第8話 「彼を右に、彼を左に」
――イグナーツ・アルトマンは生来、”優秀”な人間であった。
子供の頃から剣の才に優れ、故郷の街の近くに居を構え度々農産物を奪いに来ていた盗賊団をイグナーツ一人で壊滅させてしまうほどだった。
その噂を聞いたアストリア国王マクシムの使者が街を訪れ、イグナーツにアストリア兵士への推薦を王直々にするという話をしたのである。
王直々の推薦など最早試験をパスして即合格と言っているようなもので、話を聞いたときの周囲の驚きようといったら一夜で街中に広まったほど凄まじかった。
街きっての栄誉だと彼を引き止める者はほとんどおらず、イグナーツ自身自分の力を存分に振るえる環境を与えられることに悪い気はしなかったため、彼が登城したのはそれからすぐのことだった。
「面を上げよ」
王座に深く腰掛けた彫りの深い男――マクシム。
彼の前に跪いていたイグナーツは、言う通りに顔を上げる。
「イグナーツ・アルトマンだな」
「はっ。此度はアストリア兵士への推薦、有り難く存じ上げます」
「構わんさ。私が君を取り立てたかったからそうしたまでだ。明後日には兵士登用試験が始まる。合格は約束するが、一応君も参加するように。それまで控え室を用意するから利用しろ」
「はっ」
王の指示に従って、城内の客室が並んでいるフロアに移動する。
イグナーツの部屋は階の一番端なため、王座の間から降りてきてもそこからそれなりの距離を歩く。自然道すがらいろいろな人とすれ違うわけだが、
「見て、王様から兵士の推薦を受けたって噂の人、あの人よ」
「ふうん。そんな強そうには見えないけど」
ひそひそと自分のことを話している声が耳に入ってくる。陰口らしきものがほとんどで、イグナーツにとってはくだらない恨み言だ。
イグナーツは気にする素振りも見せず王城の廊下を闊歩する。
「――どうせ、賄賂かなんかで約束させたんだろ。実際は弱っちいさ」
ピタ、と足が止まる。不思議なことに、今イグナーツの耳を駆け抜けた一つの声は流す気になれなかった。
名誉を踏みにじる相手への強い侮辱。盗賊団の時のように叩き斬ってしまいたい激情が込み上がるも、イグナーツはそれを懸命に抑え込んで歩みを再開した。
「目の前で見せればいい」
合格が確定した試験でも、本気でやり遂げてやろうと誓いながら。
兵士登用試験は実技で行われる。
まず一人一人の剣の所作などの基本的なものから始まり、1対1での戦闘形式で候補者の適性や資質を見ていく。
そして、最後に待ち受けているのが実際の任務を模した最終試験だ。
これは盗賊に扮した現役のアストリア兵士たちを数人のグループで追い詰め、奪われた金貨の奪還を目指す。今までと違って一人ではないため、協調性なども必要になってくる。
イグナーツは一日目と二日目の試験を問題なく突破。戦闘形式の試験は相手に一瞬も主導権を握らせることなく完勝した。
そして三日目、最終試験である。
場所はアストレシアの城下町を出て少し先にある大きな草原。
候補者たちはそれぞれ三、四人のグループに分かれ城下町から逃走した盗賊(中身はアストリア兵士)を追う。
盗賊が特定のポイントに達するまでに捕まえて盗んだ金を奪い返せばクリアとなるが、失敗してしまったとしても候補者の試験中の動き方で高い評価が得られる場合は多い。
「……とは言うものの、成功するに越したことはない。俺の足を引っ張らないでくれよ」
何とも自己中心的なことを口走るこの男は、エウロ・エウゲーニー。イグナーツと同じグループに配属された。
「試験中の動き方というのは協調性やチームワークも含まれるんだぞ。今からそんな態度でどうする」
イグナーツがそう嗜めるも、エウロは全く聞く耳を持たずそっぽを向いてしまう。
最後の締めで最大の難関になりそうだと、心が重くなるのを振り切るように同じグループである残りの二人を見やる。
