第10話 嵐を呼ぶ中間考査 5/5
「先生、新田先生、起きて下さい」
変身を解いてドアから保健室に戻った翔虎は、隣の水野を起こさないよう、小さな、しかし、しっかりとした声を掛けながら新田の体を揺すった。
「……大丈夫です……まだ食べられます……」
「何言ってるんですか先生」
寝言を言いながら手で口を拭った新田の体を、翔虎は尚も揺すった。
新田の頬と右手の甲には、よだれの跡が一筋残った。
「いただきます」
新田は揺すっていた翔虎の手を取って噛みついた。
「いて!」
翔虎は手を引っ込めようとしたが、新田はその手を離さず逆に引き寄せる。
「わわっ!」
翔虎は手を引かれた勢いでベッドに倒れ込んでしまった。
「……!」
目の前数センチの距離に新田の寝顔を見て、翔虎はごくり、と唾を飲んだ。
新田は両手で翔虎の頭を掴み引き寄せようとする。翔虎はその動きを妨げはせず、もう一度喉を鳴らした。
新田の口が小さく開き、その寝息が鼻にかかる。
「……おわっ!」
新田を越した隣のベッドからの音に、翔虎は叫んで飛び起きた。
隣のベッドで水野が上半身を起こした音だった。
「な、何だ、き、君か……」
水野と目を合わせた翔虎は、ばつが悪そうに息を整える。
水野は、「?」という顔で首を傾げた。
「……あれ? 特大肉まんは?」
新田が目を擦りながら目を覚ました。
翔虎は、はあ、と大きなため息をつく。
「あ、水野くん。で、こちらは……どなた?」
起き上がってベッドの端に腰を掛けた新田は、水野と翔虎を交互に見て、まだ半分夢の中といった声で言った。
「尾野辺ですよ、先生」
「ああ、尾野辺くんていうのね。どこか具合が悪くなったの?」
新田は翔虎のネクタイに走る緑のラインを見て、
「えーと……一年生?」
「先生ー」
翔虎は、呆れ顔になって言った。
それを見た水野は小さな声で笑う。
「どうしたの水野くん? ……え?」
新田は保健室を見回して、
「ええー?」
両手を頬に当てて叫んだ。
倒れた椅子。割れた棚。転がるビン。そして、割れた窓ガラス。それらを見回し、
「な、何よこれ! どうしてこんな――あ……そうだ!」
何かを思い出したかのように、急に立ち上がって、
「か、怪物が! 水野くん、尾野辺くん、早く逃げるのよ!」
と、おろおろと二人の生徒を交互に見る新田に、
「大丈夫ですよ先生。ディールナイトが助けてくれたんですよ。怪物も倒してくれました」
水野がそう声を掛けた。
「え? そうなの……いつの間に……」
新田はベッドに座り直した。
「先生が気を失って」
水野は新田から翔虎に視線を移し、
「尾野辺くんが逃げ出した後にです」
「はは、そうだったんだ……」
翔虎は頬を掻いた。
「と、とりあえず理事長に……」
新田は机の前まで行き、電話の受話器を取った。
それを聞いた翔虎は、
「理事長? 警察じゃなくて、ですか?」
「そうなの」
受話器を耳に当てたまま新田は、
「昨日の職員会議でね、今後また校内で怪物騒ぎが起きたら、まず理事長に報告してくれって通達が出たのよ。警察には理事長のほうから通報するからって」
言いながら新田は電話の短縮ボタンを押した。
「もしもし、東都学園高校保険医の新田です、あの……」
保健室でのディールナイトとストレイヤーの戦いに、翔虎、水野、新田の他に気が付いたものはいなかったため、休み時間を挟んで二限目の英語の試験も通常通り行われた。
翔虎も教室に戻り、通常通りに試験を受けた。
「ショウ、お前、もう大丈夫なのか?」
担任の木下は心配そうに声を掛け、翔虎は、礼とともに、大丈夫です、と答えた。
