26.温度
「任せろ」
その言葉と共に、衛は駆け出した。
その手には、ペン型の注射器が握られていた。
行く手を阻むように、鎖たちが衛を襲う。
杏は苦悶の表情を浮かべ、再び呻き始めた。
痣が瞬く間に全身を覆っていく。
それだけでなく。
それは次第に、ひび割れていった。
ひびから、鮮血と彩礫があふれ出す。漏れ出た彩礫は霧散し、辺りの空気を割る。空間に生じたひびはさらに広がっていった。
杏は完全に制御を失っていた。
杏の彩力に彩礫が呼応し、空気が揺れる。
杏を中心として、石畳へ放射状の亀裂が走っていった。
衛はその様子に慌てて燦の元へ転移した。その身体を抱え、再び転移して塀の上に避難させる。
「塀を伝って、できる限り離れて!」
衛は燦にそう告げると、自身は彩礫が荒れ狂う中庭へ戻っていった。
なおも、無数の鎖が衛を襲う。その数は先程の比にならない程増えており、二本のナイフではとても捌ききれなかった。
「くっ、…っ」
捌ききれなかった鎖が、容赦なく衛を傷つけていく。体が軋むように痛む。
本来なら歩くのも儘ならないような体で、衛は杏に向けてひたすら駆けて行った。
衛を支えるのは、ただ一つの情念のみであった。
特別なことは願わない。
ただこの子に、温かいご飯を食べてほしい。
安心して眠ってほしい。
気兼ねなく笑ってほしい。
ただこの子に、生きていて良かったと、日々が楽しいと、そう思ってほしい。
ただ、それだけ。
だから、
どうか。
そんな衛に向けて、鎖は収束するととぐろを巻き、ドリルのようになって衛に迫る。
杏の鎖はきっと転移させられない。
とっさに、衛は下に滑り込むと、ナイフで鎖たちを受け流した。
その先にやっと見えた、杏の姿。
痛々しくて、弱々しくて、けれど苛烈で。
衛は杏に向けて手を伸ばした。
そんな衛に向けて杏は。
「死んで」
そう呟いて、左手を突き出した。
❖❖❖❖❖
うなじに、針に刺されたような痛みが走る。
左手には柔らかく生温かい感触があって、左腕には温かい何かが滴り落ちていた。
咽るほどの鉄のようなにおいが鼻を突く。
右肩にかかる重みに耐えきれず、杏は膝をついた。
そっと、抱きしめられる。
けれどその腕には力がなくて。
体中を包むぬくもりが、杏には酷く恐ろしかった。
「おかえり」
その温度を、杏はよく知っていた。