二人は線が細く弱々しい感じで、到底兵士を目指している同士には思えなかった。何やらもじもじして積極性も無さそうである。
「これは難しくなりそうだな……」
イグナーツは一人、周りに聞こえないように小さくため息をついた。
「おい、次は俺たちだ。早く行くぞ」
「待てエウロ、四人で行かないと」
「わかっている。だから早くしろと言っている」
「ハァ……」
頭を抱えながら城下町の出口に立つと、端にいたアストリア兵士が発煙筒で白煙を上げる。試験を開始する準備が整ったと盗賊役の兵士に伝える合図である。
煙が空に十分に登ってからスタートとなる。
「ルールは把握しているな。盗賊が指定されたラインを越えるまでに物品を取り返すのが目標だ。ラインはこの先にある大樹に沿って引かれているから、それを確認すればわかる。また、相手は二人だが他にも試験監督は配置されているので気を抜かないように。――それでは」
「――――」
「――始め!」
兵士の合図に合わせて一斉に四人が走り出す。
少し進むと先に左手に袋を持った一つの人影が動いているのが目視でき、近づくにつれその輪郭がはっきりしてくる。あれが盗賊だろう。相手は一人。残りは――。
「俺が牽制する。お前たちはその間に相手の間合いに入れ」
イグナーツが確認する前に、エウロが隊列から外れる。一応呼び止めるが、わかっていた通り足を止めることはない。
「まったく。二人とも、盗賊をそれぞれ左右から挟み込んでくれ。私はエウロに合わせて後方から攻める」
エウロと協力できるかどうかは別として、とにかくまず一人を押さえる。残りの一人の居場所を特定していない今、格上の相手に対して個々で動くのは危険だ。
イグナーツの隣を走る二人は自分の指示に了解の返事をして、スピードを上げながら盗賊の元へ。身体能力はそれなりに高いらしい。
「――ふっ!」
左手から風に乗って飛んできたのはエウロの声。
彼は弓兵志望で、その手にはよく手入れされた弓が握られている。
ちょうど今矢が放たれて、風を切る音と共に盗賊の元へ飛んでいく。なるほど大口を叩くだけあるらしく狙いが上手い。このままいけば盗賊の後頭部へ直撃するだろう。
が、相手はただのならず者ではなくれっきとしたアストリア兵である。
変わった狐のような仮面をつけた盗賊役は矢が自身の頭蓋に到達する直前に振り返り、慣れた手つきで木の短剣を取り出しながら矢を弾き飛ばした。
「ちっ」
エウロの舌打ちは聞こえていないだろうが、盗賊は挑発的な態度に応酬するかのように仏頂面した弓兵へ短剣を投げつける。よく鍛錬されたスムーズな重体移動。
しかしエウロも引き下がることなく、向かってくる短剣をすんでのところでかわし、間髪入れずに次の矢を放つ。矢継が洗練されている。
きっと手のひらを見ればまめが多くあるのだろう。あの自信は圧倒的な訓練量から、ということだ。
盗賊は第二の矢も難なくかわす。だが、ここまでの時間稼ぎで先に前線に上がっていた痩身の二人が盗賊に追いついた。両側から挟み込むようにして斬りかかる。
盗賊も木剣を引き抜き対応、剣戟の音がイグナーツの耳に流れてくる。しかし、何かがおかしい。実戦経験の豊富な現役兵士との剣戟がそこまで持つはずはなく――。
「待て! 一旦下がれ!」
イグナーツの制止は間に合わず、盗賊はそれを嘲笑して呼応するように懐に隠していたもう一本の木剣を取り出し、矢を弾いたときの反応速度を遥かに凌ぐ速さで二剣を巧みに操った。
左右から仕掛けた二人の剣を受け流し、狙ってくださいと言わんばかりに開かれた胸部に向けて熾烈な一突きを放つ。二人は胸を刺突される痛みに顔をしかめ、倒れ込んだ。
これほどの使い手を役とはいえ盗賊と呼ぶのは失礼である――そう痛感するほど、流麗すぎる剣さばき。
「やはり……手加減していたのか」
「そうらしい。お前、イグナーツと言ったな」
エウロがこちらへ駆け寄ってくる。
