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五度目の鐘の音は復讐の讃歌を  作者: 星墜


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第二話:私の光

覚えておきたい思い出ほど、知らぬ間になぜか崩れてゆく。


あの日。まだ、幸せしか知らなかった頃。

籠の中の鳥はー私は、初めて外の世界を夢見た。


屋敷の壁に見つけた小さな穴を、やっとの思いで通り抜けた先には、前日の夜にできた水たまりがあって。


当然、服はぐちゃぐちゃ。手は泥まみれ。お気に入りの服は台無しになって、泣きながら街を走った。


なんでこんなことをしたんだろうという後悔と、初めて見た外の景色との興奮があい混じって、ただ、がむしゃらに。


気がつくと、石につまずいたのか転んで動けなくなっていた。

体全体が氷のような石畳に預けられ、どんどんと熱を奪われていく。


息を吸うたびに凍えるような空気が刺し、焼けるように痛い喉が呼吸すらも阻みたい気持ちにさせる。


今思うとくだらないことだが、ほんのいっとき死を覚悟した。


そんな時に出会ったのが、あなただった。


いつも私に立ち上がる勇気をくれる、光。

擦りむいた膝の痛みと初めて味わう孤独感に耐えかね、心が折れそうになった時。


不意に小さな視界が遮られて、目の前に影が落ちた。


太陽を背に立ち、光り輝く男の子は、差し伸べたその綺麗な手で私の泥だらけの手をギュッと握る。


何も言うことが出来ず、ただ震えている私が落ち着くまで。いつまでも待ってくれた。もう大丈夫だよ、と。


そして、真っ白く新しいハンカチでそっと、私の手を優しく拭いてくれた。

あの手の温もりと、柔らかい感触。


目に焼きついたのは、その心地よさに似合わない、手のひらの特徴的なアザ。


「ちょっと待ってね」


そう言われて少し待つと、その手には温かいパンが握られていた。これでもかと言うほど載せられた美しい果物たちが、朝日にキラキラと宝石のように瞬いている。


「これを食べて。僕も、美味しいものを食べると元気が出るんだ。」


「…ありがとう」


そう言われると、何だかお腹が空いてきたような気がする。

目の前のパンが醸し出す、優しい甘い香りが私を誘った。


「じゃあ、僕もう行くね!」


行かないと、と少し焦ったような顔で男の子が背を向く。


「あの…待って、せめて名前だけでも!教えて、くれないかな?」


今は無理でも、商人の娘として、もらった恩を返さないわけにはいかない。そんな義務感を口実に、彼のことを少しでも知りたかっただけかもしれない。


急いで聞くと、彼はとっておきの秘密を口にするように、少しはにかんでこう答えた。


「……アン。アンって呼んで」


陽だまりのような瞳が。その笑顔が、光の中に消えていく。

足音が次第に遠ざかって、金色に煌めく朝日までもが遠く、遠くに霞んでゆく。


――その顔は、今はもう思い出せない。




寒く凍えるような空気の中、銀色の光が応接間に差し込んでいる。

ここは、北部の公爵邸。敵地だ。


案内もなく、ここでお待ちくださいとだけ言われ、もう数時間が経過している。

豪華なシャンデリアがあるのに火さえ灯っていない。


私のような悪女には、それさえ必要ないということか。

それとも、まんまと罠にハマったネズミに対する、嘲りだろうか。


ーーいや、もしかしたら。


ふと、シャンデリアの最上段に目をやる。精巧な装飾の隙間にうっすらと積もった埃。磨き上げられた大理石の床とは対照的に、高い場所への手入れが追いついていないのが分かる。


