第8話 こころはみなみ向き 3/5
物語の視点は昨年の九月に遡る。
夏休みが終わり、学校は二学期を迎えていた。
一年六組の教室、始業前のホームルーム。黒板の前にはロングヘアの女子生徒が立ち、隣の担任教師が話をしていた。
「加々美は、この二学期から名字が変わります」
担任教師はそう言って、黒板に名前を書き記した。
「えっ?」「何?」「何て読むの?」
書き記されたのの名前を見た生徒らは、口々にさざめき合った。
「権田原心。加々美の新しい名字は権田原です。名字は変わっても、今まで通り仲良くしてあげて下さい」
まるで名字が変わったら別の人間になってしまうとでもいうような教師の発言は、誹りを免れないだろう。
だがそれ以上に黒板に書かれた新しい名字は、生徒らに大きなインパクトを与えた。不謹慎にも口を押さえて吹き出す生徒もいた。教師はその行いを形程度に諫めただけで、
「じゃあ、席に着け、かが――権田原」
こころ、当時はまだその名前を持っていなかった、権田原心は、無言のまま席に戻った。
「よろしくな、権田原」
隣の男子生徒が声を掛けてきた。その響きには、純粋な意味はなく、変更された名字を茶化すようなものとしか取れなかった。現にそれを聞いた周囲の生徒の中から、くすくすと笑いを堪えるような声が漏れた。
元々内気な性格で、同じ中学からこの東都学園高校に進学した生徒もおらず、一年の二学期が始まる今まで、加々美心に友達と呼べる関係を持つクラスメートは存在していなかった。
それでも彼女に対して、加害的な行為をしてくる、もしくは加害的な言葉を浴びせてくるような生徒の存在はなかったが、この名字変更はその箍を外してしまったかのようだった。
高校生ともなれば、言わずとも名字が変わるということの意味を自然と察する。〈権田原〉は、心の母親の姓だった。
心は、体と心に痛みを伴うようなことをクラスの人間からされるようになった。そしてご多分に漏れず、そういった行為は教師には一切露見することなく行われていったのだった。
ある日、心は屋上のフェンス越しに町を眺めていた。その視線の向きは徐々に下がっていき、校舎のすぐ前の駐車場で止まった。その黒く堅いアスファルトの上で。
心の視線は上を向いた。フェンスの頂上までは約三メートル。
乗り越えられない高さではないな、と、心の目が言っていた。こう付け加えられて、『――死ぬ気になれば』
「どうしたの」
心が背後からそう声を掛けられたのは、フェンスに手を掛け登頂の第一歩を踏み出した瞬間だった。
心は、いたずらの現場を見とがめられた子供さながら、ばつが悪そうに、ゆっくりとフェンスから手を離した。
足音が近づいてくる。それはすぐ隣で止まった。
「ねえ。……一年生か」
隣に立った女子生徒は、心の赤い靴紐を見て言った。声を掛けた女子生徒の靴紐の色は青だった。夏服のためリボンはしていなかった。
「私もよく来るよ。眺めいいもんね。本当は屋上に上がるの禁止なんだけどね」
東都学園高校では生徒の屋上への立ち入りを禁止していたが、屋上には各設備点検の目的で業者や教師が頻繁に出入りするため、施錠はされておらず、その規則は有名無実化していた。
「ねえ、座らない?」
その女子生徒は二枚ハンカチを広げ、屋上の床に敷き、半ば強引に心を隣に座らせた。
「名前、教えてくれないかな?」
その言葉にも心は無言を貫いた。
「あ、ごめんね。私は、南方美波、二年一組」
心は少し顔を向けたが、美波が微笑むとすぐに元のように顔を伏せた。が、
「……権田原心さん、でしょ」
美波の言葉に、すぐに顔を上げ、今度は長い時間、美波の顔を見つめていた。
「ふふ、ごめんね。実はね。ある人に頼まれたんだ。ちょっと〈折れそう〉な一年生がいるから、話聞いてやってくれないか、って。あ、話を聞いてやる、なんて、偉そうだね。ふふ」
心は立ち上がろうとしたが、美波はその腕を掴んで、
「待って。話をさせて」
「……放っておいて下さい」
「放っておけないから話をさせてって言ってるんじゃない」
「どうしてですか」
「だって、私が声かけなかったら、あなた、どうしてた?」
心は言葉を詰まらせた。視線がフェンスに向く、その向こう側に広がる町。
駐車場のアスファルトはこの位置からでは見えなかった。