「ああ」
「俺が必ず隙を作る。だからそこで必ず仕留めろ」
相変わらずの無愛想な命令口調を聞いて、思わず口元がにやける。
それを見たエウロが渋面を作りさらに言葉を重ねようとしたので手で制し、
「わかった。頼むぞ」
「……ふん」
エウロの絶対の自信を信じて、突きの構えで走り出す。
待ち構える盗賊――いや、アストリア兵の二本の剣とイグナーツの木剣がぶつかり合う。
相手は二刀流ということもあって、イグナーツでも力では押し切れない。
一度下がって次は横から切り払うように剣を薙ぐ。次は縦。次は袈裟。繰り返される斬撃と斬撃。打撃と打撃。
イグナーツの方が多少優勢ではあるものの、なかなか相手に踏み込む隙が生じない。やはり熟練者である。
このまま決着を急いで無理に間合いを詰め過ぎれば、焦りにつけ込まれてあっという間に形勢が逆転してしまうだろう。
やはり何か場の膠着を脱する転換点が必要――と思われたそのとき、助け船が出された。
「これは頼もしいな」
「――!」
どこからか、アストリア兵の頭部に寸分の狂いもなく矢が飛んできたのだ。無論、エウロである。
奇襲を食らった相手はエウロがどこに隠れているのかを確認しようとしているらしかったが、イグナーツの前でそれは無謀というものだ。
「――フッ!」
矢を何とか回避したのはいいものの、生まれてしまった転換点をイグナーツは見逃さない。
防御が甘くなったアストリア兵へ連撃を繰り出し、華麗な剣さばきで翻弄、そして窮地を脱しようと無策で振りかぶってきた剣を弾き飛ばす。大きくバランスを崩す相手。
そこへ止めの一撃を首筋に見舞い――。
「これでやっと一人、だな」
イグナーツが地面に倒れ伏したアストリア兵を見ながら言う。
「で、さっきから残りの一人はどこにいるんだ」
どこからともなく近づいてきていたエウロが返す。それにイグナーツは不審な表情を向け、
「それを聞きたいのはこっちの方だ。一体どこに隠れていた」
「木の上だ。そこにあるだろう」
エウロが指さす方を見ると、確かにある。というかあれはゴールのラインが引かれている目安の大樹ではないのか。
「あれに登ったとでも言うのか?」
「登ったと言っても一番下にある枝までだ」
なんという行動力だろうか。いくらイグナーツが敵を抑えていたとは言え、戦闘中にあんなものによじ登るとは。しかも弓を抱えて。
「何と言うか、面白いやつだな。性格といい、その肝の据わりようといい」
「馬鹿にしているのか? 馬鹿にしているのなら今すぐそのふざけた眼球を射るぞ」
「ふざけた眼球って何なんだ……」
そこまで悪いやつでもないのだろうか。そう呆れながらも、イグナーツは気を緩めることなく兵士の持っていた袋に手を伸ばし――。
「とうっ!」
近くの草むらから威勢のいい声と共に人が飛び出してきたことにより、それは阻まれた。
狐の仮面に軽装、右手に木剣。試験開始から姿を見せなかったもう一人のアストリア兵士だ。
「さあ、本当の最終試験だ。やろうか」
「やっとお出ましか」
エウロが弓を構える。
「そこの弓兵志望の君。申し訳ないが、少しだけイグナーツと一騎打ちをさせてくれ」
最後の一人である盗賊役の兵士はゆっくりイグナーツとの間合いを詰めてくると、仮面により少しくぐもった声でそう言った。
距離が近くなって気づいたが、今倒した兵士よりも何か、彼は纏っている空気が重いような感じがする。威圧感と表現すると大方的を射ているだろう。
予想ではあるが、強い。
「私と一騎打ち……? そもそも何故私の名を知って」
刹那、イグナーツが言い終わる前に、兵士が鋭い突きを繰り出す。彼自身背が高く腕が長いため、その突きは槍のようにリーチがあった。
だが、長さこそすれ速さはそれほどでもない。落ち着いて相手の動きを見れば次にどこに打ってくるかも予測できる。
