壱
あれから一週間経った。
新たな猟奇事件は今のところ起きてはいない。
犯人逮捕に繋がるものは未だに一つも見つからず、殺害に使った凶器も発見・特定できず、目撃者も俺以外おらず、犯行の時間や場所は毎回違って予想できず、警察がどれほど巡邏しようがどこからともなく現れて犯行後は煙のように消える犯人の動きに捜査も難航しているらしい。
葛谷さんは夕方となると俺によく会いに来てこうした事件の話をしてくれるので猟奇事件に関しては学校では誰よりも詳しい自信がある。
俺が自宅に戻るまでは近からず遠からずの位置に影を潜めているので何かあったら駆けつけてくれると思うと帰りは安心。
一番の安心は、帰り道でレインコートの男と遭遇してすぐに葛谷さんが駆けつけてくれて逮捕で事件解決、がいいけどそううまくはいくまい。
祈莉とは未だに二月三日、交差点についての話は聞けておらず、ちょっとギクシャクとした状態が続いていた。
なんていうか、祈莉が俺を避けてるのだ。
昼休みになるとどこかに行ってしまうし、帰りはすぐに教室から出て行ってしまう。
これまでの人生で、このような避けられ方は初めてだ。
喧嘩してもすぐ仲直りできる間柄で、次の日にはいつも通りになってるはずなのに。
これはとてもショックである。
朝も祈莉は交差点で待たずに先を行ってしまって、律と二人での登校。
おかげで倦怠感を紛らわせられず、学校に行くのがとても億劫。
別に律が悪いんじゃない、朝に祈莉と話をしながら登校するというのは俺にとても良い効果を与えてくれてるっていう事だ。どのような効果かというと、リラックス効果、眠気の解消などなど。
心細い期間でもある、そろそろ避けるのをやめてもらわないと俺は泣いてしまうかもしれない。
この一週間は引きこもりがちで退屈そのもの、休日は律に外出するなと言われてたのと事件の不安もあって外出はしていないから祈莉には会っていない。
ああ、祈莉が恋しいなあと呟くまでにはいかないが、寂しい。
今日も祈莉と一緒に帰れず、悔しさすら沸いてくる。
ベッドに横になりながら、俺は面白みの無い退屈な白い天井を見つめて溜め息をつく。
ふと、その時物音がした。
窓に何かが当たるもの、小さなものだ。
小石でも当てられたかと、俺はカーテンを開いた。
「……あ」
声を漏らして、俺は家の前に立つ人影を見て硬直した。
レイン……コートの男が薄明かりの照明に照らされて、こちらを見上げていたのだ。
そいつは俺を確認したのか、ゆっくりとした動きで手招き。
もうすっかりと日が暮れているこの時間帯……夜間外出は控えるよう言われている。
それなのに、どうして俺は……。
――家を出て行ったのだろう。
自分でも馬鹿な行動をしている、家族には気づかれないようにこっそりとと外に出て、溜め息をつきつつそう思っていた。
あたりは人の気配がまったく無く、俺の足音しか聞こえない。
レインコートの男はその逆方向へと歩いていた、既に見失いそうなくらいの距離まで広がっている。
俺がすべき行動は葛谷さんに連絡してレインコートの男を見たと報告する事、もしくは携帯電話で警察に電話する事だ。
いつでも連絡できるように携帯電話は右手の中。
いつでも逃げられるように靴紐はしっかりと結んできた。
何故このような行動に出ているのか、何故すぐ連絡しないのか……それは、レインコートの男を尾行したいからだ。
あの手招き、何か気になる。
葛谷さんは近くにいるかな……いや、夜中まで俺の近くで張り込みなんてしてないか。
しかし通報はいつでもできる、逃げる事も。距離も十分にとれている。
その僅かな余裕が俺の背中を押して遠くに見える人影を追わせていた。
……てかなんだ、この臭い。
風に乗って、なんとも言えない異臭が漂ってきた。
腐敗臭? それに近い臭いだな。
若干それに集中力を欠かされるも、すぐに俺は冷静を保った。いや、この異臭はちょっときついけどね。
曲がり角は要注意。
姿を捉えられず、急いで追いかけたところを待ち伏せされて襲われるという未来は避けなくては。
一定の距離を保ち、曲がり角の場合は設置されているミラーを確認。
ミラーを見た後に少しだけ顔を出して安全を再度確認。
妙なのは、レインコートの男は俺の家を知っているにも関わらず今まで襲おうとしていない事だ。
前回も家の前に立って向かいの家の塀に手形をつけたのみ。
何か伝えようとしているのかもしれない。
しかし何を?