「…ただの嫌がらせにしては、徹底しすぎているわね」


隙間もないはずの大理石の床からは、冷気がじわりと這い上がり、私の足先を麻痺させていく。

部屋の隅にある古い時計が刻む、重苦しい秒針の音。


それが、私の命を少しずつ削り取っていくカウントダウンのように聞こえて、私は一度だけ大きく呼吸を整えた。



馬車でここまで来る途中も、刺すような視線を浴びせられた。

あるものには嘲笑され、あるものには下卑た目つきで見られる。


「ああ、あれが4人も夫を食い殺した悪女か」


「相応しい体つきだな。顔は少し平凡だが、いけるぞ」


「お前でも大丈夫なんじゃねぇか?爵位と金さえありゃあな」


まるで、見せ物だった。

何も、知らないくせに。


私じゃない。

そんなことしていない。


私はただ、幸せに暮らしたかっただけだ。

大切な人たちと、平凡に。ただ生きたかっただけなのに。


なぜこうなってしまったかすら分からなくて、怒りの矛先を向けることさえできない。

暗い心を押し沈めようと、必死に懐に入っている手紙を撫でて、落ち着かせる。


「じゃあ、あんたたちが教えてよ、夫を殺したのが誰なのか」


「何でもやるから。私は、何だってやる気なんだ」


外聞すらかなぐり捨て、いっそのことそう叫んで、言い返してやりたい。

けれどそれすらできない今の状況が、もはや笑えてくる。



本当は、今日は彼と思い出のカフェに行くつもりだったのだ。

三人目の夫と笑い合い、四人目の夫に出会った。


シェイラム・ヴェルディスタ。

私の凍りついた人生に春の芽吹きをくれた、最後の夫と。


私たちの日々を。あの思い出を分かち合って、今頃二人でアイスクリームでも食べていた。


「まったく。君は相変わらずお転婆だねえ。口の周りについちゃってるよ。

ほら、ねーえ、泣かない泣かない。亡くなった夫を思い出すって、どういうことだよもう。

そんなに似てるの?彼と僕」


その名に相応しく、夜空の星のように穏やかで、それでいて確かな温もりを宿す声。

そんな彼の軽い調子に乗せられて、いつの間にか涙も乾き、自然と表情が緩まるのを感じる。

だから。彼だったから、立ち直れたのだ。夫の死からも。


「いや、全然。ぜんっぜん、似てないんだから」


「ほんとに?何だよ。そこまで否定されると、なんかちょっと凹むかも?いや、嬉しいのか?」


そうやって、また二人で顔を見合わせ、また笑い合う。

アイスクリームも溶けてしまうような、楽しい時間を過ごす。


いつまでも舌に残る、あの甘い冷たさは、あんなに幸せだったのに。


冷気は拒絶の意思を示すように、絶え間もなく足元に広がってゆく。ただ体温を奪うためだけに存在するそれは、私の心までも凍らせてゆく。


チク、タクと音が鳴る。


ただ待つことしかできない虚しさ。


ふう、と息を吐いた。


ここの使用人たちもきっと、私の噂を知っているだろう。

そもそも、招かれざる客を丁重に扱う意味もない。


誰にも歓迎されていないのが分かると、むしろ清々しい気分だ。

玄関に立たせてお払い箱にならない分、マシだろう。


何時間でも良いから、ここでいくらでも待つと決めている。

幸か不幸か、この部屋には誰もいない。


私が少々感傷的になっても、誰に気付かれるわけでもない。

ただ、敵に対峙するまでには、覚悟を決めなければならないと、分かっている。


それまでは、少しだけ…。


「……アン」


口の中で、二度と届かない名前を転がす。もう私の手には泥一つなく、はらってもはらっても消えない色で汚れている。


目を閉じれば、白いドレスに広がったあの赤が。一生消えないあの血の匂いまで、指先にこびりついているようでーー。


吐き気がする。自分に。こんな状況下でも、過去の記憶に頼りたがる、自分の弱さに。


私は、4人の夫を失った。いや、私が死に追いやったのだ。あの、大切な人たちを。

そう自覚するたびに、胸がきしんで呼吸が早くなる。


いやだ。私じゃない。偶然だろう。そうに決まっている。

そう思いたい気持ちが奥底で渦を巻いて、止まらない。