第一印象に全身から放つ圧倒的なプレッシャーがあったので少々肩透かしをくらった気分だが、それに気を許すことなくイグナーツは徐々に打ち合いの主導権を握っていく。
数度剣戟を繰り返したのち、大きく溜めた突きを弾いて相手の前方ががら空きになる。
そこにすかさず剣を横に薙いで勢いの乗った打撃を打ち込み――兵士は呻きながら地に尻餅をついた。
と、その衝撃で兵士の狐の仮面が顔から外れる。
直後、イグナーツは仰天も仰天、廃忘怪顛の極地を体感した。
「いやぁ、やはりやるなぁ。イグナーツ」
「お、王――――――ッ!?」
*
「誠に申し訳ございませんでした! この無礼死んで詫びさせて頂きます!」
試験が終わってから、イグナーツはマクシムの私室に招かれた。
国王のプライベートルームに呼ばれるなど、一生に一度ある者すらごく少ない至上の喜びだ。
最も、イグナーツにとってはこれが人生最初で最後の経験になるかもしれないが。
イグナーツは王の私室に憂鬱な気分のまま入り、迷わず土下座して先の言葉を叫んだ。
「何だ、私を打ったことか? 気にするな、私が君と戦ってみたかったからそうしたまでだ」
「で、ですが」
「あーよいよい。他の試験監督たちも誰一人私が忍び込んでいたことを知らなかったのだ。君に罪はないから早く頭を上げないか」
思ったより彼は寛容な性格のようで、面倒臭そうにイグナーツへのフォローをする。何だかこのままこうしていると逆に怒り出しそうなのでぎこちなく頭を上げた。
するとマクシムは満足そうに微笑んで、
「しかし君は本当に優秀だな。アストリア史上あの最終試験で兵士二人を倒してクリアした者は君が初めてだぞ」
「兵士は一人でしたが……」
「ハハハハハ! 細かい男だな! そんなのはどうでもよいのだ」
獣のような高笑い。彼は良い意味でも悪い意味でも一国の王らしくないように思う。と、マクシムは咳払いを一つして、
「君が兵士二人を圧倒して試験を突破したという噂が今にも城内を駆け巡っておる。きっと人望も高まるだろう。優秀な上に人望もある、ふむ」
何を言いたいのだろう、と首を傾げる。
まさか自分を褒めちぎるためにわざわざ自室に呼んだわけではあるまい。きっと、そんなことよりも重要な何かが――。
「君が王になれ。イグナーツ・アルトマン」
「…………はい?」
「フッ……ハハハハハ! すまんすまん、冗談だ! アストリアジョークだ!」
「は、はぁ」
失礼だがそれはマクシムジョークだ。今の言葉を冗談と受け取れるほどアストリア国民はお気楽ではない。
彼は本当に何が言いたいのか。王がただの平民にそんなことを口にするなど、絶対にあってはいけないタブーである。
結局その真相は不明なまま退出の命令が出され、イグナーツは入ったときと変わらないもやもやする気分のまま自室に戻った。
――なるほど私は優秀なのだと、そう自覚し始めたのはこの頃だった。
街に迷惑をかけていた盗賊団を一人で退治した。国王からアストリア兵士の推薦を受け、その兵士の試験で大きな活躍をした。
今までの他人に褒められてきたことは皆すべて、自分の優秀さがあって成せる技なのだと理解し始めた。
アストリア兵士になって数ヶ月がたち、仕事にも慣れてきている。周りからの信頼も厚い。
今日は特別に、王が国内の見回りをする間連れ添って近くで護衛するという任務だった。
普通ならばイグナーツのようなまだ下っ端階級の兵士では担当できない重い責務だが、イグナーツが所属している隊の隊長が「もっと経験を」と気を利かして取り計らってくれたのだ。
現在既に王一行はアストレシアを出立し別の街に到着。休息を取って、さて見回り開始というところだった。
イグナーツは馬に跨り、せっかくの良い機会、活かさなければならない、と再び気を引き締め直す。
が、ふと上空を見上げたイグナーツは、それに相反するように一抹の不安を覚えた。
「さて、それでは行くか」