……それか、もしレインコートの男が俺をタイムスリップさせたのだとしたら?
以前もその予想はたてた、本当にそうだとしたら奴は俺に何か用がある。
だから今俺は、奴についていかなくてはならない。
十分に警戒もしないといけない、相手は猟奇殺人犯だ。
歩いていくうちにどんどん街から遠ざかっていく、住宅街を抜けてしまったら工場と田んぼしかない。
そこに何かある、とか?
どうであれついていくしかないな。
およそ十メートルくらいか、レインコートの男はこちらを一切振り向かずに只管歩いている。
多くの脇道を利用し、ここらは歩き尽くしているのに俺ですら知らない道を使い、道とは言えない道すら通っていた。
なるほど、捕まえられないはずだ。
普段警察官が巡邏しない道、数年前から使われなくなり水の流れが止まった下水道なども利用している。
更には……。
途絶えた道を阻む空きビル、高さは二階。
掴める場所など見当たらないが奴は跳躍して壁に捕まり、空きビルをまるで子供用のアスレチックみたいな感覚で上ってみせた。
俺には無理、絶対に。
あたりを見回してどこの家か知らないがその塀の上を歩いて遠回り。
……信じられない。
空きビルの隣は家屋一軒ほどの広さの資材置き場だった。
そこへ奴は飛び降りて着地。
何事も無かったかのように歩いていった。
こいつ……人間か?
塀はまだ続いている、今のを見て臆してしまって足が進まない。
すると奴は足を止めて、ほんの少しだけ振り向いた。
俺を待っているようだ、早く着いてこい――そう言いたげ。
もう引き返して逃げるのは遅い、着いていくしか選択肢は無いのだ。
気になるのはどこへ行こうとしているか……。
俺は塀の上をまた進み、それにレインコートの男はまた近くの脇道へと入っていった。
一度塀を下りて脇道に向かおう。
「やあ」
「……ん?」
するとどこからか声がした。
その声は多分、路地からだ。
俺は路地を見ると、人影一つ。
逆光で顔が見えづらいがその人影の体格は見覚えがある。
「……楽田?」
「どこに行こうとしてたの?」
「あ……いや、ちょっと、ね」
なんて説明しよう。
レインコートの男を尾行してるんだとか?
奴は待っててくれるだろうか、いや……誰か来たと解れば見られぬよう何処かへ行ってしまうか流石に。
……それより、楽田はどうしてここにいるんだろう。
楽田の家はこんな住宅街の端ではない、俺の住む場所とは先ず真逆のほうに住んでいるからこんな時間にここらをうろついてるのは妙だ。
「ちょっと? ちょっとって何かな」
「……説明するのは難しい、楽田はどうしてここに?」
楽田は両手をポケットに突っ込んで、俺に近づいてくる。
いつも陽気を漂わせる彼の雰囲気は払拭されていた。
「どうして? さあ、どうしてかな」
楽田はポケットから何かを取り出して、弧を描くように投げてきた。
小さなものだ、ボールかな? 俺はそれを受け取ろうと手を伸ばすと、触れた瞬間に異常に気づいた。
「うッ……!」
重い。
それは掌で収まるくらいに小さいのに、とても重かった。
ボールを持つのは無理、と手を離すとボールは地面にめり込んだ。
ありえない重みだ、鉄球でも投げ込まれたのかと思ったら黄色いボール――ソフトボールだった。
「面白いだろ? 僕が物に触るとね、何でも重みを加えられるんだ。手品みたいなものと思ってくれていい」
手品にしてはトリックが想像すら出来ない。
……楽田は特異者かも。
深々と地面にめり込んだソフトボールがそう思わせる。
「ニヶ月前、憶えてる?」
「……ニヶ月前?」
俺にはここ一年二ヶ月間について問われると非常に困る。
「二十一歳女性、大学生。右目をもぎ取られ、左手、肋骨、左足を骨折、背中を強打してまだ入院中だ」
「りょ、猟奇事件の被害者?」
「そう」
楽田は一度瞳を閉じ、
「名前は……」
ゆっくりと目を開けて言う。
「楽田由美子、僕の姉さ」
楽田はまたポケットに手を入れた。
