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第4章 飛行艇アルデア・アルバ ④

「シーヴェン」

 サンカリは貨物室の隅で丸くなっている友に声をかけた。

「あ、デッキブラシだ」

 シーヴェンはサンカリが手に持っている物に気づくと、太い首を素早く持ち上げた。

「へへ、借りてきた」

 サンカリはシーヴェンに駆け寄ると、慣れた足取りで竜の巨体によじ登った。

「軍のご飯はどうだった?」

「美味しかった! スープに野菜がいっぱい入ってて、僕の普段のご飯より豪華だった」

 ソティラスは隊長だけあって忙しいようで、シーヴェンとの三者での話し合いを終えるとすぐにブリッジへと戻ってしまった。サンカリは手が空いてしまったので、貨物室にやって来た若い兵(シーヴェンのために貨物室の荷物を整理してくれた兵の一人だ)を手伝って、備品の在庫のチェックを行って一日を過ごした。ティテの様子を二度ほど見に行ったが、いずれも深く眠ったままだった。軍人たちに混ざってパンと肉とスープの晩ご飯を食べたあと、すっかり仲良くなった若い兵に頼んで甲板掃除用のデッキブラシを貸してもらったのだ。

 シーヴェンは頭をぺたんと床の上に落としてサンカリに身を委ねた。力を込めてデッキブラシをシーヴェンの背に押しつける。毛の一本一本の隙間にまでブラシの先端を擦りつける感じで。首の根元から尻尾の付け根まで、ゆっくり、丹念に。デッキブラシはかなり使い込まれていて木の柄などは薄汚れていたが、毛先にはまだ十分な張りがあった。

「サンカリにブラッシングしてもらうの、久しぶりな気がする」

 シーヴェンがまるで眠っているように心地良さそうな声で言った。

「何言ってるの。今日の朝に出来なかっただけじゃないか」

「そうなんだけどさ。毎日必ずやってもらってたから、一日でも抜けるとなんだか調子が狂っちゃうんだよ」

 シーヴェンの喋り方は調子の抜けたような舌足らずなもので、本当にそのまま眠ってしまいそうな声だった。

 ぐい、とデッキブラシをシーヴェンの背中に押しつけたとき、サンカリは奇妙な感触を覚えた。デッキブラシを彼の毛の隙間に潜り込ませたときの感覚がいつもと少し違う気がしたのだ。どこがどう、とは言うことができないのだが、シーヴェンの毛と背中がわずかに変化しているように感じられた。疲れのせいだろうか。

「くあー」

「わっ」

 シーヴェンが大きな口を開けて欠伸をする。竜の背中が波打って、サンカリの足元が揺れた。だから背中に乗っているときに欠伸をしないでよ、と文句を言う前に、シーヴェンが欠伸を噛み殺しながら言った。

「気持ち良い」

 竜の尻尾がぱたぱたと揺れた。

「サンカリにそうやってもらうと、やっぱり落ち着く」

 シーヴェンの言葉にサンカリの目頭がじんわりと熱くなった。友の心からの素直な言葉にサンカリの胸は喜びでいっぱいになった。それなのに、その喜びの陰にどうしようもないほど確かな恐れと悲しみが潜んでいた。正の感情と負の感情が同時に去来して、混ざり合って、それはもう形容できない何かになっていた。

 サンカリがシーヴェンとともに過ごす時間は永遠ではないのだということを嫌というほど思い知らされてしまった。明日になったら、シーヴェンはまた「あとを頼む」と言い残してサンカリの前から飛び去ってしまうかもしれない。トゥスクのように竜を殺す機械の餌食になってしまうかもしれない(もちろん、そんなことはあって欲しくないが)。そうでなくても、いずれ遠くない未来にサンカリは竜守ではなくなるのだ。自分の子に竜守の役目を継ぎ、自らはイーサのように竜と竜守を離れたところから見守る立場になる。とても脆くて、とても儚いもの。いずれ必ず終わりを迎えるもの。シーヴェンと過ごすときは、そういうものなのだということにサンカリは気づいてしまった

 今が永遠に続けば良い。明日も、明後日も、その次の日も、これからもずっと、こうやってシーヴェンにブラッシングできればいいのに。──その願いが絶対に叶わないとしても。

「明日もやってね」

 自分が言おうとした言葉を、シーヴェンに先に言われてしまった。しかも、心の底から安心しきった穏やかな声で。何故だか猛烈に恥ずかしくなった。誤魔化すために、サンカリは全然違う話題をシーヴェンに振った。

「今はどの辺りを飛んでるんだろう。竜の台座までどれくらいかな?」

 貨物室には円形の窓が幾つかあったが、いずれもはめ殺しになっていて開けることは出来ない。背伸びして窓を覗き込んでみても、薄暗い夜の空が見えるだけで、遥か下方にあるはずの地面の姿は全く映らない。艇内は気温や気圧がほとんど一定に保たれていて、夜になった今でも昼間とほとんど変わらないので、時間の経過を感じにくい。どれぐらい長く飛び続けていたのか、もうよく分からなくなっていた。

