96話 氷結地獄+氷の女王(2)
一人残されたルキフグス。皐月との接吻の余韻を表す液体が彼女の口元を伝う。それを自身の手で簡単に拭うと、無意識にその手を月下美人が飾られていた頭部に触れる。しかし、そこには月下美人の髪飾りは無く、自身の乾きかけた血がルキフグスの指先にまとわりついただけだった。
「月下美人……」
一人お気に入りの花の名を呟くと、ルキフグスはゆっくりと立ち上がった。
その時だった。ルキフグスの脳内に懐かしい映像が一気に流れ込んできた。
「あっ……! あっ!!」
身に覚えのないはずなのに、どこか懐かしいと思わせるそれは、ルキフグスの意識を奪った。
「✕✕」
可憐が契約者と出会う約五百年前の日本、少女の名を呼ぶ声が少女の耳を支配する。その声色は、少女を愛しているものにしか出せない優しい声色だった。少女は自分の名を呼んでくれた愛おしい青年の元へ向かう。少女を愛している青年は少女をそっと抱きしめた。青年の冷たいが、確かに感じる愛情としての温もりと金色の美しい長髪が少女を包み込んだ。
「愛しています。✕✕」
青年が少女に愛の言葉を囁く。少女もそれにこたえるように強く抱擁する。冷たい青年の身体。それは、まるで死人を抱きしめているようだったが、少女には関係なかった。
「私もです」
少女もまた、青年に愛の言葉を伝える。黒い長い髪を簡単にひとつに束ね馬の尻尾のようになびかせていた。
二人が恋仲になったきっかけは、青年が金髪を理由に妖怪の遣いだと言われ、監禁されていたのを少女が助けた事だった。少女が青年を助けた理由。それは、初めて見た金髪を少女だけはまるでひまわり畑のようだと思ったからだった。青年もまた、自分を助けた少女が女神のように見え、二人が恋に落ちるのは必然だった。
「✕✕」
青年が再度愛おしい少女の名を呼ぶ。しかし、少女はそれを苦笑いで受け止めた。
「その✕✕っていう名前、私はどうしても好きになれないな。だって冷たそうじゃない。花が好きなあなたとは不釣り合いだわ」
少女の言葉に青年は目を丸くした。しかし、その後、目を細め、愛おしい少女の頭を優しく撫でた。黒い髪が青年の細長い指に絡み、こぼれ落ちる。
「そうでしょうか。✕✕はとても美しい名だと私は思いますよ。これは、私個人の解釈ですが、雪の花という意味では無いのですか? これはどの花よりも美しく、どの花よりも儚い……」
青年が少女の長い黒髪を一束手に取り、そのままキスを落とす。少女はそんな彼を見て思わず赤面した。一歩下がり、青年の視線をそらす。その反動で青年の手の平から少女の髪が逃げる。彼女が履いている下駄が音を立てる。
「ありがとう。雪の花……か。そう思うとなんだか素敵に思えたかも。いつも村を覆って行く手を阻む物になっても、そう考えたら、少しは気楽になれそう」
視線をそらす際に、少女の黒髪が彼女の表情を隠す。しかし、青年はそれさえも愛おしいと思い、抱きしめたい気持ちを押さえ込み、ふと、どこからか白い大きな花の蕾を取り出した。
「それならば、この花を貴女に捧げます。」
白い花の蕾を少女の頭に髪飾りのようにつける。少女の黒髪と白い花は互いを引き立てあっていた。
「これは、月下美人という花です。一度だけ、月の輝く夜に咲く美しい花です。また、艶やかな美人、ただ一度だけ会いたい、という花言葉を持ちます。もし、私がこの世から消えても、私はあの世で✕✕にただ一度だけ会いたいと思うでしょう。その思いと、貴女にとても似合うと思い、この花を選ばせていただきました」
儚い笑みを浮かべる青年。少女は青年の言葉を噛み締めるようにゆっくりと繰り返した。
「月下美人……。ただ一度だけ会いたい」
私もですと少女が言おうとしたら、それを青年がゆっくりと彼女に口付けすることによって阻止した。青年が少女の後頭部に手を回し、やや強引な接吻は二人の心臓の鼓動を速めた。
数秒の接吻が終わると、青年はゆっくりと口を離し、少女を見つめた。
