
やがて、どこか遠くで咳払いが聞こえた。
照明がつく。
赤いカーテン。
その向こうに、無数の座席が並んでいた。
人影が座っている。
顔は暗くて見えない。
だが全員が、カメラの方を向いていた。
最前列の一人が腕を上げる。
修司と同じ腕時計をしている。
その男が前へ身を乗り出した。
修司と同じ顔だった。
窓ガラスに映った、あの一瞬の影を思い出した。
客席には、何人もの修司がいた。
映画祭の入場証を首から下げた修司。
社内報の表紙に載っている修司。
妻と子どもに挟まれて座る修司。
母の隣で、退屈そうに欠伸をしている修司。
どれも、修司がなれたかもしれない人間だった。
彼らは皆、舞台の上を見ていた。
舞台では、一人の修司が冷蔵庫の前で踊っている。
今の修司だった。
映像の中の観客が一斉にこちらを向いた。
そして、同じ声で言った。
「もうすぐ終わります」
映像が途切れた。
*
「何が終わるんだよ」
修司は冷蔵庫に向かって叫んだ。
パチ。
「俺を見ているのか?」
パチパチ。
「面白いか?」
ワアアアアアアア!
修司は冷蔵庫を殴った。
「俺の人生は見世物じゃない!」
拍手が止まった。
男とも女ともつかない声で、場内アナウンスが流れた。
「まもなく最終演目を開始いたします」
冷蔵庫の扉が開く。
中には食料品の代わりに、細長い通路が伸びていた。
床には赤い絨毯。
その先に、巨大な劇場がある。
客席を埋め尽くしているのは、別の人生を選んだ修司たちだった。
「お前らは何なんだ」
最前列にいる背広姿の修司が答えた。
「会社を辞めなかった君だよ」
映画祭の入場証を下げた修司が言う。
「映像を作り続けた君だ」
子どもを抱いた修司が笑う。
「家庭を持った君だよ」
母の隣にいる修司が、手を振った。
「最後の電話に出た君だ」
修司は、何かを言おうとして、言葉が出なかった。
目の前にいるのは、化け物ではなかった。
自分がどこかの分岐で選ばなかっただけの、ただの自分たちだった。
「拍手は、俺を褒めていたんじゃないのか」
背広姿の修司が、目を伏せた。
「君が失敗するたび、俺たちは自分の人生を確かめていたんだ」
それだけ言うと、あとは黙った。
言葉にすれば安っぽくなることを、彼自身も分かっているようだった。
修司の頭に、これまでの音がよみがえった。
母の留守番電話を消した夜。
パチ。
会社を辞めた日。
パチパチ。
友人からの着信音が二度と鳴らなくなった日。
パチパチパチ。
母からの最後の電話を拒否した日。
割れんばかりの拍手。
修司の人生から何かが消えるたびに、観客は喜んでいた。
「長らくのご出演、ありがとうございました」
舞台の中央に、一本のスポットライトが落ちた。
観客たちが立ち上がる。
修司は光の中に立ち尽くした。
肩が震え始めた。
観客は、修司が泣いているのだと思った。
違った。
しばらくして、修司は顔を上げた。
「そうか」
声はまだ乾いていた。
「お前ら、俺が終わるところを見たいんだな」
客席が静まり返る。
「じゃあ、最後まで付き合えよ」
修司は冷蔵庫の扉へ手をかけた。
客席から悲鳴が上がった。
「待て」
「閉めるな」
「何も見えなくなる」
以前の修司なら、その声に怯えて扉を開けただろう。
今は、扉に置いた手が小さく震えていた。
それでも、離さなかった。
「見えなくなるだけじゃないんだろ?」
最前列の修司たちが黙り込む。
「じゃあな」
扉を閉める。
最後に残った細い隙間から、無数の顔が見えた。
成功した修司。
家族を持った修司。
母の電話に出た修司。
彼らはもはや笑っていなかった。
全員が同じ恐怖の表情を浮かべていた。
自分の人生が本当に正しかったのか、疑い始めていた。
扉が閉じた。
劇場の出口が消えた。
*
どれほど時間が過ぎたのか、修司には分からなかった。
舞台の上で、彼は演じ続けた。
卵を投げた。
牛乳を鼻から吹き出した。
冷凍ご飯を頭に載せて踊った。
賞味期限の切れたヨーグルトを客席へ撒いた。
最初、観客は笑った。
やがて飽きた。
一人が席を立った。
修司は動きを止める。
「お帰りですか?」
「もう十分だ」
「困るんですよ」
修司は微笑んだ。
「こっちは、あなたたちのために人生を全部なくしたんですから」
客席の出口を探していた観客たちが騒ぎ始めた。
「ここから出せ」
「冷蔵庫を開けろ」
「もう見たくない」
修司は舞台から降りた。
「拍手」
誰も手を叩かなかった。
修司は最前列の男の前に立った。
「してください」
男は震える手を持ち上げた。
パチ。
隣の観客も続く。
パチ。
パチ。
やがて全員が、泣きながら拍手した。
パチパチパチパチパチパチパチパチ。
修司は深く頭を下げた。
*
三か月後。
家賃滞納を理由に、大家が修司の部屋へ入った。
本人の姿はなかった。
テーブルには、母の葬儀で使われた遺影が伏せられていた。
部屋に残されていたのは、古い冷蔵庫だけだった。
秋になり、新しい入居者が決まった。
二十二歳の大学生だった。
引っ越し初日の夜。
大学生はコンビニで買ったアイスを冷蔵庫に入れた。
扉を閉める。
中から、かすかな声が聞こえた。
「開けないで」
大学生は振り返った。
「誰かいる?」
「お願いです」
冷蔵庫の中で、何人もの男が泣いている。
「ここから出して」
「いや、開けるな」
「見つかる」
「静かにしろ」
「拍手をしろ」
声が重なり合う。
大学生は恐る恐る扉を開けた。
白い明かり。
アイスとペットボトル。
ほかには何もない。
声も止まっていた。
「なんだよ」
大学生は苦笑し、扉を閉めた。
少し考え、冷蔵庫に向かって軽く頭を下げる。
「どうも」
パチ。