「王、お言葉ですが。雲行きが怪しくなってきております。もう少しお待ちした方が良いかと」
イグナーツの言葉にマクシムも空を見上げ、ふむ、と呟く。
今日は朝から雲が厚かったが、その雲たちが黒みを帯びてきている。嵐とまではいかなくとも雨が降るかもしれない。
「いや、行こう。早く彼らの生活を見てやりたい。それに私がずっとこの街に滞在していては気が散るだろう」
これまた国王らしくない、国民に対して自らがへりくだった考え方である。
兵士の登用試験を受けたときから頭の片隅で思っていた、イグナーツなりの王への不満。
彼は国のことをよく考え臣下に対しても親切であり、仕える相手として非常に心地よくやりがいがあると言えるが、唯一イグナーツと反りが合わないのが国民への接し方であった。
王は国民を第一に考えるべきというのには賛成だが、だからと言ってへりくだれとは思わない。身分として自分が上であると、自分がこの国の頂点だという自覚がマクシムには足りないのでは、と懸念していた。
彼の野性的で庶民的なところはやっと理解できるようになってきたものの、その変に自らを小さくする点は未だ納得できていない。
街を一通り見終わって、休息用の宿屋に戻ろうと馬を準備していると、ポツポツと雨粒が肩を濡らし始めた。
粒だった雨水は次第に激しいものに変化し、滝のような強い雨に。雷まで鳴っている。音は近く、かなり危険だ。
王を無事に宿屋まで送らなければならない、と焦って馬に跨る。すると、突然馬が嘶き――。
ゴオオオン、と凄まじい轟音が地響きと共に鳴り響いた。そのあとに続いて聞こえてくるのは、街の住民たちの悲鳴。
気になってそちらを振り返ると――一軒の民家が燃えていた。
「まさか雷が」
落ちた、とでも言うのだろうか。不謹慎だが、あそこまで綺麗に一軒にだけ直撃するというのは運が悪かったとしか言いようがない。天災にはたかだか人間では抗えないのだ。
自然、家の中にいた者たちはもう間に合わないだろう。内装からして酷い有様で、外に避難することがまず困難なはずだ。
「――王!?」
ざわっ、と今度はこちら側の兵士たちがどよめきを上げた。
一体次は何が、と縦に長く並んだ列に目を凝らす。そして最悪な事態に気がついた。
王が列から飛び出し、あの燃えている家に馬を走らせている。
「――クソッ!」
何をする気なのか――わからないと言って目をそらしたいところではあるが、そうもいかない。この状況、王の人柄、これだけヒントが揃えば猿でも察知する。
故に、イグナーツもマクシムを追いかけるように馬を駆けさせた。
「マクシム王!」
イグナーツの制止は耳に入らなかったのか、はたまたわざと塞いでいるのか。どちらにせよ、彼がこんなもので止まらないことはよく理解している。
マクシムは燃え盛る家から離れた柵に馬をつけると、火の塊と化し始めている家に走って飛び込んでしまった。
最早自分が焦っていることすら自覚できないほどの焦燥。一心不乱とはまさにこういうときのことを言うのだろう。
燃える家の近くで馬から降り、扉があったはずの入口へ駆け寄る。夢中で馬を繋ぎ忘れたことに気づくこともなかった。と、火柱が落ちてきたことで入口は斜めに塞がれてしまい、これでは到底生身で入れる状態ではない。まるで炎で出来た天然の檻である。
が、イグナーツは迷わずその火を吹く柱に手を伸ばした。激痛など何ともないように柱を両手で持ち上げようとする。
「う……おらァッ!」
イグナーツの馬鹿力で火柱が少し浮き、その隙に奥に押し倒す。いざマクシムの救出へ――。
火炎の中に人影が見えた直後、マクシムが颯爽と飛び出してきた。
否、主に対して失礼ではあるが、颯爽ではなかっただろう。肌は火傷にまみれ、所々に灰がこびりついている。息は大きく乱れていて、王族らしからぬ膝を床につけた姿勢で酸素を求めて喘いでいる。
そしてその背中と脇には――母親らしい女性と、その娘。
