第1話 最愛を代償に
神殿の天井は高く、星空が描かれたフレスコ画はまるで、これから地上に下される理不尽な運命を嘲笑っているかのようだった。
石床に膝をつく。冷たさが膝の肉を突き抜け、骨に染み渡る。俺、エリスタの眼前には、この世界の守護神を名乗る不気味な光の塊が浮かんでいた。
そうさ俺は、今日この場で「勇者」として辺境から召喚されたはずの、ただの生贄さ。
「……本当に、それしかないのか」
俺の掠れた声が、広大な神殿に虚しく響く。隣には、幼馴染であり、俺が人生のすべてを捧げてきたテレシアが、呆然とした表情で立ち尽くしていた。
彼女の瞳からはすっかりと光が消えている。勇者の座を奪い、俺を排斥しようとするかつての友人・レストが、彼女の精神を既に塗りつぶしていたからだ。
レストは俺の背後で、わざとらしく鼻を鳴らした。
「無能の鑑エリスタさん。お前には何もできないよ。勇者の権能も、俺の隣で微笑むテレシアも、最初からお前の分際では不釣り合いだったんだよ」
そんな屈辱が胸を焼く。だがその怒りよりも先に、胸の奥で冷たい何かが凍りついた。
……そうだよ。俺の人生は、幼い頃からずっと「何か」を削り続ける日々だった。
神の恩恵を受けられなかった俺は、可能性を、未来を、ただ捧げ続けることしかできなかった。
そして今、残された最後の希望すらも、この腐った「勇者召喚」という儀式に踏みにじられようとしている。
(俺に、力さえあれば……。)
──ドクン、
『契約を望むか』
神の声が脳に直接響く。甘美で、それでいて死の匂いがする甘い誘惑の囁き。
──ドクン……
『お前には何の力もない。だが、お前が持っている唯一の価値、――「想い人と結ばれるという希望」を完全に切り捨てて差し出せば、この世界の理をねじ伏せる力を授けよう』
……それは、最愛との可能性を未来永劫奪われるという呪いだった。それでも、迷う必要なんて最初からなかった。このまま無力なまま、あいつに蹂躙されて終わるくらいなら。
(テレシア、俺は君を愛してるからこそ──)
「……いいだろう。くれてやるよ」
俺の言葉と共に、胸が裂けるような痛みが走った。心臓の奥に、黒い楔が打ち込まれる感覚。俺はテレシアを見た。そして、彼女は既に俺のことを知らない他人のような目で眺めている。呆気なかった。
きっともう、俺の名前を呼ぶことはないだろう。
『契約は成立した。汝に与えしは、万象を支配する重力――超重力』
瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。
指先一つ動かすだけで、周囲の空間が悲鳴を上げ、大気が圧縮される。これまで感じたことのない、狂おしいほどの質量が俺の肉体に宿る。
「……おい、エリスタ。いつまで待たせるんだ? 早くその無能な面を下げて……」
──ヴン。
近づいてきたレストの胸元を、俺は力任せに殴りつけた。ただ、拳の向こう側に「重力」を集中させた。
「がっ……!?」
レストの体が、まるで巨大なプレス機に挟まれたかのように歪み、神殿の壁に縫い付けられる。壁がひび割れ、砕け散る。
たった一撃。拳がレストを穿とうとする。
テレシアが小さく悲鳴を上げ、レストの影に震える。その光景を見て、遂に俺の心は死んだ。
ああ、やっぱり契約通りだ。俺の手は、あの子の頬を撫でるためではなく、あの子を傷つける元凶を、物理的に粉砕するためにあるのだ。
「……なるほど。これが『最強』ってやつか」
俺は立ち上がり、血を吐くレストを見下ろした。生憎この力は、俺を祝福しないらしい。彼女を救い出すたびに、俺たちはさらに遠ざかっていく。
この際……それでも、いいと。
神が決めた運命すら、俺の重力でねじ伏せてやる。そんな決意を胸に抱え、俺は、運命を殺す重力の怪物へと成り下がった。
神殿の重苦しい空気の中で足元の石畳を、手のひらの重力だけで砂粒に変えていく。
「貴様ッ……!おのれ……エリスタァッ!」
「──レスト、覚えとけ。お前が奪ったテレシアの笑顔と、俺が捧げた未来の対価は、お前の命を幾ら使い潰しても足りない」
俺は背を向けた。俺が、この退屈な世界を、俺自身の重力で「圧殺」しに行くのだ。
これから突き進むのは、復讐という名の、あまりにも重たくて、切ない俺だけの道。
──君を救うための俺だけの道。




