大丈夫
* * *
「アストラーレ、俺と結婚してほしい」
夕陽が草原を優しく包む丘の真ん中で、背の高い銀髪の彼が熱心に頭を下げている。
「無理」
そんなことをしても私の答えなんて変わることはないのに。
「どうしてだい? 出会ったときから俺は君のことが本気で好きだ。これまでもこれからもずっと。死ぬまでそうだと約束する」
死ぬまで、という言葉に体が強張った。
どこからともなく吹く風が柔らかな金髪を撫でた。視界を遮られるのが鬱陶しくて、髪を先端の尖った耳にかけるとため息が溢れた。
「何度も断るこっちの身にもなってほしいよ。君はもう、私より背が大きくなった。強くなった。魔王だって倒したし、名声だってある。私なんかよりお似合いの女の子だってすぐ見つけられるよ」
ただ事実を告げる。ともに旅をして十数年。彼を育てたと言っても過言ではない。もういい加減現実を見て、乳離れすべきだと思う。
「俺には君しかいないんだ」
私を見つめる瞳は青く澄んでいる。その曇りなき眼には夜明け前の空が閉じ込められているようだった。
彼が誰彼構わず結婚を申し込まないことはわかっている。私がそんなふしだらな男に育てるはずないし、実際そういった素振りを見せたこともない。
「改めて考えてごらん。私はもう三百歳過ぎてるし、そんな感情が芽生えるのは変なんだよ」
長寿だと恩人や師として慕われることはあれど、二十歳そこそこで求愛してくるなんて、人間はつくづく不思議だ。
いや人間というより、彼が特別おかしいだけなのかもしれないが。
シワも傷も一つない自分の手を見る。いつぞやの旅の途中、ある村人に羨ましがられた一方で、家事をしない手だと揶揄されたこともあったっけな。
「でも、俺があのときから君を好きなのは本当だ」
森で出会って以来、アルバはずっと同じことを主張し求婚してくる。私が新しい服を買ったときも、初めてケーキを食べたときも、ダンジョンで秘宝を見つけたときも、魔王を討った直後でさえ。
今や口癖となったその言葉に重みも何も感じない。
「ねえ、前々から思ってたんだけどさ、なんで結婚なの。母親になって欲しいとかじゃなくて」
まさかここまで続く関係だとは思わなかったせいであえて踏み込まなかったことに今更後悔した。
「それは」
アルバは言葉を探すように目を動かすと、おもむろに口を開いた。
「君との間に上下関係を作りたくなかった。君とは隣を歩いて生きていきたかったんだ」
「上下関係?」
「……ガキのころの俺にとって母親は絶対服従を強いられる存在だった。言う通りにしないと傷が増えた。だから」
アルバは過去を憎むように、片方の二の腕に爪を立てた。
「君に母親を望んだら、またあの生活に戻るんじゃないかと思った。あのとき咄嗟に出た告白は、本能的に俺自身を守る行動も含まれていた、と思う」
出会ったときに考えていたことも、告白という行動に出た理由も、やっと腑に落ちた。
でもその想いが願望として今も残っている理由にはならなかった。
疑問をそのまま投げかけると、アルバは言葉を詰まらせながら答えた。
「……最初は強くて憧れだった。助けてくれたときに離れたくない一方で、心を奪われたのも事実だ。でも、一緒に旅をしていく中で、君の魅力がどんどん高まった。可愛い服が似合うのも、ケーキを食べると顔が綻ぶのも、見つけた宝石を恍惚と眺めている姿も、強大な敵に臆せず立ち向かっていくのも全部」
「そう。よく見てるね」
聞くとさらに疑問が増えた。短い人生なのにどうして私のことばかり気にしているのだろう。
魔王を討ち取ったのは私とアルバだけじゃない。他に仲間だっていた。魔導士のセレステに騎士のウェスペル、守護者のノクス。
特にセレステはアルバと同世代の女の子だ。普通なら同じ種族で惹かれるはず。
それなのに、彼は私のことしか見ていない。その異常さに眉を顰めていると、アルバは話を続けた。
「でも、君は料理が下手だし、寝相も悪いし、不満があるとわかりやすく口を尖らせる」
「そんなことない」
「じゃあ今の顔鏡で見てみるか?」
アルバが得意な顔をしているところを見ると、わざわざ確認をする必要もなさそうだ。
フンと鼻を鳴らして顔を伏せた。
「でも、そんな完璧じゃない君だからもっと近くにいたいと思った。もっと好きになったんだ」
心の奥がむずむずするような違和感に眉根を寄せた。
顔を上げられず、草の上にできたアルバの影を眺めてみたが、何も変わらなかった。
「俺はもう子どもじゃないし、強くなったよ。君を守るために」
