最終話 ねえ、聞いてる?
最終話 ねえ、聞いてる?
二月の終わりだった。
冬の冷たさが少しだけ緩み始めている。
夕方の空は淡い桃色に染まり、マンションのベランダから見える街並みもどこか柔らかく見えた。
その日。
健太の大型プロジェクトがようやく終わった。
半年近く続いた仕事だった。
会議。
残業。
休日出勤。
トラブル対応。
何度も胃が痛くなった。
何度も投げ出したくなった。
それでも走り続けた。
午後五時。
会社では拍手が起きていた。
「お疲れさまでした!」
「部長、おめでとうございます!」
「成功ですね!」
健太は笑った。
「ありがとう」
だが心は別の場所にあった。
帰りたい。
今すぐ。
遥のところへ。
会社を出る。
冷たい風が頬を撫でる。
駅前では焼き芋屋の車が止まっていた。
甘い香りが漂う。
ふと思い立ち、焼き芋を二本買う。
それからケーキ屋へ寄った。
苺のショートケーキ。
遥が好きなやつだ。
さらにスーパーへ寄る。
生クリーム。
苺。
チョコレート。
なぜか買ってしまう。
健太は少し笑った。
昔なら絶対にしなかった。
午後六時。
帰宅。
遥はまだ仕事先との打ち合わせで外出中だった。
健太は部屋へ入る。
静かだった。
でも。
あの頃とは違う。
もうこの静けさは嫌いだった。
リビングを見回す。
綺麗な部屋。
整った家具。
静かな空間。
ふと。
思いついた。
「そうだ」
思わず声が出る。
遥ならやる。
絶対やる。
そして昔の自分なら呆れていた。
健太はニヤリと笑った。
部屋の照明を消す。
玄関からリビングへ続く廊下。
そこへ横たわった。
両手を投げ出す。
微動だにしない。
「完璧だな」
誰もいないのに呟く。
そして待った。
十分。
二十分。
三十分。
玄関の鍵が回った。
ガチャ。
「ただいまー」
遥の声。
健太は動かない。
ドアが開く。
買い物袋の音。
足音。
そして。
「……え?」
静寂。
一秒。
二秒。
三秒。
「きゃあああああああっ!!」
マンション中に響きそうな悲鳴だった。
健太は耐えられなかった。
吹き出した。
「ぶはっ!」
「え?」
遥が固まる。
健太は起き上がった。
腹を抱えて笑う。
「はははは!」
「け、健太!?」
遥は腰が抜けそうになっていた。
「なにしてるの!?」
「死んだふり」
「馬鹿なの!?」
「うん」
「本当に馬鹿!」
遥は買い物袋で叩いた。
パン。
豆腐。
長ねぎ。
軽い攻撃だった。
「心臓止まるかと思った!」
「ごめん」
「ごめんじゃない!」
「ごめん」
「本当に!」
怒っている。
でも。
久しぶりだった。
感情むき出しの遥。
健太は少し嬉しかった。
遥は途中で気づく。
「あれ?」
「ん?」
「なんでこんなことしたの?」
健太は笑うのをやめた。
ゆっくり立ち上がる。
そして言った。
「遥」
「なに?」
「寂しい時は寂しいって言おう」
遥は瞬きをした。
「え?」
「我慢大会はやめよう」
部屋は静かだった。
遠くで電車の音が聞こえる。
窓の外では夜が降り始めていた。
健太は続ける。
「俺さ」
少し照れながら笑う。
「ずっと勘違いしてた」
「勘違い?」
「遥が大人になれば解決すると思ってた」
遥は黙って聞いている。
「わがまま言わなくなれば」
「寂しいって言わなくなれば」
「完璧になれば」
健太は首を振った。
「違った」
その声は優しかった。
「俺が好きだったのは」
遥を見る。
「かまってちゃんの遥だった」
遥の目が揺れる。
「押し入れに隠れる遥」
「変なメモ貼る遥」
「ぬいぐるみ並べる遥」
「くだらない話を何時間もする遥」
思い出す。
二人で。
たくさん笑った。
「面倒だったけど」
「ひどい」
「面倒だった」
「ひどい」
「でも好きだった」
遥は笑ってしまう。
涙が出そうになる。
「遥」
「なに」
「我慢しなくていい」
その言葉を聞いた瞬間だった。
胸の奥に押し込めていたものが崩れた。
涙がこぼれる。
「馬鹿」
ぽろぽろ落ちる。
「健太の馬鹿」
「うん」
「すごく寂しかった」
「うん」
「いっぱい我慢した」
「うん」
「本当はかまってほしかった」
「うん」
健太は全部受け止めた。
言い訳もしない。
否定もしない。
ただ聞く。
遥は泣きながら笑った。
「ねえ、聞いてる?」
健太は頷く。
「聞いてるよ」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
「ずっと?」
健太は少し考える。
そして笑った。
「ずっと」
遥はとうとう泣きながら笑った。
健太も笑う。
二人は抱きしめ合った。
柔らかな体温。
安心する匂い。
懐かしい温もり。
冬の終わりの夜だった。
窓の外では街の灯りが輝いている。
どこにでもいる夫婦。
特別ではない。
完璧でもない。
すれ違うし。
喧嘩もする。
寂しくなることもある。
それでも。
聞いてほしい人がいて。
聞いてくれる人がいる。
その幸せを。
二人はようやく知ったのだった。