鈍い痛みが、ただ胸を重くついて響く。結婚式の鐘の音が葬式に重なり、呪いのように鳴り続けて、頭の中を揺らした。

戻りたい。ただ、何も知らなかったあの頃に。温かいパンに胸を躍らせ、たった一人の少女でいられた、あの幸せな日々に。


けれどもう、私はその先まで知っている。知ってしまった。死にたいほど恨めしい気持ちも。いくら泥の中を這いずり回っても消えない、惨めな気持ちも。


夫たちは、そんな私の救いだった。


立つための足をくれた。下を向くな、と励まして、努力する場所をくれた。

前を見る勇気をくれた。手紙で、いろんな事を教えてくれた。

飛び立つための翼をくれた。初めて横に並んで、家族を教えてくれた。

そしてまた、羽をおられてもまだ、飛び立てる空の景色をくれた。あなたの血にまみれてもなお、立ち向かっていけるように。



ただただ、彼らのことを思い出すだけで、目の前が滲みそうになる。やるせない思いが耐えきれず、息をしている事が罪に思える。背負うものが大きすぎて、暗闇の中にそのまま倒れ、二度と起き上がりたくない。もう、思い出せないように頭でもかち割って死んでしまおうか。


そうやっていっそ忘れたいほどに彼らの愛は重くて、大切だった。


もう会いたいとも思わない「アン」を思い出すほど、追い詰められているとは。

くだらない、と独りごちた。


私のこの、独りよがりの感情も。彼らには関係ないのだ。

この復讐が終わるまで、何にも気を取られるわけにはいかない。

たとえ、大切な彼らの記憶でさえ。


私には、4人の愛する夫たちがいた。彼らがいなければ、今の私はない。

だからーー私の全てを賭けてでも、彼らの仇を取ってみせる。


なんとしても。それ以外の何を犠牲にしたって。


だから、昔の幻想に縋っている暇などない。


ギュッと、指先が白くなるほどきつく手を握りしめる。

これから会う、私の全てを奪ったかもしれない相手に、この弱さを気取られてはいけない。


張り詰めたような朝の冷たさが喉の奥を通り、消えてゆく。

覚悟は、もう出来た。



「――セリアン・ヴィル・アイセントール公爵閣下、お目見えです」


突然ギィィーーッと、重い扉が開かれ、執事の声が部屋を走る。

弾かれたように顔を上げると、無表情な黒髪の男が私を見ていた。


逆光の中、その輪郭は眩いほど照らされ、見辛いほどに白い。

あの日、私が出会った少年のように。


「…っうそ」


思わず目を見開き、ゴクリと息を呑んでしまう。

震えが止まらない。強く爪痕が残るほど手を握りしめても、治らない。

カタカタと指同士が擦れ合って、不協和音を響かせる。


彼が放つ、その威圧感のせいか。それともーー


まさか。いや、そんなはずはない。

何もかもが違うはずだ。


…本当にそうか?


あの日も、こんな寒い日ではなかったか。

こんな風に、暗い影に光が差す、絵画のように優雅な振る舞い。


それでいて汚い手に、自らの綺麗な手で平気で触れた、私の天使。

彼が去る音は、そう、まさにこんな。


動揺を隠せない。私が、私でいられない。


あの日聞いた、遠ざかる子供の軽い足音。 それが、規則正しくこちらへ向かってくる、重く冷たい響きへと変わる。

コツリ、コツリと革靴が床を叩くその音さえ、忘れたいはずの記憶を叩き起こしていく。


これが、氷の公爵。

これが、私の愛する人たちを殺した人。

――そして、私がこれから復讐するかもしれない相手。


まるで彫刻のように美しく、氷漬けにされたかのようにぴくりとも動かない顔。短く整えられた、サラリと揺れる髪の毛。その奥で鋭利な刃物のように冷たく蒼い瞳が、ゆらりと煌めく。


「…随分と待たせたようだな。死神とまで呼ばれる貴婦人が、私を待って震えているとは意外だ」


表情も変えずにうそぶいた、その彼は。

白い手袋をはめて、私に手を差し伸べていた。



…まるで見せたくないアザを、隠しているかのように。



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