どちらも、苦しそうに息をしていた。
「生き、て……」
マクシムと母娘、どちらに向けて言ったのかイグナーツ自身わからなかった。あるいはどちらに対してもだったのか。
「――マクシム様!」
他の兵士たちが駆け寄り王の介抱を始めたことで、やっと我を取り戻した。自分も何かをしなければ、と手のひらの痛みを我慢してマクシムの元へ。
しかしイグナーツは、次のマクシムの言葉で再び自失の渦に叩き込まれることになる。
「――父親は助けられなかったッ……!」
彼はそう、悔しそうに歯噛みして言ったのだ。
それを聞いて、イグナーツは驚きに呆然とすると同時に、形容しがたい何らかの感情が生まれたのを感じた。
雷が家に落ちて燃え上がったとき、自分は迷うことなく手遅れだと思った。つまり、見捨てたのだ。兵士とは王だけでなく、民を守るための存在でもあるというのに。
それを彼は、マクシムは迷いもせずに救出に向かった。皮肉にも同じように即決しておいて、取った行動は正反対のものだった。
――劣等感である。
ある意味「才能」とも言えるモノを持ったマクシムへの強い劣等感に合わせて、それ以上の忸怩たる思いがイグナーツを襲う。
自分は何をしているのか。何が「優秀」だというのか。
手の痛みなど彼方に忘れるぐらいに他のどこか別の場所が金切り声を上げて、自分は天狗になっていたのだと啓示のように気付かされた。
彼の方がよっぽど偉大で、王にふさわしい人間なのだ。
多分、これがきっかけだったろう。この事件から、イグナーツはマクシムに忠誠とはまた違う憧れのようなものを抱くようになった。
マクシムのようになろうと更に努力を重ねて、生涯彼にこの身を捧げると誓った。
そして三年後にイグナーツは騎士に選抜され、今に至る。
マクシムは謎の裏組織に殺害され、怒りと悲しみで立ち上がれなかった中でハザが王座についた。
最初こそ王の敵を討った彼に感謝していたものの、書庫の警備を騎士のみに任せることにしたときに何か引っかかりを覚え、王の変更により一新された書庫の中をぐるりと見回った。そこで見つけたのが『パクス=グレイツの宝玉』である。
口伝でしか聞いたことのないアレンの伝説。こうして本になっているとは知らなかった。
それを開いたときからイグナーツの疑念は深まっていくことになる。初めて聞いた宝玉の存在とハザという男の話――。
*
炎に包まれた通路から、飛び出してきた不格好な少年がいた。その華奢な背中には小さな娘。
最早イグナーツが何を思ったのか、自身で反芻する必要もなかった。
あのときの景色は深くこの目に焼き付いていて、だからこそ「彼は同じだ」と確信した。
でもきっとそれは、あの時のような劣等感ではない。彼への純粋な憧れである。
そして、イグナーツは――。
*
「君が、王になれ」
「………………は?」
唐突すぎるイグナーツの一言に、ヴァルターはしばらく息をすることを忘れていた。
「私ではなく君が王になるのだ。ヴァルター」
「何を、言って」
畳み掛けるように同じ言葉を重ねるイグナーツにヴァルターは戸惑う。彼の真意が欠片も読めなかった。
「一昨日の火事の件で私より君の方が王にふさわしいと確信した。君は、紛れもなく王の器だ」
「ちょっと待てって。俺が王の器? 女の子を助けただけでこんな傷だらけなのに」
「そういう問題ではない。王の器とは天賦の才――生まれ持った才能だ。そこに身体能力などが介入する余地は無い」
「いや、そんなの聞いたって……。つい一昨日はアンナに言われて考えるって言ってただろ」
そう、イグナーツは先日アンナの素直でない励ましを受けて覚悟を決めていたはずだ。それともあれはそう見えただけだったと言うのか。
「ああ。だから私なりに考えた。そしてこの結論に至ったのだ」
イグナーツはまるで何があろうと自分が正しいとでも言うようにきっぱり断言した。
