第10話 嵐を呼ぶ中間考査 2/5
「あの新理事長って、何者なんです?」
放課後の文芸部室。翔虎は勉強の手を休めて、美波と矢川にそう尋ねた。
「ああ、あの朝礼の挨拶。熱かったね」
矢川もパソコンのキーを叩く手を止めて言った。
中間考査前日ということで、本日の活動は休みとなった部が多かったが、文芸部は全員が部室に集まっていた。
もっともいつも通りの活動をしているのは矢川だけで、他の四人はみな、試験に向けての勉強に余念がなかった。
「あいつ、ちょっとおかしいです」
と、シャープペンシルを動かす手を止めてこころも、
「他人を傷つけてもいいから、やりたいことをやれ、だなんて、反社会的です」
「そうだね。あれは、ちょっと極論だよね。仮にも学校の理事長が、あんなこと言っていいのかな?」
こころの話を受けて、矢川は言った。
「噂なんだけどね……あ、ちょうどいいから、少し休憩しましょうか」
美波は椅子から立ち上がって給湯場所まで歩き、お茶の用意をした。
「南方先輩、手伝います」
と、直も立ち上がり駆け寄った。
「で、みなみな先輩、噂って?」
お茶の準備をするために黙ってしまった美波を、こころが促す。
「あ、そうそう、その噂っていうのがね……」
美波は話を再開し、
「あの神崎って理事長。いくつもの会社を経営してる大金持ちなんですって。で、うちは私立じゃない? 理事長の椅子も、金にまかせて手に入れたって噂」
「えー、うちの理事長の座って、そんなにしてまで手に入れる価値があるんですか?」
と、隣でお茶を煎れていた直が驚いた声を上げる。
美波の話は続き、
「何でもね、学校の経営をするのが夢だったんですって。なんとかっていう経済誌に載っていたインタビューを読んだことがあるって、うちのクラスメートから聞いたわ」
「手っ取り早く、金の力で理事長になれる学校なら、どこでもよかったってわけですかね?」
矢川はそう言ってから、「ありがとう」と、直からお茶の入ったカップを受け取った。
「そうなのかもね。でもね、噂はまだあって……」
言いながら美波も自分のマグカップを手に席に戻る。
こころ、翔虎の前にも直の手でマグカップが置かれ、こころは「ご苦労一年」と。翔虎は「ありがとう」と、それぞれ礼を言う。
直も席に戻ったところで、美波は話を続け、
「最近の怪物騒ぎ、マスコミとか警察の動きが大人しくなったと思わない?」
「言われてみれば……そうですね」
と、矢川が言うと、こころ、翔虎、直も、そういえば、と口々に同じような言葉を呟いた。
美波は部員の顔を見回して、
「それが、理事長の力だっていう噂があるの。神崎理事長が、方々に口を利いて、怪物やディールナイトの騒ぎをあまり大っぴらに取材したり、捜査しないようにって、マスコミや警察にお願いしたって。お願いっていうか、ほとんど圧力を掛けたみたいなものらしいわよ」
「本当ですか?」
「あくまで噂だけどね」
翔虎の問いかけに美波は答えた。
それを聞いた矢川は上目遣いになって、
「ということは……神崎新理事長は、うちの学校の理事長になる前から、そういう働きかけをしていたことになるね。マスコミや警察の動きが鈍ったのは、昨日今日の話じゃないもの」
「理事長、どんだけ力を持ってるんですか」
こころは呆れたような声を出した。
「どういうことなんでしょう?」
直がそう問いかけると矢川は、
「怪物やディールナイトがこの学校に頻繁に出現することを知って、ここの理事長になることに決めた。同時にマスコミや警察に圧力を掛けた。そんな流れかな? まあ、噂話をもとにした憶測でしかないけれどね」
「何のために……」
翔虎は机を見つめたまま呟いたので、誰に話しかけたでもなかったようだが、美波は、
「ディールナイトのファンだったりしてね」
と言って笑った。
「はは、ありえますね」
矢川も笑みをこぼした。
「ロリコン。ロリコン理事長です」
こころは不快そうな顔をする。
「……ロリコン」
翔虎は複雑な表情で小さく呟いた。今度はそれを直が聞き止め、翔虎を見て無言で笑った。それに気が付いた翔虎は、憮然とした表情になってマグカップのお茶を煽り、そして、気を取り直したように矢川に声を掛ける。
「ところで、矢川先輩は試験前なのに原稿執筆ですか。凄いですね」
「いやー、もう達観してるっていうかさ。なるようにしかならないよ。今更じたばたしたって、しようがないよ」
矢川は笑ってそう答えた。
それを聞いた美波は手を打ち合わせて、
「あ、そういえば、罰ゲームの話、この前、有耶無耶になったままだったわね。ね、こころちゃん」
「わーはー!」
こころは両腕を投げ出すように机に突っ伏して、
「みなみな先輩ー。この前はせっかく林の乱入で話が流れたと思ってたのにー」
投げだした両腕をぶんぶん振っていたが、がば、と顔を上げると、
「尾野辺! お前、本当に余計なことしかしませんね! たまには人の役に立つことをしたらどうですか!」
と言って、翔虎を睨んだ。
「えー」
「私、私……」
こころは涙目になり、