新田の口を通し、神崎理事長の言葉は翔虎と水野にも伝えられた。本日の試験が終わるまで、保健室でのことは口外しないでおいてくれ、というものだった。試験という大切なイベントに生徒の心を乱したくないというのがその理由だった。
翔虎は木下にも誰にも怪物騒ぎのことは口外しなかったが、直だけは別だ。
「どうだった? もう倒してきたの?」
一限目と二限目の間の休み時間に、直のほうから翔虎に声を掛けてきた。
「うん、ちょうど保健室の外にいて」
「そうなんだ。二限目の試験は受けられるね。よかったね。でも、先生たちは知らないみたいだけど、いいの?」
「そうなんだ、実は理事長が……」
翔虎は新田から聞いた話を直にも聞かせた。
「ショウ、どうだった? ていうか、お前、数学は追試だな」
その日の試験が終わり、一時的に安堵の空気が漂う教室で、弘樹は真っ先に翔虎に声を掛けた。
「ああ。ヒロ、後で数学の問題聞かせろよ」
「追試は問題が変わるに決まってるでしょ」
そう言いながら、翔虎と直は他の生徒と同じように帰り支度をしていた。
「あ、テラ」
翔虎は帰り支度を終え、教室のドアへ向かう寺川を呼び止め、
「お前、どう?」
寺川は、ふっ、と笑みをこぼし、
「俺たちの戦いはこれからだ」
「打ち切りエンドじゃん!」
「寺川巧の試験結果に御期待下さい」
「全然期待できんわ」
「しっかりしろ、テラ」
と、弘樹も声を掛けた。
寺川は、もうこれ以上試験の話はしたくない、とばかりに、踵を返して足早に教室を出て行った。
「深井、人のこと聞いてばっかりだけど、あんたはどうなの?」
との直の突っ込みに対して弘樹は、
「……明日から本気出す」
「今日から出せよ!」
じゃ、と手を上げ、弘樹も逃げるように教室を出た。
「はあ……こりゃ、勝負、私勝っちゃうかもよ……ねえ?」
直は翔虎を向いたが、翔虎も、その問題には触れないで、という顔のまま目を合わせなかった。
放課後、翔虎の要望で、翔虎と直の二人は保健室を訪れた。
「あら、尾野辺くん。もう具合は大丈夫なの?」
戦闘の爪痕そのままの保健室で、新田は椅子を回転させて振り返り言った。
「うわー、これは凄いですね……あ、お邪魔します」
直は、激戦の跡が残る保健室を見回しながら足を踏み入れた。
「お邪魔します、なんて。みんなの保健室なんだから、気軽に来てよね。尾野辺くんと同じクラス?」
「はい。一年四組の成岡直です」
「私は保険医の新田春。よろしくね」
「よろしくお願いします。新田先生、お若いですね」
「ふふ、いくつに見える?」
「二十代前半くらいですか? あ、でもお医者さんなら、もっと……」
「うふふ。秘密」
直の答えを聞いた新田は、満足そうに微笑んだ。
「……あ、水野くん」
応接室を仕切る衝立から覗き込むように三人をやりとりを見ていた水野に、翔虎が気付いて声を掛けた。
水野は、衝立の向こうに引き込みかけたが、ぺこり、と小さく頭を下げた。
「ねえ、ちょっと話してもいいかな?」
翔虎の呼びかけに、水野は小さく頷いた。
「じゃあ、私、お茶煎れようかな」
新田は椅子から立ち上がり、ガラスが割れ、中身も半分ほど倒れたり、なくなったりしている棚の前まで歩いた。お茶と湯飲み一式は戦闘の被害から免れていたようだ。
「水野くん、体は大丈夫? 怪物との戦闘で怪我とかしなかった?」
「は、はい……」
小さな手で包み込むように湯飲みを持っていた水野は、視線を下に向けたまま翔虎の質問に答えた。
「水野くん。大活躍だったんですって」
足を組んでソファに座った新田が言うと、水野は、照れたようにさらに下を向く。