「ここ、眺めはいいんだけど、少し暑いね。ねえ、うちの部室に来ない?」
美波は頬に流れた汗が暑さのせいであるかのように言った。
その日は雲が少なく、屋上は一日中陽光に晒され続けている。
心の頬からも汗が流れ落ちた。
心は美波に促され立ち上がった。
美波は文芸部室に心を連れてきた。道中、やさしく、だがしっかりと手を握ったままで。
「はい、どうぞ」
椅子に座らせると、美波はそう言って麦茶の入ったグラスを心の前に置いた。入れたばかりだったが氷はもう溶け始め、バランスを失ってグラスに当たり、乾いた音を部室に響かせた。
「……私の名前、どう思いますか?」
心は俯いたまま言った。美波は心の隣、ドア側に腰を下ろし、
「ちょっと変わった名前ね」
「……ですよね」
心は一瞬、自嘲気味に笑った。美波は机に腕を付き、心の顔を覗き込むようにして、
「〈御手洗潔〉って知ってる?」
心はかぶりを振った。
「御手洗と同じ漢字で、〈みたらい〉って読むの、名前の〈きよし〉は、清潔の〈潔〉の字」
「……人の名前ですか」
心は俯いたまま言った。
「そう、トイレ掃除するみたいな変な名前でしょ。でもね、私はこの名前、最高にかっこいいと思ってるんだ」
「……どうしてですか」
「だって、御手洗潔は日本一、ううん、世界一の名探偵なんだもん」
「探偵?」
「そう、ただの探偵じゃないよ。名探偵」
「実在してるんですか?」
「ううん、小説の登場人物」
「何だ……」
心はため息をついて消沈したように言い捨てた。美波は、
「私も最初は変な名前だと思ったよ、『作者、もっとかっこいい名前を付ければ良かったのに』って。でもね、段々とその印象は変わっていくの。どんな恐ろしい犯罪や事件も、すごい推理力と行動力でどんどん解決していって、いつに間にか、御手洗潔っていう名前からは、かっこよくてやさしくて頭のいい名探偵、って印象しか浮かばなくなっちゃった」
「でも、小説の人ですよね」
「それって、架空、実在、関係あるかな。変わっていたり、平凡な名前でも、何かすごい特技を持っていたり、すごくやさしかったりしたら、その名前もそんなふうなイメージになるんじゃないかな?」
「それは……私に難事件を解決しろっていうんですか?」
「ぷっ」
美波は吹き出して、
「ごめんね。そういう意味じゃなくて……心ちゃん、面白いね」
美波は、ごめんね、と言って、もう一度吹き出した。
「……私」
心は話し出した、
「自分の名前、大好きだったんです。元の名字の時ですけど」
「加々美心、だっけ」
心は頷いて、
「心に美しいものをどんどん加える。大好きだったんです……それなのに……」
「名前が変わったからって、心ちゃんまで変わっちゃうことないじゃない」
「私は……変わってません」
「それなら、いいじゃない」
「でも、周りが……」
「心ちゃんが変わらないなら、それでいいんだよ。周りは関係ないよ。だって、クラスメートなんて、高校三年間の間だけ、一日のうちに何時間しか一緒にいないんだよ。でも、自分とは、一生一緒にいなきゃいけない。その自分が変わらないなら、それでいいじゃない」
「……」
心の目に涙が浮かんだ。俯くと、机の上に大粒の涙が落ちる。
美波はそっと背中を抱き、ハンカチを手渡した。受け取ったハンカチは、まだ屋上の床から吸収した熱が残っていた。
「こんにちはー……あれ?」
「ちょっと、矢川くん、入る時はノックくらいしなさい」
ノックもなしに部室のドアを開いて入ってきたのは、矢川瞬だった。美波は心の顔を隠すようにして、矢川を諫めた。
「ん? もしかして、この時期に新入部員? やりましたね南方さん。これで廃部から免れるのに一歩前進ですね」
「そうなの。よろしくね」
「え? あ、あの、私――」
心は顔を上げて言った。その目にすでに涙はなかった。
「よろしくねー」
矢川は手を振り、
「俺は二年一組の矢川瞬、またの名を、速見疾駆狼」
「またの名? はやみ……何ですか?」
きょとんとする心に矢川は、
「はは、ペンネームだよ。俺、今小説書いててさ。それに使うペンネーム。どう? かっこいい?」
矢川は、机の上にあったメモ帳に〈速見疾駆狼〉と書き綴った。
「……これで、はやみしくろう、って読ませるんですか?」
「そうだよ」
矢川は満面の笑み。
「……変な名前」