「別に私は」
守られたいなんて。言いかけた言葉を咄嗟に飲み込んだ。
『——君みたいな子どもじゃなくて、もっと強い人がいいし』
そんな戯言を十年も引きずって、間に受けて魔王を討ち取った勇者なんか聞いたことがない。
観念したようにゆっくりと顔をあげる。確かにもう子どもじゃない、小さくもない。
「一途だね」
「君の気持ちを知りたい。まだ俺じゃ力不足?」
そこには目を泣き腫らしたあざだらけの少年はいなかった。
種族、寿命、年齢。そんなことを気にしているのは、どうやら私だけのようだ。
「そんなことないよ、立派になった」
暇つぶしの数十年を結婚生活に充てるのも悪くないんじゃないか。飽きたらあの森に帰ればいい。
そう割り切ることだってできるはずなのに、なぜか差し出された彼の手は取れなかった。
「でもやっぱり私じゃ釣り合わないよ」
さらにその手をそっと払ってしまった。
今度は胸の奥に小さな氷が刺さったような感覚がした。
「そんなこと言ったら俺の方がよっぽど」
ふと、彼の目が雨のような哀しい色になった。
おかしいな。あんなに近くにいたのに、手の届かないほど遠くに行ってしまったような。
——私は、どうしたいんだろう。
自分の心なのに正解がわからない。答えを探したくても誰も教えてくれない。三百年も生きているのに、目の前の青年に縋ろうとさえしてしまう。
「私は、」
首を傾げたアルバの背中に隠れていた陽光に目が眩んだ。
逆光に照らされたアルバと、もうほとんど覚えていない母親の影が重なった。
その瞬間、胸騒ぎの正体がようやくわかった。
「離別が怖い」
ずっと一人で生きてきて、母親なんていなくても平気で、生きとし生けるもの誰でも死や離別は平等に訪れるものだと静かに受け入れていた。
旅に出る前だって、飽きたらすぐ故郷へ帰ろうと本気で考えていた。
それなのに、隣にいることが当たり前になった今、彼から離れる勇気も、受け入れる覚悟も持てなくなっている。
「怖くなっちゃった」
震えた独り言に対する返答はなかった。
代わりに返ってきたのは、身体を、心を包む温もり。
状況を整理したくて瞬きをすると、背中をぽんぽんと優しく叩かれた。それはありし日に怖い夢を見たと泣くアルバを私が慰めたときと同じテンポで、少しづつ不安を解いていく。
「大丈夫、俺が側にいる」
永遠なんて存在しない。それは痛いほどわかっている。でもそんなふうに言われるとほんの少し先の未来を彼に預けてみたくなって、そっと腰に手を回した。
「先に死んじゃうのに何が大丈夫なの」
語気が強くなる。
顔は伏せたまま、回した手に力を込める。
息を吸い込むと温かい空気が鼻腔を満たした。
「そうだな、君と生きる数十年で嫌ってほどたくさん思い出を残す。俺が死んだ後も君が思い出して強く生きていけるように」
背中を覆っていた大きな手が、今度は頭に添えられた。
百年もしないうちに私は一人になってしまう。この大きな手も、いつかシワが増えて小さくなって軽くなってなくなってしまう。
ずっと平気だった一人なのに、そう遠くない未来を想像して視界が滲んだ。
「せめて俺が生きている間は、絶対に寂しい思いはさせないよ」
今君のせいで泣いてるのに、なんて文句は言葉にできず唇をギュッと噛んだ。
「確かに君にとっては俺と過ごす日々なんて、ほんの数十年かもしれない。」
触れられていた手がふと離れる。上目遣いでアルバを睨むと、彼は私と目線を合わせるようにしゃがんできた。
「でも永遠なんてないから、だからこそ一日を大事に生きていけるんだと思う」
そのまま優しく頬を、耳を撫でられる。
アルバと出会ってからあの森を出て、人間の文化に触れて、価値観を知って、世界がさらに色づいた。
怖いはずの離別も、彼の言葉で乗り越えられる気がしてしまう。
傷つくのがわかっていても、委ねたくなってしまう。
自分の気持ちに正直になりたいと思ってしまう。
全部全部全部、アルバのせいで。
「どうかな」
首を傾げたアルバの瞳には、目を腫らしたみっともない姿のエルフが映っている。
「……ああもう」
目尻に溜めきれなくなった涙が一つ、二つこぼれ落ちる。
母親がいなくなったときでさえ涙は出なかったのに。
もう敵わない。
アルバの胸に顔を埋めたまま、大きなため息を吐く。
覚悟を決めたように深呼吸をすると、顔を近づけて、そっと唇を重ねた。
「私が弱くなったの、アルバのせいだからね」
目を丸くするアルバに聞こえない小さな声で、彼の服を力強く握った。