「そうなんだよ」
と、翔虎も、
「水野くんが――あ、いや……ねえ?」
急に言葉を止め、水野を向いた。
水野は、「?」という表情で顔を上げる。
翔虎が言葉を止めたのは、直が誰にも見えないように翔虎の尻を突っついたためだった。翔虎もその意味に気が付いたため言葉を止めたのだろう。
「で、大活躍って、どんな?」
翔虎は取り繕うように話を促す。
新田は水野を見て、
「ねえ、言っちゃってもいいよね?」
水野は俯いたまま小さく頷いた。
「私は怪物を見て気絶しちゃってたんだけどね……」
新田は笑って言った。翔虎はその後に、
「僕も、怖くなって逃げちゃった……」
と、頭を掻いた。
新田は、水野から聞いた話を語った。
水野も怪物に胸倉を掴まれ気を失ってしまったが、気が付くとベッドに寝かされていたこと。保健室で怪物と戦っていたディールナイトが転倒してしまったこと。怪物が剣を下に向けたところで、椅子を手にして怪物に殴りかかったこと。
そこからのディールナイトの反撃。怪物を見事討伐するまでを、事細かに。
新田がその話をする間、水野は一度も俯くことなく顔を上げて聞いていた。
「すごいね。ディールナイトを助けたんだ」
直はそう言って水野を見た。水野は少し微笑んで俯いた。
「いやー、僕も見たかったなー……はは……」
と、翔虎は腕を組んだ。
「そういえば」
と、直は、
「まだ自己紹介してなかったね。私、四組の成岡直。よろしくね」
言い淀むように目を伏せていた水野は、新田のほうに視線をやる。新田が微笑んで頷いたのを見て、
「み、水野……真樹、です。三組です……」
「よろしく」
直が差し出した手を、水野は恐る恐るといったふうに握り替えした。
続けて直は、
「私、三組の明神あけみさんと友達だよ。知ってる?」
水野は、その言葉に返事を返すでなく俯いた。
翔虎と新田の視線を受け、直は、あ、と小さな声を漏らして、
「……水野真樹くん、かあ……かっこいい名前だね」
「そ、そんなことないです」
水野は俯いたまま小さく言って、
「女の子みたいな名前だし……」
「それこそ、そんなことないよ」
その言葉を捉えた翔虎は、
「僕の名前に比べたらさ。あ、試験中に僕がここに来た時、新田先生が言った僕の名前、聞いてた?」
水野は首を横に振った。それを見て翔虎は、
「尾野辺翔虎」
「……しょうこ?」
首を傾げて水野は聞き返した。
「そう、僕の名前こそ女の子みたいだろ? 漢字にするとかっこいいんだけどね。翔る虎」
翔虎は宙に指で漢字を書いた。水野はそれを見て、
「うん、かっこいい」
「でしょ」
そう言って水野と翔虎は微笑みあった。
保健室の内線が鳴り、新田は机に向かって行き受話器を取った。
「保健室です。……あ、はい、はい、わかりました」
新田は受話器を置くと、応接セットのほうを向いて、
「水野くん。お母様がお迎えにいらっしゃったわよ」
「はい」
水野はお茶を飲み干し、ゆっくりと立ち上がった。
「私、水野くんを送っていくから」
新田がそう言うと、
「じゃ、僕も」
「私も」
翔虎と直は揃って立ち上がった。
翔虎と直は、新田、水野の後を付いて裏門へ来た。
保健室を出てからは、水野は鞄を両手で抱え、周囲を気にするように新田のすぐ後ろにぴったりと付いて歩いていた。
玄関を出た新田と水野は、正門でなく裏門のほうへと歩いた。
裏門すぐの路上にベージュ色の軽自動車がウインカーを出して停まっていた。
歩道に立っていたセーターとスカート姿の中年女性は、新田の姿を見ると頭を下げた。新田も同じように頭を下げる間に、水野は足早に女性の元へ向かった。
