第12話 ミステリ作家の苦悩 3/5
神崎雷道はワインレッドのスーツ姿で、後ろに数名の男たちを連れていた。
神崎と同年代と思しき壮年の男もいれば、老境に差し掛かったものもいる。共通しているのは、みな高価そうなスーツを着て、いい身なりをしているということだった。
「待ちたまえ」
逃げるように、いや、実際逃げ出しかけた矢川を神崎のひと言が止めた。
神崎は矢川が立ち止まったことを確認すると背後を向き、今夜はこれで、といった意味のことを話し、それを聞いた他の男たちは、では、と挨拶を口にして歩き去っていった。
「私の行きつけの店がある」
人払いが済んだ路上で、神崎は矢川に言った。予想外の言葉を掛けられたためか、矢川は「え?」と声を発したまま固まる。
客引きの男はとうに店内に戻って姿を消していた。
「行こうか」
と口にして、踵を返して歩き出す神崎。矢川も引き寄せられるように、その後ろ姿を追っていた。
神崎はとあるビルに足を踏み入れた。
繁華街の町並みに一際その存在を主張するかのようにそびえ立っているビルだった。矢川もこのビルの存在は知っていたが、足を踏み入れるのは初めてのようだった。広く明るいロビーをきょろきょろと見回すその所作がそれを物語っている。
二人はエレベーターに乗り込む。
神崎が押した階のボタン横には、〈関係者以外のお立ち寄りはご遠慮下さい〉と注意書きのプレートが貼り付けてあった。
エレベーターが止まりドアが開くと、薄暗いが綺麗に清掃が行き届いた廊下が見えた。神崎の後ろを付いて歩く矢川。足音がほとんどしないのは、廊下に絨毯が敷き詰められているためだ。
いくつかある黒い両開きの扉のひとつの前で神崎は立ち止まり、ゆっくりとその扉を押し開く。
「いらっしゃいませ、神崎様」
中に控えていた男が声を掛け一礼した。
スーツに蝶ネクタイ姿。矢川に声を掛けた客引きと同じような出で立ちだったが、与える印象は全く違っていた。客引きが営業マンなら、こちらはエグゼクティブだった。しかし、神崎に対する接客態度には万全の配慮が整っており、顧客をもてなすトップダウン営業といった雰囲気が醸し出されていた。
男の態度、いや、表情が変化したのは、神崎の後ろにいる矢川を目に捉えた時だった。
「いいんだ。私の連れだよ」
神崎は男の顔を一度も見ていなかったが、男の表情が変わった瞬間にそう告げると、男は一礼し、失礼致しました、と矢川に頭を下げた。
矢川は当惑した表情を顔に貼り付けているだけだった。
ガラス張りの壁際のカウンター席に腰を下ろした神崎は、自分の隣に座るよう矢川を促した。矢川は恐る恐るといった動作で革張りの椅子に腰を預ける。
店内には他に数名の客がいた。
繁華街を歩いていたどの時よりも、今の矢川が一番場違いだった。
「私はいつものものを。彼にはコーラを」
後ろに控えていたボーイが神崎にそう告げられ一礼して去ると、神崎は矢川を向いて、
「それとも、飲みたかったかね?」
矢川は二、三度頷いた。
「正直だな。だが駄目だ。学園理事長が生徒に飲酒させるわけないだろう」
そう言って深い声で、ふふ、と笑った。
「……俺――僕が東都学園の生徒だと?」
顔を覗き込んで訊いた矢川に神崎は、
「当たり前だろう。全校生徒の顔と名前は頭に叩き込んであるよ。矢川瞬くん」
「本当ですか?」
矢川は驚嘆の表情で神崎の顔を見た。
失礼します、と、ボーイが飲み物を運んできた。
神崎の前にはグラスの赤ワインを、矢川の前にはストローの刺さったコーラが入ったグラスが置かれた。
「どうしてあんなところにいたんだね」
窓から繁華街の夜景を見つめていた矢川に、神崎が質した。顔を向ける矢川。
神崎は窓の外に視線を向けたままだったが、その目の表情は、夜景を見つめるというより、見下ろすといったほうが相応しかった。
「スランプかね」
答えを返さない矢川に、神崎が言った。視線は変わらず窓に向けたままで。
「……僕のことを御存じなんですか?」
「ああ、著作も拝読したよ、速水疾駆狼くん」
「参ったな……」
矢川は、はにかんだような表情になって頭を掻いた。
「あの、どう、でしたか?」
矢川のその言葉に、席について初めて神崎は矢川に顔を向けた。
「どう、とは?」
「か、感想です。理事長の感想を、伺いたいです。ぜひ……」
