第五話:凍りついた家
「寒い」
この家を一言で表そう。
寒い。
それ以外の言葉を、私は知らない。
薪の一つもない暖炉の前で、私はうずくまる。
自分の肩を抱いて、どうにか熱を保とうとするが効果はない。
ここには本当に、温かい血が通っていないようだ。
ある程度歩き回った結果、予感が確信に変わった。
やはり、あの時感じた違和感は正しかった。
暖炉に火がついていないだとか、シャンデリアにあかりが灯っていないだとか。
ここでは序の口のようだがーーどうやら物理的な問題だけではないらしい。
人がいない。
それだけではない。たまたま見つけられた人々と会話できたとしても、まるで決まったような定型分が返ってくるだけ。
こちらの方をじっくりと眺めたかと思ったら、ふいっと横を向いてしまう。
仕事以外の息吹が、本来あるはずの人間味が、まったく感じられない。
まるで、全員が未来を諦めてしまっているかのような。
そんな寒々しさが、この屋敷を覆っている。
これは相当、骨が折れそうだ。
…まずは、この家の空気を変えることから始めるべきかもしれない。
予想していなかった部分の手強さに、少し面食らってしまうが。
まあ良いだろう。復讐の序章が、簡単であってはつまらない。
ここで信頼を得ておいて、まずは堂々と帳簿を見る権利を手に入れてやる。
「見ておいでなさい。私の色に染め上げて差し上げますわ」
そう息巻いて、私は内部の調査に乗り出した。
翌日。
「何よこれ…」
叩けば叩くほど出てくるホコリ。
手入れすらされていない古い家具。
歩くたびに床が軋んで、この家の現実を突きつけてくる。
私がいた応接間とセリアンの執務室はまだマシな方だったらしい。
中には家具すらない、まっさらな部屋まであった。
無論、暖炉に火などついているはずもなく。
ボロボロの壁紙と、崩れかけの塀が公爵家の凋落を物語っていた。
一体、どれだけお金がなくて、人が足りていなかったらこうなるのだろうか。
平民出身だった二番目の夫でさえも、こんな生活はしていなかった。
「まったく、天下の『北の盾』がねえ」
棚を開けたり、閉じたりして調子を確かめてみる。
机をなぞれば、使っていない部分の滑りが悪い。
まあ、路上での生活に比べればここは天国のような物だが。
とりあえず、早急に人の手配と家の改造から始める必要がある。
物の方はすぐに解決できるだろう。
家具は古いが、由緒あるもので元々の質は良い。
一式すべて取り替えなくても、きちんと手順を踏んで原形を取り戻せば、新しく買うより安く済む。
足りない部分を補っていけば良さそうだ。
ひとまず応接間に戻り、机でサラサラと紙に筆を走らせ、リストの大枠を作っていく。
とりあえずは足りていない物の正確な把握だ。
出来次第、明日にでも手配しよう。
…問題は、人の方だ。
おそらく、これまで公爵家の情報が外部に漏れなかったのは、徹底した情報管理だけが理由ではない。
単純に人が少なく、長く働いている者しかいないため、そもそも漏れる隙がなかったのだろう。
当主がセリアンになってから、大規模な粛清が行われた可能性もある。
彼に許可をもらわずして推し進めるのは危険だ。
この状況を外部に知られるのは、彼としても、私としても仇になりかねない。
一番慎重に進めるべきところだろう。
そもそも人を雇うにしても、一気に大人数が増えればそれだけ穴も増える。
まずは信頼できる人間を少人数だけ集めていくのが良さそうだ。
コトリ、とペンを机の上に転がし、考えをまとめてゆく。
しかし、私側の人間だけを雇うわけにもいかない。
無論、彼もーーこの家の人々も、良い気がしないだろう。
よし、決めた。取り敢えず直談判だ。
こういうのはトップに話をつけた方が早い。
彼の号令があれば、皆、従わざるをえないだろうから。
もちろん、私の訴えが受け入れられない可能性もある。
ここは、商人の腕の見せ所。
――商談の、時間だ。
「と言うことで、私が来ましたわ」
「もう匙でも投げたのか?まだ三時間も経っていないぞ」
この屋敷唯一のオアシス。暖炉に火がついた執務室に行くと、主人は悠々と書類をめくっていた。
相変わらず表情が見えないが、セリアンの呆れたような声色が伝わってくる。
ああ、やっぱりお前もこの程度かと。