何かを取り出して、投げるつもりだ。
しかし何故俺が楽田から敵意を抱かれなければならない? 彼から受ける敵意、殺意は気のせいではない。
その瞳は怒りに染められていて、今すぐにでも襲い掛かってきそうだ。
「ま、待てよ……何か勘違いしてないか?」
疑われてる、確実に。
疑われてるっていうよりも、決め付けられてると言ったほうが正しいな。
「勘違い?」
「だって、そうだろう? 俺がお前の姉さんを襲ったんじゃないんだから。お前はどうして俺が猟奇事件の犯人と思ってるんだ?」
「猟奇事件の犯人は十中八九特異者だ、君も解るだろう? 特異者って言葉」
「……いや、その」
ああ、解るよとか言ったら俺が追い込まれそうな気がする。
「入学式の時、君はいなかった。でも四月十五日、登校日には僕の席の後ろには机が置かれていて、君が座った」
「お前……気づいてたのか?」
「気づいてたよ。この時点で妙だったけど、その日新たな猟奇事件が発生。偶然かい? どんな能力を使ったかは知らないがクラスメイトに紛れて身を隠して警察の手から逃れてたのでは?」
「違う!」
説明すべきか、タイムスリップの事を……信じてもらえるかは解らないが。
「その日、僕は君が気になって帰りに遠くからつけてたけど、君が逃げるように走っていくのを目撃した。何かと思って先に進めば死体があった」
「そ、それは……猟奇事件の犯人がやった事で俺じゃない!」
「君の家も見つけたよ、向かいの家の塀に手形がついてたね。誤ってつけてしまったのかな?」
「それは、猟奇事件の、ああ、そう、レインコートの男がつけたものだ!」
「レインコートの男?」
「そう、そいつ! そいつが猟奇事件の犯人! 俺は今そいつを追っかけてたの!」
楽田は苦笑いを浮かべた。
まだ嘘をつき続けるのか、なんて今にも言いたげに。
「これ以上嘘をつくなら、ボールの他にまた看板を落としてあげようか? 看板や、自分よりも高いものが上にあるだけで恐怖する日々を送らせるのも、面白いね」
「か、看板……? まさか……お前」
「素敵なプレゼントだったろう? 僕が触れたものを、他の物にぶつければそれに重みを加える事が出来るんだ。でも精度が落ちて避けられちゃったけど」
恐ろしいプレゼントだった、ああ、本当に。
躊躇無くそれをやってのけるという事はよほどの恨みを感じられる、姉の事を想っているからこその復讐にも力が入っているようだ。
「それで警戒して一週間大人しくしてたのはちょっと予定外だったよ、家を出て次の獲物を探してるとこを狙うつもりだったからさ」
「待て待て待て! 俺じゃないって証拠もあるんだ!」
「証拠?」
「そう! 俺は一年二ヶ月前から来たんだ、タ、タイムスリップってやつ! だから一ヶ月前に事件を起こせない!」
「……猟奇事件を起こすくらいだから頭がおかしいとは思ってたけどこうもおかしいとは……」
まったく信じちゃあくれない、それもそうか……。
「律も特異者で、あいつは過去を読み取れるんだよ、それで証明できる!」
「へえ、彼女が……でもね、彼女もグルっていう可能性は否定できない、僕の危険度を高めるだけだ」
楽田はポケットに入れていた手を動かしていた。
ジャラジャラと、ガラスのような音が擦れる音。
手を出すと、何か握っていた。
「避けてみなよ」
宙へ投げたのは、小さな玉――ビー玉だ。
それも複数。
薄暗いのもあって、後退したものの暗闇に呑まれた一球に反応が遅れてビー玉が肩に当たると信じられないくらいの重みが肩にのしかかった。
身体をねじってそれを逸らすも、肩は酷く痛んだ……。
悪い事に、後ろは塀。
後退せずに真横へ転がり込めば逃げ先も確保できたが後悔してももう遅い。
先ほどポケットから聞こえた音は、まだビー玉をいくつも所持しているのを意味している。次の攻撃は、確実にくる。
「じっくり、ゆっくり、ずっしりとやらせてもらう」
今度は両手にいくつものビー玉を握って構える。
