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第9話 完璧な妻

第9話 完璧な妻


 十二月に入った。


 街にはクリスマスソングが流れ始めている。


 駅前のイルミネーションは夜になると青白く輝き、吐く息は白かった。


 健太は深夜近くに帰宅した。


 昇進してから一か月。


 毎日忙しい。


 責任も増えた。


 会議。


 報告書。


 部下の相談。


 トラブル対応。


 昔の自分なら喜んでいたはずだ。


 それなのに。


 最近は家へ帰るのが少し怖かった。


 玄関のドアを開ける。


「ただいま」


 すぐに返事が返ってきた。


「おかえり」


 遥だった。


 エプロン姿。


 淡いグレーのニットにロングスカート。


 髪もきれいにまとめられている。


 リビングは整頓されていた。


 ソファの上にも物はない。


 床にも何も落ちていない。


 ぬいぐるみ王国もない。


 段ボール秘密基地もない。


 意味不明なメモもない。


 完璧だった。


「ご飯温めるね」


「ありがとう」


 テーブルには鶏肉のトマト煮込み。


 ブロッコリーのサラダ。


 コンソメスープ。


 焼きたてのパン。


 彩りも綺麗だった。


 レストランみたいだった。


「美味しい」


「よかった」


 遥は笑う。


 穏やかに。


 優しく。


 文句ひとつ言わない。


 健太は食事をしながら遥を見る。


 遥も仕事をしている。


 忙しい。


 それなのに。


 家事も完璧。


 笑顔も完璧。


 妻として百点満点だ。


 なのに。


 胸の奥がざわつく。


 何かがおかしい。


 食後。


 健太はテレビをつけた。


 バラエティ番組。


 芸人が派手に転ぶ。


 以前なら。


 遥は大笑いしていた。


「見た!?」


「今の見た!?」


「すごい!」


 騒いでいた。


 今は違う。


 少し笑う。


 それだけ。


 静かだった。


 その夜。


 健太は眠れなかった。


 隣で遥は寝ている。


 寝息も静かだ。


 天井を見つめる。


 ふと。


 昔のことを思い出した。


 押し入れ事件。


 ぬいぐるみ事件。


 冷蔵庫の前で倒れていた日。


 変なメモ。


 くだらない話。


 正直。


 面倒だと思っていた。


 うるさいと思っていた。


 少し静かにしてほしいと思っていた。


 なのに。


 今は。


 静かすぎる。


 翌日。


 土曜日だった。


 二人とも休み。


 久しぶりの休日。


 健太は少し期待していた。


 一緒に出かけよう。


 カフェへ行こう。


 買い物しよう。


 そう思っていた。


 朝。


 遥はホットケーキを焼いていた。


 バターの香りが部屋に広がる。


 メープルシロップ。


 いちご。


 ホイップクリーム。


 見事な朝食だった。


「美味しい」


「よかった」


 笑顔。


 やっぱり笑顔。


「今日どこか行く?」


 健太が聞く。


「私は大丈夫」


「大丈夫?」


「健太が疲れてるなら家でも」


「俺は平気」


「じゃあどこでも」


 遥は微笑む。


 健太は黙った。


 どこでも。


 何でも。


 好きにしていい。


 それは優しさのはずなのに。


 なぜだろう。


 寂しかった。


 以前なら。


「水族館!」


「動物園!」


「ケーキ食べたい!」


「温泉!」


 好き勝手言っていた。


 その方が楽しかった。


 午後。


 二人はショッピングモールへ行った。


 クリスマスツリーが飾られている。


 赤いリボン。


 金色のオーナメント。


 子どもたちの笑い声。


 恋人たちの楽しそうな会話。


 人で溢れていた。


「何か欲しいものある?」


 健太が聞く。


「ないよ」


「本当に?」


「うん」


「服とか」


「大丈夫」


「アクセサリーは?」


「持ってるし」


 遥は笑う。


 優しい。


 穏やか。


 完璧。


 でも。


 どこか遠い。


 まるでガラス越しに話しているみたいだった。


 帰宅後。


 夕飯は鍋だった。


 白菜。


 豆腐。


 鶏肉。


 春菊。


 湯気が立ち上る。


 出汁の香りが広がる。


 二人で鍋を囲む。


 普通なら幸せな時間だった。


 でも。


 健太は耐えられなくなった。


「遥」


「なに?」


「楽しい?」


 遥はきょとんとした。


「え?」


「今」


「楽しいよ」


「本当に?」


「うん」


 笑顔。


 その笑顔を見た瞬間。


 健太は確信した。


 嘘だ。


 遥は嘘をついている。


 悪意のない嘘。


 優しい嘘。


 自分を困らせないための嘘。


「俺さ」


 健太は箸を置いた。


「最近ずっと変なんだ」


「変?」


「うん」


 鍋の湯気が揺れる。


 部屋は暖かい。


 なのに胸が寒かった。


「前はうるさいなって思ってた」


 遥が少し笑う。


「失礼」


「ごめん」


 健太も笑った。


 でも続ける。


「でも今は違う」


「……」


「静かすぎる」


 遥の表情が止まる。


「俺」


 健太は遥を見た。


「完璧な妻が欲しかったわけじゃなかった」


 遥は何も言わない。


「わがまま言う遥がよかった」


「健太」


「怒る遥がよかった」


 声が震える。


「寂しいって言う遥がよかった」


 遥の目が揺れた。


 健太は気づいてしまった。


 自分が欲しかったのは。


 家事が完璧な妻でも。


 文句を言わない妻でも。


 笑顔だけの妻でもない。


 感情をぶつけてくる遥だった。


 嬉しい。


 悲しい。


 寂しい。


 怒った。


 聞いて。


 見て。


 かまって。


 そう言ってくる遥だった。


 鍋の湯気の向こうで。


 遥は何か言おうとして。


 そして言葉を飲み込んだ。


 静かな夜だった。


 でも。


 その静けさの奥で。


 二人の間に積もった雪が少しだけ溶け始めていた。



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