「ははは」
矢川は声を出して笑って、
「でもね、今にこの名前を本格ミステリ作家の代名詞、まで広めてみせるよ。あ、代名詞は言い過ぎかな」
「名前……み、南方先輩」
心は美波を向き、
「私、文芸部に入ります。入れて下さい」
「もちろんよ」
「よろしくね」
と、言ってから矢川は、
「ん? まだ入部を決めてなかったの?」
「私も作家になります。かわいいペンネーム付けて」
心は顔を上げた。矢川はそれを聞くと、
「お、いいねー。どんなの書くの?」
「御手洗さんが出てくるようなのです」
「おお、本格ミステリ! 俺のライバル誕生か。いや、同じ部にライバルができるなんて嬉しいよ。ドラマみたいだ」
うんうんと頷いて矢川は微笑んだ。心は美波に、
「先輩、御手洗さんの本、貸して下さい」
「え? まだ読んでないの? ミステリ作家を目指してるのに?」
グラスに麦茶を注いでいた矢川は、驚いた顔で振り向いた。
「いいわよ。でも、私もほとんど矢川くんに借りて読んだから……」
「お安いご用さ」
矢川は麦茶の入ったグラスを手に机に戻ってきた。ほんの数歩の距離だが、はやるように走ってきたせいで、麦茶が床と机にこぼれた。
「まず、本格ミステリの歴史を変えた、いや、新たに歴史を作った正真正銘の大傑作、『占星術殺人事件』だね。それから短編集に行こうか、短編集を何冊か読んだら、何か長編をもう一冊、『暗闇坂の人食いの木』あたりがいいかな。そしていよいよ異形の傑作『異邦の騎士』これはこのくらいのタイミングで読むことをお勧めするよ――」
「みなみな、いる?」
心も少し引き気味の矢川の熱いトークは、入室者によって遮られた。
「凛、もう、ノックくらいしてよね。本当に誰も彼もが……」
「だって、どうせみなみなくらいしかいないと思って……あら?」
入ってきた霧島凛は、心の姿を目にして、
「どう? 文芸部は」
「はい、私、入部することに決めました」
「そっか、よかった。じゃあ、みなみな、話はまた今度で、別に大した用事じゃないから。またね」
凛は矢川や心にも手を振って部室を出た。
「今の、霧島さんですよね。生徒会役員の」
「そうよ。よく知ってるわね」
心の言葉に美波は答えた。心は、
「私、クラス委員をしてて、っていうか、させられてて、生徒会の集まりにも何度か出たことあって、そこで、霧島さんによくしてもらって……あ、もしかして、南方先輩に私の話を聞いてくれって頼んだ人って……」
美波はにっこり微笑んで、その答えにした。
「霧島さん、南方先輩のこと、みなみな、って呼んでるんですね」
「そうなの。みなかたみなみ、で、みなが続くから。私が一年の時に、同じクラスになった凛が付けたのよ。私も、自分の名前、変だなって思ったことあるよ」
「そんなことないです。とても素敵な名前だと思います」
「ふふ、ありがと」
「先輩、私も、みなみな先輩って呼んでいいですか?」
「え? うん、いいわよ」
「ありがとうございます。南方――みなみな先輩!」
「改めてよろしく、新入部員さん」
「私、明日までにペンネーム考えてきます。明日からは、その名前で呼んで下さい」
「うん、素敵なの考えてきてね。でも、矢川くんのは参考にしちゃ駄目よ」
その言葉を聞いた矢川は、
「南方さん、ひどいな。そんなに変かなぁ? かっこいいと思うんだけど。こういうセンスって、女の子にはわからないね」
「ぷっ」
と、心は吹き出した。
「笑った顔、すごくいいよ」
美波は言った。
「え?」
心は頬を赤くして、
「そ、そうですか?」
「うん、で、髪の毛もさ……」
美波は心の長い髪の左右を片手ずつに束ねて持ち、頭のサイドに持ってきて、
「こんな感じにしたら、もっとかわいくなるよ」
それを見た矢川は、
「ああ、いいですね。そういうの、何て言うんでしたっけ? ツインクロス? 何かかっこいい名前だったような――そう、ツインテール! いや〈ツインテール〉も、すっかり怪獣の名前から、女の子の髪型の名前に印象変わっちゃいましたね」
「何それ?」
「南方さん、知りません? 怪獣ツインテール。『帰ってきたウルトラマン』に出てきた……」
美波は矢川の語りを無視して、
「じゃあ、これから一緒に入部申請書を提出しに行こうか」
「はい」
心は笑顔で答えた。