こればかりはもう避けられまい……。
レインコートの男が姿を見せてくれればいいものの、辺りを見回しても見当たらない。
ああ、もうこれは死ぬな。
祈莉は悲しむだろうか。
悲しんでくれるだろうか。
とか、思ったりして。
「はい、待った」
その時だった。
楽田の後ろに立つ一人の少女がそう言って一拍。
「……律?」
「律だよ」
少しだけ、ほんの少しだけ安心した。
「やあ瑠璃垣さん」
「やあ楽田くん」
お互い、妙な挨拶を交わしていた。
場の空気が凍り付いていくような、そんな挨拶。
「見ていたよ、それ。重さを付加させる能力、かな? 不思議な能力だ。不思議で、面白い」
「そういう君は、彼の言う通りならば過去を読み取る能力だったかな?」
律はそれを聞いて眼光を鋭くして俺を睨みつけた。
「私の能力をこいつに言うなんて……君はとんだ阿呆だな」
「す、すみません……」
余裕が無かったんです、本当に。
「さて、楽田よ。彼を犯人だと思っているようだが間違いだ、大間違いだ」
「そうかな?」
「たとえ貴方がその力を使って彼を痛めつけて口を割らせようと思っても無駄。割らせられなくても怪我を負わせて入院させて、もしも入院中に事件が起きたら犯人じゃないと判断しよう――とか考えていても止めた方がいい」
そうなのか? 楽田がやろうとしていたのは。
「……君は実に頭が切れる」
「どうも」
「中学校の頃から思ってた、君は何か違うって。まさか、いいや……やっぱり、かな。特異者だなんて、さ」
「特異者はお互いどうしても出会ってしまう」
「そうだね、僕達はそういう関係だ」
楽田はビー玉を地面に落とした。
それらは重々しい落下音をたてる、投げられていたらどうなっていた事やら。
「しかし……彼が犯人じゃないという確たる証拠はあるのかい?」
「あるとも、私は過去が読める。だから過去を読んで確かめた。といっても過去を見せられるわけでもない、私と彼がグルだと疑っている貴方には嘘かもしれないと思うかもね」
「思うね」
「私は警察関係に知り合いがいる。今回の事件では指紋がいくつか検出された、私は彼に内緒で指紋を取って照合させたが指紋は一致しなかった」
いつの間に指紋を取ったんだ。
律も俺に疑いを持っていたのか? いやしかしどうであれ俺の疑いが晴れるのならばそれはそれでいい。
「道路に残っていた足跡も彼の靴のサイズとは一致しない、何なら君の家に証拠の書類を知り合いに送らせてもいい」
なんだか俺、知らない内に色々と調べられてないかな。
「そう……」
楽田は大きな溜め息をついた。
落胆が全身から滲み出て、軽くよろめいていた。
「彼の言っていたタイムスリップは、本当?」
「……ん」
律は言葉を詰まらせて、俺を一瞥。
何だろう、この間は。
「……本当だ」
「ふうん。そんな力を持ってる奴がいるとはね……」
にわかには信じがたい、そんな気持ちを含めた眉の動きをする楽田。
「世の中、不思議な事だらけだ」
まったくだぜ。
お前らの存在とかな。
「それと、もう一ついいかな。君はどうしてこんな時間にここへ?」
律は踵を返して歩き始めた。
「……散歩」
一言だけ、そう言って彼女は暗がりの中に融けていった。
確かにそうだ。
律はどうして日が暮れて誰もが外出を控えるこの時間に人気の無い所へと足を運んでいたのだろう。
「……ふふ」
「な、なんだよ」
不敵な笑みを浮かべる楽田。
「彼女は嘘つきだね」
「嘘つき?」
「……僕も帰るとするかな、君が犯人じゃないと解ったし、また犯人探ししなくちゃ。瑠璃垣さんに引っ付いてればそのうち犯人に出会えるかもね」
「律に?」
「……僕の勘だよ、ただの勘。それより今日は悪かったよ、本当に悪かった。許してくれるか解らないけど」
「あ、いや……誤解を解けて何よりだ」
とても怖かったけどな。
「君は良い人だね」
楽田は去り際に、
「瑠璃垣さんは信用しないほうがいい」
そう呟いた。