「ごめんね。こんなところまで連れてきちゃって」

 シーヴェンが顔を伏せた。

「大丈夫だよ。父さんは心配してるかもしれないけど、帰ってからちゃんと話せば許してくれるよ」

「そうじゃないんだ」

 シーヴェンは語気を強めてサンカリの言葉を遮った。

「君を巻き込んではいけなかったんだ。竜の台座の封印が暴かれるのを阻止することは竜の役目だ。僕だけでやらなければならなかったんだよ。でも、僕にはそれが出来なかったんだ」

 シーヴェンは顔を伏せた。

「君がデゼルターに襲われたと聞いたとき、気が気じゃなかった。僕の知らないところで君がいなくなってしまったら、どうしようって。君と離れたくなくなってしまったんだ。これは僕の我儘なんだよ」

 まるで痛みに耐えるように、シーヴェンの表情が歪んだ。

「君が一緒に行くと言ってくれたとき、本当に嬉しかったんだ。その言葉に、僕は甘えてしまったんだ」

 嬉しい、という言葉とは裏腹に彼の心は罪悪感で満たされているようだった。何故、それほどまでに彼が自責の念に駆られているのか、サンカリには分からなかった。

「僕はシーヴェンと一緒にいる」

 サンカリは言った。

「僕だってシーヴェンと同じだよ。シーヴェンが飛んでいってしまったとき、もう会えないんじゃないかと思った。今だって本当は、またシーヴェンがどこかへ行ってしまうんじゃないかって不安で仕方ないんだ」

 言葉が口から勝手に飛び出してきていた。感情がサンカリの意志とは無関係に止め処なく溢れた。

「竜とともに生きよ。それが竜守の役目だ。僕が竜守である限り、僕はシーヴェンと一緒にいる、絶対に」

 それがサンカリに出来る唯一のことだ。虹の石は奪われたままで、今は何色に輝いているのか確かめることは出来ない。でもきっと、緑色に輝いているはずだ。何故なら、サンカリはまだシーヴェンの竜守だからだ。

 シーヴェンはしばらくの間、目を閉じてじっと何かに耐えるようにしていた。目を開いて、瞳孔を縦に細めると言った。

「竜の台座のことを話しても良いかな」



 ◇     ◆     ◇     ◆



 ぴたり、と演奏が止まった。まだ曲の途中だ。ソティラスの右手の指は鍵盤を押さえたまま、左手の指はボタンを押さえたまま、動きを止めていた、。

「あの男は」

 長い沈黙のあとソティラスが急に口走る。一度口を噤み、目を閉じ、しばらくして、再び話し始めた。

 あの男の父親は先の大戦で類稀な軍才を発揮した英雄でな。過去に大きな戦争があったことは知っているな。君が生まれる前の話だが。残念ながら彼の人は戦中に殉職したが、その息子であるデゼルターもその才能を受け継いでいて、いずれは幹部になるものと目されていた。それが、ある日突然、開発局への転属を希望した。──ああ、開発局というのは、そうだな、軍の兵器を開発する部門だと思っておいてくれれば良い。

 不可解な転属願いではあったが、その希望は受け入れられた。開発局に異動したデゼルターはそこでも抜きん出た成果を挙げた。奴が軍の装備の軽量化や品質改善にどれほど貢献したかは計り知れない。そんな折に奴が開発した新兵器が、竜を殺す機械だ。

「竜を殺す機械……」

「そう。君の友を殺した機械だ」

 飛行艇の新兵装として開発された竜を殺す機械は、それまでの実弾兵器とは威力も命中率も連射性能も段違いの性能で、すぐに配備のためのテスト運用が認められた。しかし、奴は竜を殺す機械を運用するための飛行艇を強奪して逃亡した。

「それがあの黒い飛行艇ですか?」

「ああ。バラエーナ・ニグラという」

 すぐに追跡隊、つまり私たちが編成された。奴がスィンクリルに住む竜と竜守の少女を襲撃したという情報を得た私たちは奴の足取りを追った。そして、アフォンヒルグルのカノリデーでやっと消息を掴み……。

「あとは君の知るとおりだ」

 そう締めくくったソティラスは、アコーディオンの蛇腹に視線を落としたまま動かなくなった。

「どうして、教えてくれたんですか?」

 ティテの質問に対して、ソティラスは長い時間をかけて黙考したあと、こう答えた。

「知らないままにさせておくわけにはいかないと思ったからだ」

 ソティラスの言葉はティテの心の奥のほうにすっと入り込んでいった。

(ああ、そうだ)

 ティテは知らなければならなかったのだ。あんな男のこと、知らないで済むのなら何も知りたくなかった。でも、今はもう知らないままではいられない。デゼルターの正体を得体の知れない曖昧なもののままにしておくわけにはいかなくなってしまったのだ。

(だって、私は……)

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