心外だわ。そのニュアンスを全面に押し出し、目を細めてやる。
「もう屋敷内の状況は、あらかた確認できたので。これ以上私が見て回る必要性はありません」
「ほう?それで?貴様の金で、解決はできそうだろうな?」
パチパチと薪が燃える音の中。
私の方を見る気配すらなく、サラリ、と彼の指が紙の上を滑っていく。
「もちろん。ただ、お金だけでは解決できないこともありますわ。
あなたもそれはよぉく、ご存じのはずでしょう?」
シャラリ、と意味ありげに扇子を鳴らして広げた。
「人ですわ、閣下。この屋敷、やけに色々と少ないですわね。
足りていないモノが多すぎますわ。
…一体どこに、消えているのでしょうね?」
暗に匂わせて、セリアンの手元を観察してみる。
顔には出なくても、身体には出やすいものだ。
案の定、ピクリ、と手の動きが止まったのが見えた。
「まあ、あなたが何をどう扱っていても、私が言うことは何もありませんわ。
しかし、使用人に関しては別です。このままでは、家門の尊厳に関わります」
「まったく。来て早々、我が妻は言いたい放題だな」
「事実ですから。
それに、人が増えれば、あなたの食事も変わりますわよ」
なんだろう?今一瞬、彼の目がキラリと瞬いたような…。
無理もないか。昨日の食事は、酷いものだったから。
味付けがほとんどされていない肉に、煮込みすぎて形が無くなった野菜。
料理と言うのもおこがましいくらいだ。一体この家は、どうなっているのか。
「バルテル商会から、口の堅いベテランを数名だけ呼びます。彼らには『毒婦の監視役』という名目を与えましょう。そうすれば、貴方の家臣たちも納得するはずです」
つ、と開きかけた彼の口を開かせる間も与えない。
「私側の人間だけを取り込め、と言っているのではありません。
反対の声も出るでしょうから、領民からも募集を募ろうと思っています」
「無駄な鼠を屋敷に入れるとでも?」
セリアンの言葉に首を横に振る。
「選考は、あなたの部下にしてもらいます。そうですね、15人くらいかしら。
あとは私が直々に選んで差し上げますわ」
「お前のことは、まだ発表していない。これがバレたら、どうなるか分かっているだろうな?」
きっと彼は、私をまだよく知らないのだろう。
これは、公爵家の情報網もしつけ直す必要がありそうだ。私の手駒にするにも、練度が足りなすぎる。
「あら閣下。私が世間でどう呼ばれているか、ご存じないので?」
ピクリ、と眉を顰めて、ようやく彼は私の目を見た。
「乞食、ですわ。路上ぐらしの、汚い汚い下賎の者。
平民にも劣るとよく笑われておりますの」
本当にくだらない悪名だ。過去は、頼んでもいないのに勝手に追いかけて来る。
「ですから私。あなたが何をしようが、何をされようが、怯む気はありません。
こうして見ると、意外に私たち、お似合いですわね?」
「悪名高いところが、か?」
「ええ。二人揃って世間の笑い物。でも、いつまでもその座に甘んじているあなたではありませんよね?」
綺麗に整えられ、対になった眉。それが片方だけ持ち上がって、はぁというため息が聞こえた。
「何が望みだ?」
「外へ。外出許可をお願いしますわ。平民として新たな人材を見繕います。
ついでに、使用人たちの教育もお任せくださいませ」
反論など許さない。貴婦人らしく、完璧に振る舞え。
――この場を制するのは、私だ。
「まずは、この空気から。私が吸うに相応しいよう、入れ替えさせて頂きます」
すうっと息を吸い、窓に近づく。
次の瞬間、シャッと音を立てて、勢いよくカーテンを開け放った。
暗い部屋に朝の明るい日差しが差し込み、光の中で埃が舞っているのが見える。
眩しい光に目を細め、少しだけ言葉を詰まらせて固まる北の公爵。
「…勝手にしろ。だが、俺の邪魔だけはするなよ」
鏡で写したかのように並んだ、アイスブルーの瞳が揺れて、また紙の方へと視線が戻される。
「まあ、この問題が無事に片付いたら、一度食事でも一緒に食べるとするか」
今度は私の方が虚をつかれた。まったく、本当に不思議な人。
一体どんな誘い方だ。そうツッコミたくなるのを必死に堪えて、口元を扇子で覆った。
「光栄ですわ。その誘い、忘れないで下さいませ」
こうして、私は外に出る権利と、推定復讐相手と食事をする権利を手に入れたのだった。




