第1話 市場の裏路地で、王様、拾いました
全5話、楽しんでもらえると幸いです。
朝の市場というやつは、戦場と大差ない。
「ニコ!その箱、宿屋のおかみさんとこ!走れ走れ!」
「魚屋ンとこ、氷が足りねぇって言ってたぞ、冷却石借りてこい!」
「パン屋のばあちゃんがつり銭間違えたって泣いてる、ニコ行ってやれ!」
なんで全部俺なんだ。
ニコは胸の中で叫びながら、片手に木箱、片手に伝票、口にはパン屋のばあちゃんに渡された焼きたてのコッペパンを咥えて路地を駆け抜ける。
二十年生きてきて、この王都サンクレールの裏路地は、もう自分の家の廊下と同じくらい知り尽くしていた。
どの石畳が浮いているか、どの家のおばさんが洗濯水をぶちまける時間か、どの野良猫がどの屋根を縄張りにしているかまで。
市場の配達兼雑用、それがニコの仕事だ。
父はとうの昔にいない。
母は小さな惣菜屋を細々と営んでいて、妹のミラはこのところ咳が止まらない。
薬代は一回分で銀貨二枚。
一回飲むだけならいいが、医者は「最低でも十日は続けなさい」と言った。
十日。銀貨二十枚。
ニコの月収は銀貨十八枚である。
「だから今日の王城納品、絶対に取り逃がせないんだよなあ……」
市場の魚屋から仕入れた高級な活け魚を、王城の調理場まで届ける。それが今日の最後の仕事だ。
報酬は銀貨五枚。臨時収入としてはでかい。これと自分の貯金を合わせれば、なんとか妹の薬十日分にはなる。
ニコは木箱の重みを抱え直し、王城へ続く大通りへ抜けようと、いつもの近道、靴屋と古道具屋の間の細い裏路地に飛び込んだ。
その瞬間。
「うわっ!」
「っと──」
誰かと正面衝突した。
木箱が宙を舞う。派手な音を立てて木箱は壊れたようだが、中身の活け魚は布で厳重に包んであるから無事、と思いたい。
ニコは尻もちをつきながら、ぶつかった相手を見上げた。
地味な紺の外套を羽織った青年だった。
歳は自分より少し上、二十代半ばくらい。地味な服のはずなのに、なぜか地味に見えない。
背筋がやたらまっすぐで、鼻筋がやたら通っていて、髪が無駄に艶やかで、一言で言うと、
(顔がいい。やたらいい。なんだこいつ、こんな路地裏に落ちてていい人間か?)
「すまない。怪我は」
「いえ、こっちこそ……魚は無事ですけど……」
「魚?」
「あ、いや、こっちの話で」
青年は手を差し伸べてきた。
手のひらに剣ダコがある。庶民の手じゃない。剣を握る手だ。
それも結構長く、まじめに。
ニコの本能が、ぴくりと警報を鳴らした。
この人、なんかやばいぞ。
「兄ちゃん、商人……じゃないよな。役人でもなさそうだし、傭兵にしては服がきれいすぎ──」
言いかけた、そのときだった。
路地の奥、ニコが今しがた抜けてきた方向から、複数の足音が近づいてきた。
一人や二人じゃない。四、五人。それも、急いでいる足音。
靴底が薄い、つまり走り慣れた連中だ。
市場のおっちゃんたちのドタドタした足音とは全然違う、無駄のない、軽い、職業的な足音。
青年の顔色が、ほんのわずかに変わった。
「──まずいな」
「えっ、何が」
「君、悪いが」
ぐい、と腕を引かれた。
ニコはほとんど引きずられるように、もう一本奥の路地へ連れ込まれる。
古い木箱と樽が積まれた、行き止まりに見える袋小路。
奥の壁の下に小さな抜け穴がある場所だ。子どもしか通れない隙間。
「君、ここの地理に詳しいか」
「え、まあ、人並み以上には……」
「そうか。よかった」
青年は早口に言うと、自分の外套を脱ぎ始めた。それも、ものすごい速さで。
「は?え?ちょっ、何脱いでるんですか、まさかそういう趣味の人──」
「違う」
「よかった!」
「服を交換したい」
「もっとわからないんですけど!?」
青年は脱いだ外套をニコに押しつけ、代わりにニコの汗くさい麻のシャツに手を伸ばしてくる。
ニコは木箱を抱えたまま、必死に身をよじって抵抗した。
「待って待って待って待って、俺、配達中なんで!今日の納品は妹の薬代がかかってて、こんなとこで脱がされてる場合じゃ──」
「私は、この国の王だ」
時間が、止まった。
目が勝手に限界まで開く。