だが、それでどうして王座につくのがヴァルターになるのか。不本意ながら彼の言い分を簡単にまとめれば、ヴァルターが王の器だから、という理由らしい。
「納得出来ねぇ。俺は俺のことをそんな大層な人間だとは思ってねぇし、どう見たってイグナーツの方が王に向いてる」
「私では駄目なんだ。私では、足りない」
彼の発した声が酷く自信の無いものに聞こえて、少し苛立ちが募る。
畢竟イグナーツは、自分に自信が無くヴァルターの方が良さそうに見えたから、その重責を押し付けようとしている。責任転嫁も甚だしい。
「……自分じゃ出来ないからって他人にやらせんのかよ」
呟いた声が小さかったのは、ヴァルター自身人のことをとやかく言えるほど人間が出来ていないからだ。
人様に説教を垂れ流せるほど成熟していない若輩者であることを自覚しているからこその控えめな愚痴。
「そういうわけではない。私はそんな理由で決断したのではなく、純粋に君と私を比較しただけだ」
何を阿呆なことを。口には出さずとも内心強く思った。
純粋に比較してその結果になるのかを他人に聞けば、誰もがマリオネットのように首を振って否定するだろう。
単なる世辞か、それともイグナーツの目に映るヴァルターが補正されて輝いているだけ、つまり隣の芝生は青いとかそういうことである。
ヴァルターをおだてて面倒な仕事を任せる――イグナーツはそんな彼らしくないことをしようとしているのか。ヴァルターが信じていたイグナーツの人物像に、勝手とはいえ裏切られたような気がした。
もっとも、それは悲しみではなく怒りが主体であったが。
「ふざけんな。俺とイグナーツをどう比較したらそうなる。――ただ単に俺に代わりをやらせるための口実だ」
ぴく、とイグナーツの眉が動く。
「違う! 私は本気で考えた! 信じてくれ、これは――」
「信じられねぇよ。悔しいけど、俺がイグナーツに優ることなんて一つも無い」
イグナーツはショックを受けたように目を見開いた。ただありのままの、イグナーツが秀でているという事実を伝えただけで何がそこまで嫌なのか。
「……イグナーツはすげぇ優秀だろ。だから大丈夫だよ」
自信の無い彼にフォローをしたつもりだった。でもそれは意味をなさないどころか、彼を更に悲痛な面持ちに変える。褒めれば褒めるほど落ち込むなどわけが分からない。
だがイグナーツはそれでも引き下がることなく、
「君も最初王を倒すことを決意しただろう。その時は私のことは知らなかったはずだ」
唇を噛んで、少し揺れた声で言う。
痛いところを突かれる、そんな嫌な予感に心臓が跳ね上がるのを感じた。
「――王を倒したあと、どうするつもりだった」
予感は的中。用意しておくべきだった答えは時間不足で間に合わない。
イグナーツがヴァルターに「王になるつもりだった」と吐かせて言質を取ろうとしているのは見え見えだが、大事な返答、それも上手くイグナーツの難詰を切り抜けられるものが思いつかなかった。
そもそも、王城の書庫でハザと対峙して決意を固めたとき、ヴァルターはほとんどパニック状態に近かったのだ。異様な恐怖でやけに記憶は鮮明に残っているが、自分がハザを倒した後のことまでそのときに考えていたかと問われると言葉が詰まる。
「……わからない」
これが、お世辞にも答えとは呼べない、しかしヴァルターの捻出した精一杯の答えだった。
「もういいだろ。少し一人にしてくれ。……病み上がりなんだよ」
最終的には懇願のようになったヴァルターの頼みに、イグナーツは不服そうではあるが従った。黙って二人の口論を聞いていたアンナもおずおずと病室から去る。
まだほんの少ししか同じ時を過ごしていないのに、自分は勝手にわかったような気になっていたのだろうか。
イグナーツという男を見誤った――ヴァルターにはそれが、酷く悲しいことに感じられた。
希望を込めて踏み出した第一歩の先に、暗雲が立ち込める。