矢川の額に汗が浮かび、喉がごくり、と鳴った。
「感想か」
神崎はワインをひと口、唇を濡らすと、
「……面白かったよ」
そのひと言を聞いた矢川の顔に安堵の表情が浮かんだ。が、すぐに矢川は、
「ほ、本当、ですか?」
訝しむような目になって神崎を見上げる。神崎は、ふふ、と笑みをこぼし、
「本当だよ。楽しませてもらった」
「で、でも……」
矢川は表情を変えずに、
「まずい点、おかしな箇所もあったのではないですか? 僕は、理事長の正直な評価を伺いたい……」
「それは、作者である君自身が一番わかっているのではないかな?」
神崎が答えると、矢川は、ぴくり、と肩を震わせた。神崎はもとのように正面に向き直り、
「だから、あんなところにいた。違うか?」
「それは……」
「夜の繁華街を歩いたって、人生経験を積んだことにはならないぞ。怪しげな店に入ることもだ。まだ高校生の君には、あずかり知ることの出来ない分野というものはある。あまり背伸びをしないほうがいい。わからないものは、わからない、と素直に認めたらいいんだ」
「分相応なものを書け、と……?」
表情を暗くした矢川に、神崎は、
「ふふ、そこまでは言っていないよ。だが、感心したよ。知らないからといって安易に逃げずに、自分のわかる範囲と想像で書ききったことにはね。『自分は知らないから書けない。書くつもりもない』と端からさじを投げずに真正面から戦いを挑んだことは素晴らしいよ。たとえそれが無謀な戦いであったとしてもね。これが若さだ。大人にはあれは、君のデビュー作『セパレートゼロ』は書けない。恐らく審査員もそれを見抜いたのだ。自分たちがなくしてしまった、迸る若さ。情熱。他の誰を視野にも入れていない、自分が楽しいからという理由だけで書き綴る文章。そういったものに嫉妬したんだ」
「……嫉妬、ですか」
矢川は複雑な表情になって俯いた。それを横目で見た神崎は、またワインで唇を湿らせてから、
「そうさ、嫉妬だよ。『今は世間など何も知らないこの若造が、いずれ大人になり色々なことを知るようになったら、さらに面白いものを書くようになるに違いない』というね」
矢川は俯いたまま無言だった。神崎は続け、
「心ない大人はこうも期待しているはずだ。『この才能溢れる若者も、大人になれば周囲に、世間に流され、瑞々しい若い感性は必ず擦り切れるだろう』と、『下手に人の目を気にするようになり、〈書きたいもの、自分が楽しむものを書く〉という創作の根源を見失うだろう』と。……裏切ってやりたまえ」
矢川は顔を上げた。神崎は窓の外を見つめたまま、
「肉体と心は、どうしたって衰える。今のこの世の中で『生きる』ということは、硬い壁に身体を押しつけながら進み、心を他人に切り売りしていくようなものだ。疲弊しない人間などいない。苦労せずに生きていける人間などいない。だが、魂だけは誰にも売り渡すな」
「魂……」
「魂さえあれば、心は癒される。心さえ健全であれば、肉体はついてくる。一時の苦しみに道を見誤るな。自分の魂は裏切るな。……後悔することになるぞ」
「理事長……」
神崎を見上げて、矢川は僅かに瞳を潤ませた。神崎はそれを横目に一瞥しただけで、再びグラスを今まで以上に大仰な手つきで煽り始めた。まるで照れ隠しのようだった。神崎は話題を変えるように、
「家のほうはいいのかね」
「はい?」
「家を空けてしまって。君の家の事情は知っている」
「……父は最近容体がいいので。母も今夜は早くに帰ってきましたし」
「そうか。だが、もう帰りなさい」
神崎は右手を上げてボーイを呼び、
「タクシーを――」
言いかけたが、すぐに上げた右手を懐に入れると、携帯電話を取りだして耳に当てた。
「どうした……何? わかった、ありがとう」
携帯電話を切った神崎は、
「そう言えば、君は直に見たことはあるかね」
「何をですか?」
「ディールナイトだよ」
「あ、あります、何度か……」
「そうか、羨ましいな。私は映像でしか見たことはない。だが、初めて見られるかもしれん」
「え? それはどういう――」
「知人が教えてくれた。近くで例の怪物が出現したそうだ。ディールナイトもじきに来るだろう。君も見に行くかね」
矢川は頷いた。
君、と神崎はボーイを呼び、改めてタクシーを呼んだ。