「またね、水野くん」
「じゃあね」
そう言って手を振る直と翔虎に、水野は小さくお辞儀して車の後部座席に乗り込んだ。
中年女性は翔虎と直を見て意外そうな表情をしてから、にこりと笑って頭を下げ、運転席に乗り込んだ。
「試験だから、二人とも、もう帰る?」
遠ざかっていく軽自動車を見送りながら、新田は翔虎と直に話しかけた。
翔虎と直が顔を見合わせたのを見ると、
「時間あったら、保健室でもう一杯お茶飲まない?」
「水野くんって、何か病気なんですか?」
煎れ直したお茶の入った湯飲みを持ち、翔虎は新田に訊いた。
幅広のソファに並んで座る翔虎と直に対面して座った新田は、お茶をひと口飲んでから、
「そうなの。中学時代から体が弱くてね。あんまり学校に行けてなかったんですって。ここにも、入学してから登校したのは何日もないのよ。いつも教室には行かなくて、この保健室に一時間くらい居るだけでね」
「教室にも行けないくらいなんですか?」
直の質問に新田は、ふう、とため息を吐いてから、
「水野くんが学校に来られないのは、体が弱いという理由もあるんだけど……水野くんはね、体だけじゃなくて、心にも病気を抱えてるのよ」
「ああ……」
直はそれを聞いて黙った。
「今日から中間テストだから、私から先週、お家にね、テストは保健室で受けられるよう学校と話をしたから、試験を受けに来られませんかって、駄目もとで電話入れてみたの。そうしたら、お母さんが本人に確認したらしくて、行きます、って。他の生徒が登校を終える時間に、お母さんに車で送られて登校したの。
それ以前は、登校してきたのはお昼過ぎで、保健室には一時間くらいしかいなかったから、今回は凄い進歩だったのよ」
「クラスに友達とか……」
翔虎の質問には、新田は軽く首を横に振り、
「同じ中学から進学した生徒はひとりもいないの。お母さんの話では、それも本人の希望だったんですって。そんな環境だし、本人もとても引っ込み思案だからね。自分から他人に話しかけるなんてなかったのに。私に水野くんのほうから声をかけてくれたの、今日が初めてなのよ」
「そうだったんですか。水野くん、あの時も……」
「え? あの時って?」
新田の声に翔虎は、
「あ、いやいや、あの時、あの時のことですよね? ほら、ディールナイトの話をした時の……」
「そうなの。水野くんのあんな目、初めてみたなぁ……」
新田は湯飲みから立ち上る湯気の行方を見るように、天井に視線を上げた。
「ねえ、まーくん」
運転席で水野の母は、後部座席に座る息子に話しかけた。
バックミラーに写る水野真樹は、窓の外を眺めていたままだったが、母親は構わず語りかける。
「やっぱり転校しましょうよ。あんな危ない学校に、私、まーくんを預けられないわ。また怪物騒ぎがあったんでしょ? 噂だと、生徒がさらわれたとか。ニュースではあんまり扱わなかったけど……」
水野は視線を前に向け、バックミラー越しに母親に対して首を横に振った。
その目が強い意志を現していることを感じ取ったのか、母親は意外そうな顔をした。
水野はさらにバックミラーを見つめて、
「僕、また学校に行ってみる。行ってみたい……」
「まーくん……」
母親は、息子の口からそんな言葉が出てくるとは思ってもいなかったのだろう、わずかに瞳を潤ませた。
バックミラーの中の息子は、すでに後ろを向いており、リアガラスの向こうに視線を向けていた。
水野がリアガラス越しに見ていたのは、遠ざかっていく母校、東都学園高校の校舎だった。
――2016年5月10日