「あの後、矢川先輩に聞いた〈後期クイーン的問題〉っていうのを調べて、図書館で、ほうげつ何とかっていう作家先生の書いた本を読んでみたんですけど、ちんぷんかんぷんでしたー。私、そんなののレポートなんて書けませんー」
こころは泣き出してしまった。
「……下級生がいる前なのに、先輩が泣いてる。人目も憚らず」
翔虎は少しの憐憫を湛えたような目でこころを見た。
こころは、再び、きっ、と翔虎を睨み。
「尾野辺! 何ですかその目は! 今日という今日は決着を付けますか? あんみつ大食い勝負ならいつでも受けて立つですよ! あんみつ三十人前、買ってこいです!」
「そんな勝負申し込みませんから」
「うわー! みなみな先輩、尾野辺にコケにされました!」
こころは立ち上がって美波の元へ走り、胸に飛び込んだ。
「はいはい、よしよし」
美波はその頭を撫でる。こころは尚も、
「哀れみの目で見られました。
お前、そんなことも理解できないのかよ、マジ頭わりーな。『ギリシャ棺』いつ読み終わるんだよ。同じところ何回も読み直してんじゃねーよ。お前なんか、みなみな先輩に甘えさせてもらって、頭撫でてもらえ。
って言われました」
「そんなこと言ってないじゃないですか!」
「いいや、お前の目が語ってました! だからみなみな先輩。もっと頭を撫でて下さい」
こころは美波の胸にさらに強く顔を埋める。
「あ、それにこころ先輩」
翔虎の呼びかけにこころは顔を向けて、
「まだ何かあるんですか!」
「さっき、こころ先輩が読んだ本の作者。『ほうげつ』じゃなくて、『のりづき』ですよ」
「へ?」
「のりづき、です、ミステリ作家の『法月綸太郎』です」
「……みなみな先輩! 尾野辺のやつ、私をバカにしすぎです!」
こころは美波の胸に顔を戻した。
「こころ先輩。僕にバカにされたって口実にして、南方先輩に甘えたいだけなんじゃ」
「何だとコラ――」
こころの言葉は、部室のドアをノックする音で止められた。美波が、どうぞ、と声を掛けると、
「失礼しまーす」
と言いながら、メガネを掛けた女子生徒が顔を見せた。漫画部の明神あけみだった。
「あ、直」
あけみは部室の中で直の姿をいち早く捉え、声を掛けた。
「あけみ。終わった?」
直は教科書やノートに鞄にしまい、帰り支度を始める。
「直、明神さんと帰るの?」
翔虎の問いかけに直は、
「うん、あけみの家で勉強。あけみは部に少し用事があるっていうから、待ってたんだ」
「こんにちは、皆さん」
あけみは他の部員にも挨拶をする。文芸部の一同も、こんにちは、と返した。
「あ、こ、こんにちは」
翔虎が返した挨拶は、少しぎこちなかった。
「尾野辺くん……だっけ? ん? どうかした?」
あけみは小首を傾げ、その拍子にズレたメガネを指で押し上げた。
「あ、い、いえ、何も……」
少し赤くなって答える翔虎に、直は冷たい視線を送っていた。あけみは未だ美波に抱かれたままのこころに向いて、
「あ、こころ先輩」
「何ですか? 漫画部」
「今度、取材させて下さい。聞きましたよー。怪物にさらわれて、ディールナイトに助けられたんですって?」
「ふふん」
と、こころは鼻を鳴らして、
「漫画部にも見せたかったですよ。私の勇姿」
「こころ先輩は何もしてなかったじゃないですか」
「何だと尾野辺! お前、あの場にいなかったくせに、憶測で勝手なことを言うなです! 何もしてなかったのは本当ですけど!」
こほん、と、直が咳払いをした。翔虎は、しまった、という顔をして直に目をやるが、直はもう翔虎を見てはいなかった。
「そうか、文芸部でディールナイトに会ってないのは、尾野辺くんだけだね」
そのやりとりを見ていた矢川が言った。
翔虎は矢川を向いて、
「あ、そ、そういえばそうですねー。あー、僕も会ってみたいなー、ディールナイト」
多少白々しげにそう言った翔虎に、矢川は、
「近くで見るとやっぱり違うよ、かっこよくて。小さくてかわいいし」
「か、かわいいですか……」
「うん、それはもう。みんなが夢中になるのわかる気がするね。明神くんも、助けられた時に近くで見たからわかるでしょ」
「はい、もちろん。まあ、あの時はメガネが外れてよく見えなかったんですけどね。それに……」
「それに?」
矢川の言葉に促されたあけみは頭を掻いて、
「へへ、私、またディールナイトに直接会ったんですよ。この前のプールの戦いの時」
ごふぅ、と、翔虎は飲みかけのお茶を吹き出してしまった。
「翔虎、汚い」
直が布巾を持ってきて机や翔虎の制服を叩く。
「え? そうなんだ。どこで?」
さらに矢川に促されてあけみは、
「それがですね、シャワー室で、いきなり壁を突き破ってきて。だから、また私メガネしていなくて、その時もよく見えなかったんですよねー。残念」
(翔虎のほうからは、よく見えたんでしょ?)
こぼれたお茶を拭く途中で、直は翔虎の耳元に唇を付けて、蚊の鳴くような小さな、そして、冷たい声で囁いた。布巾を持ったその手は、すでに水気を吸いきった翔虎の服を心なしか強めに叩いていた。
翔虎は汗を流したまま微動だにしなかった。