「心の底から愛しているのは✕✕、貴女だけです。それ以外の女性を愛することは、これから先、ありえない事だと誓います。たとえ、貴女の前から消えても……」
青年の言葉の意味を理解する事は少女には出来なかった。ただ、彼の美しい顔立ちと長い金髪がこれ以上聞かないでくれと訴えているように感じた少女はただ黙って彼を見つめることしか出来なかった。
月下美人を受け取って約半年後、少女は青年に祝言を挙げて欲しいと伝えるために青年の元へ向かった。少女が行き慣れていない田舎道を歩き、青年が住んでいる家へ足を進める。しかし、青年の家が少し見えた頃、青年と知らない女性が会話している声が聞こえ、少女は無意識に足を止めた。耳をすまして、会話の内容を把握する。
「はい。故に私は本日から貴女から死ぬまで離れる事は赦されません。神に誓っても良いですよ」
「分かりました。では、早速、ここから離れましょう。全てを失った私にはここに居る意味はありません。二人で、どこが遠くに行きたいです」
少女の心臓が大きく音を立てる。嘘であってくれ。そう願った。未だに蕾のままの頭部を彩る月下美人に無意識に触れ、冷静さを取り戻す。ゆっくりと歩みを進め、青年に話を聞こう。恐らく何か理由があるのだ。そしてそれは自分も納得出来る理由であると自分に言い聞かせ、少女はバクバクとうるさい心臓をなだめた。
「嘘でしょ……」
少女が青年の姿を確認した時、そこには信じられない光景が少女の視界を支配した。少年と知らない女の背中には二枚の白い美しい翼。天使を知らない少女はそれを何と例えるのか分からなかった。
「すみません✕✕。もう私には時間が無くなりました。しかし、私は貴女の目の前から消えたとしても、ずっと✕✕を愛しています」
青年はそれだけ言うと、知らない女性と自身を眩しすぎる光りで包み込んだ。反射的に少女が目を閉じる。数秒後、少女が目を開けると、そこには二人の姿はなかった。慌てて辺りを探すが、その姿はどこにもなく、少女の和服と下駄が擦れる音だけが虚しく響いた。
捨てられた。そう絶望して両膝をつき、涙を流していた時、目の前に現れた短髪の大柄な少年。少年は彼女に願いを叶える代わりに自分に仕えろと提案した。全てを失った少女は少年に願い事を伝えた。
「たった一度だけ、会いたい人がいます。その人に会わせて欲しい……。たとえ私の姿かたちが変わったとしても、会えるだけで、充分ですから」
その願いに少年は口だけの笑みでこたえた。自身の血を手首から切り傷のように出し、少女に飲ませる。少女の身体中から酸素を奪っていくように巡る少年の血は、気付けば少女の血と混ざり、契約者の魔力となった。闇と毒を混ぜたような魔力が少女を包み込み、容姿を変える。長い黒髪は一瞬で白くなり、まるで月下美人のような美しさを生み出し、逆に頭部に飾り付けていた月下美人は魔力と同じ色に染まり、開花した。髪も短くなり、着ていた和服も鮮やかな赤色から魔力と同じ毒々しい色となった。
「契約完了だぁ」
少年の言葉を最後に少女はまるでガラスが割れたような感覚に襲われた。
ルキフグスが我を取り戻した時、記憶に残っていたのは嫉妬心のみだった。もっと大切な記憶があった気がするが、それは夢を見て数時間後のように鮮明に何かがあった事しか記憶になく、中身は思い出せなかった。
「ふふふ。そうか。サタン様はボクを完全なルキフグスにして下さったんだ。ボクはルキフグス。十地獄第一地獄“いと高きものどもの地獄”第三下層地獄長ルキフグス」
月下美人の髪飾りの代わりに彼女を染めていた自身の血は乾いていた。ルキフグスはゆっくりと笑みを浮かべ、立ち上がる。
「ボクを支えるものはもう何も無い。そして、ボクを惑わすものも何も無い」
彼女の足元を自身の魔力で出来た氷が洞窟の水晶のように美しい輝きを放ちながら現れる。それは、まるで彼女の心情の変化を表しているようだった。
氷結地獄の氷だけが全てを見ていた。