79話 狂想曲+鈴の音(3)
弘孝との出会いを思い出しながらベルフェゴールは可憐を睨みつけた。事情を知らない可憐はベルフェゴールの視線に怯むように数歩下がる。
「わたしは、わたしである限りこの感情を殺さなければならないのです……」
弱々しいベルフェゴールの声。彼女の涙に可憐は再度ベルフェゴールに近付いた。今度は距離を取られることは無かった。
「好きなのね。弘孝の事が」
初めて他者に口にされた自分の正直な感情。ベルフェゴールはそれについてゆっくり頷くしか出来なかった。
「あの人は、わたしに両手から溢れるほどの大切なものを授けてくれました。わたしが人間であった時には、決して手に入れる事が出来ない大切なものを……」
自分の両手を見つめながら呟くベルフェゴール。彼女の瞳には敵意もなく、ただ愛おしい人を思い出し、幸せな思い出を振り返っていた。
「ジンを助けた時、スズとしてのわたしは死にました。悪魔として……地獄長として禁忌を犯しました。わたしのこの魂、身体、全てサタン様の物だと誓い、捧げることによって罪を償います。この意味分かりますか?」
軽く微笑みながら可憐を見るベルフェゴール。その顔は可憐の知るスズではなく、地獄長としてのベルフェゴールである事は可憐でも分かった。
「私と弘孝を殺すか悪魔側に引き渡すかしなければあなたの魂はサタンに食べられる……」
直感的に可憐は答えていた。理由や根拠はなかったが、ベルフェゴールの儚い瞳に自分の意思は既にサタンの手中にあると物語っていたのだ。初めて会った時から変わらない美しい瞳や肌、髪。人形のようだと思っていた可憐だが、現在は本当にサタンのあやつり人形となってしまったのだと希望の無い瞳で悟った。
可憐の回答にベルフェゴールは満足気に微笑んだ。
「ご名答。地獄長クラスの魂となれば、人間でいうなら、昼食分くらいの満足感はあると思いますよ。わたしのような裏切り者の魂は、美味かどうかはさておき。……。わたしの質問に答えてくれた代わりに、わたしも、あなたの質問に一つだけ答えますよ。平等なのが悪魔のポリシーですから」
わたしの心についての質問は聞かなかったことにしますね。と付け足し可憐を見るベルフェゴール。彼女にはない光りのある黒い瞳。弘孝と同じ艶やかな黒髪。そして、自分には無い天使としての慈悲の魔力。
弘孝が可憐に惹かれているもの全てが羨ましかった。しかし、自分のこれから先の運命を悟ると、嫉妬心がベルフェゴールを支配しそうだった。まだ自分が自分らしくいられる間に、弘孝が少しでも幸せになる方法として可憐を通して悪魔側の情報を教えるしか無かったのだ。
「私の質問……。あ、そういば、皐月君……ベルゼブブが言っていた二重契約。あれはどういう意味なの?」
ベルフェゴールの言葉の意図を理解していた可憐は自身もそういえば疑問に思っていた事を尋ねた。氷の格子の隙間から僅かに見える契約者たちの争い。オレンジとルビーレッドの魔力が時折輝いていた。
「簡単なことですよ。天使と悪魔。それぞれに属していた者が寝返る事です。もっとも、かなりの魔力を使わないと出来ませんので悪魔で言うなら地獄長、天使なら四大天使くらいじゃないと出来ませんけどね。契約できるのもミカエルと上位地獄の地獄長のみ。そして、魂も契約者としての役目を終え、転生してする事も出来ません。魔力も二重契約前よりも半分近くになると聞いています」
口を閉じるベルフェゴール。これ以上は言えないという意思も同時に伝え、可憐の反応を伺う。
ベルフェゴールは一つだけ二重契約について隠していることがある。それは、混血は例外である事だ。混血はそもそも天使と悪魔、二種類の魔力を体内に所持している。どちらかに染まれば良いだけなので魔力が半分近くになるなどのデメリットが一切ないのだ。
しかし、これは二重契約の説明ではないし、可憐に聞かれていないのでベルフェゴールは話すことは出来なかった。
可憐は目を丸くしていた。
「それはデメリットしかないじゃない。魂も無かったことになるって事でしょ? そんなの……誰が望むのよ」
「そうですよ。デメリットしかありません。しかし、自分の最期を選択できます。もう、これ以上悪魔として……彼を傷つける事は無くなります……」
可憐の言葉に間髪なく話すベルフェゴール。肩にかかっていた彼女の金髪が肩から美しく滑り落ちた。再度愛おしい契約者を思い浮かべ、既に一度停止した事のある心臓を苦しめる。
「もしも、あなたが自分の魂もなにもかも捨てて、天使側についてきてくれるなら、私は大歓迎よ。もちろん、弘孝も」
可憐は何となくベルフェゴールの言いたいことは察していた。悪魔は魂そのものを餌として契約するので最初からミカエルが魂の解放をおこなっても二度と人間には転生できない。天使側に寝返ったところでもその事実は変わらないであろう。それでも弘孝を傷付けるよりかはよっぽどマシだと思うのは可憐も理解できる。
「第六地獄程度のわたしがそんな事をしても、恐らく下級天使程度の魔力になるでしょう。そうしたら、大天使である彼とは話す事は愚か、近付くのさえ不可能に近いでしょうね。それに、わたしの魂はあの方へ忠誠を誓っています。それを裏切るとなると、わたしの肉体はおろか、魂も砂となって消えるでしょうね」
悪戯に笑うベルフェゴール。可憐は彼女の真意を理解する事が出来なかった。弘孝の事を心の底から想っている。そしてラファエルである自分に嫉妬している。そこまでは理解出来た。
しかし、二重契約についてはあまり乗り気ではない。弘孝が好きならば、二重契約してこれ以上敵になることは無いだけでもいいのではないか。それにしては否定的な意見だった。彼女の赤と青のオッドアイは何を見ているのか。可憐はただ彼女の美しい容姿を見ることしか出来なかった。
「ラファエル。この拘束が解かれたら、わたしはあなたを死の直前まで追い込みます。恐らくあなたは、わたしを殺しにかかるでしょう。その時は、その甘ったれた慈悲を捨てて、本気で来て下さい」
先程の悪戯な笑みとは違い、真っ直ぐな瞳で可憐を見つめるベルフェゴール。それは今までの恋する少女ではなく、十ある地獄の一つを管理する長としての迷い無き瞳だった。
その時だった。皐月たちが戦っている方向から一人の天使が勢い良く飛んできた。嫌、皐月の魔力に飛ばされたのだった。