路地裏に、奇妙な静寂が落ちた。
遠くで魚屋のおっちゃんが「ニコ遅ぇぞー!」と叫ぶ声が、別の世界の音みたいに聞こえる。
「……はい?」
「セドリック・ヴァン・サンクレール。この国の国王だ」
「いやいやいやいやいや」
「忍んで城下を視察していた。だが、どうやら嗅ぎつけられた」
「待って待って待って」
「向こうは私の顔を知っている。私一人が逃げても追跡される。だが、君と背格好が近い。服を替えれば、どちらが本物かわからなくなる」
「ねえ待って?!」
「君が囮になれとは言わない。だが、このままでは両方危ない」
「言ってることほぼ囮なんですけど?!」
爽やかに言うな。
切羽詰まった顔で、爽やかに言うな。
なんで王様って、無茶を言うときも姿勢がいいんだ。
「あの、陛下、ちょっと待って、えっと」
「時間がない」
「妹の薬が」
「必ず報いる」
「俺の母さんが」
「必ず報いる」
「魚が」
「魚は……すまない、後で十倍にして返す」
国王が魚を弁償すると言っている。
市場のおっちゃんたちに聞かせてやりたい。
迷っている間に、足音はもう路地の入口まで来ていた。
ニコは、覚悟を決めた。
いや、決めさせられた。
「わかりました!わかりましたから!脱ぎます脱ぎます、自分で脱ぐから引っ張らないで!」
慌ただしく服を交換する。
陛下の外套は、見た目以上に重かった。
生地が分厚く、内側に絹の裏地が縫い込まれていて、そこに小さな紋章が刺繍されている。
これは確かに、ただの庶民の服じゃない。
「君、名前は」
「ニ、ニコです」
「ニコ。そこの抜け穴を抜けたら、左の路地を抜けて表通りまで走れ。私はこの先から表通りに出て、護衛と合流する。互いに別方向へ逃げれば、追手は判断に迷う」
「は、はい」
「すまない。本当にすまない」
陛下は、本当に申し訳なさそうな顔をした。
育ちが良すぎる。怒鳴って命令されたほうがまだ気が楽だ。
次の瞬間、二人は別々の方向に駆け出した。
ニコが必死に表通りまで逃げ切り、はあはあと息を整えていると──
「陛下!陛下、こちらでしたか!」
目の前に、黒塗りの豪奢な馬車が止まった。
車体の扉から飛び出してきたのは、銀髪を後ろにきっちり撫でつけた、見るからに有能そうな男だった。
年齢は三十前後だろうか。
眼鏡の奥の目が鋭い。
胃のあたりを片手で押さえている。
見るからに胃が痛そうだ。
「よくぞご無事で……!ご護衛とはぐれたとの報せを受け、このクラウス、心臓が止まる思いでございました……!」
「あの、すいません、人違──」
「お召し物が乱れておいでです。さあ、馬車へ。城へお戻りを」
「いや人違いって言ってるんですけど」
「お戯れを」
「戯れてないんですけど」
「お早く。本日は朝議のお時間が迫っております」
「待って」
「それと、本日午後は税制諮問会、夕刻には外交使節との謁見、夜は宰相閣下との内議が……」
「待って待って」
「さあ、陛下、こちらへ」
ニコは、抵抗する間もなく、馬車に押し込まれた。
ふかふかの座席、窓には金の縁飾り、床には毛足の長い絨毯。
さっきまで木箱を抱えて駆け回っていた人間が乗るには、何もかもが場違いすぎる。
馬車が動き出す。
外の景色が、見慣れた市場から、見知らぬ城下の高級街へ、そしてそびえ立つ宮殿の白い門へと、ぐんぐん変わっていく。
ニコは、頭を抱えた。
(待って待って待って。なんだこれ。なんなんだこれ。さっき魚を運んでた俺が、なんで馬車に乗ってるの。なんで「陛下」って呼ばれてるの。陛下って、俺のこと?違う違う、魚屋の裏口から出てきた人間に向ける言葉じゃないだろ普通。なんでこの胃、痛そうな人、こんな堂々と俺を陛下扱いしてるんだ。気づけ。気づいてくれ。お願いだから誰か気づいてくれええ)
しかし、馬車は止まらない。
白い宮殿の門が、目の前で静かに開く。
黒い軍服の衛兵たちが、整然と一礼する。
「お帰りなさいませ、陛下」
ニコは、馬車の中でぐったりと座席に沈み込んだ。
終わった。
人生が、終わった。
俺みたいな、薄切りハムみたいに頼りない平民が、いま、国のてっぺんに、載せられた。




