第20章 - 罠
京都の夜明けは灰色に沈んでいた。低く垂れ込めた雲が空を覆い、これから訪れる出来事を暗示しているかのようだった。藤本カイトと中村アイコは事務所で宮沢ハルカの事件資料を広げていた。臓器売買の影が浮かび上がった前回の調査――それは氷山の一角に過ぎないと、二人とも理解していた。
重苦しい沈黙を破ったのはアイコだった。手帳を見下ろしながら、親族から得た証言を読み返す。
「……弟は何も知らないって。ご両親は『最近ハルカは幸せそうだった』って。まるで特別な誰かがいたみたいに。」
カイトは眉をひそめ、低く言った。
「恋人……かもしれないな。」
「分からないわ。」アイコは首を振る。「でも、赤の他人じゃないのは確か。彼女は相手を信じていた。」
その日、二人は親戚や旧友を訪ね歩いた。叔母、いとこ、元同僚……誰もが口をそろえて言う。――ハルカはいつも優しく、控えめな性格だったが、最近はどこか輝いていた、と。まるで心に火を灯したように。
苛立ちが募る中、遠い親戚の家で思わぬ言葉が落ちた。
「……佐藤ミユキさんに会いましたか?」お茶を差し出しながら女性が言った。「彼女が一番の親友でした。ハルカのことなら、何か知っているはずです。」
――その名は、霧の中に差し込む光のようだった。カイトとアイコは目を合わせ、同じ確信を抱いた。
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静かなカフェ。佐藤ミユキはうつむいたまま席に座っていた。三十代前半、やつれた顔に涙の跡を残したまま。だが親友のため、話す決意をしていた。
「……ハルカは全部話してくれました。」かすれる声で彼女は言った。「職場で出会った男性のこと。とても魅力的で、エレガントで……名前は田辺リョウイチと。」
カイトは微動だにせず耳を傾ける。
「彼の仕事は?」
「営業部でした。誰にでも好かれる人で……ハルカは特別扱いされているって。本当に舞い上がっていたんです。私は注意したけど……聞き入れてくれなかった。」
ミユキの手は震え、カップを落としそうになった。
「最後に話したのは……亡くなる前の日。『今夜、彼にディナーに誘われたの』って……それが最後でした。」
言葉を詰まらせた彼女の手を、アイコがそっと包み込む。カイトは無言のまま、内に燃える怒りを押し殺した。
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事務所に戻ると、アイコはきっぱりと言った。
「名前、勤務先、手口。――田辺リョウイチが犯人よ。」
カイトは腕を組み、沈んだ声で返す。
「その通りだ。ただ、証拠がない。今逮捕してもすぐ釈放されるだろう。こいつは単独じゃない。背後に組織がある。」
アイコは彼をまっすぐに見つめ、言った。
「なら……私が近づく。」
カイトの目が大きく見開かれる。
「……何を言ってる?」
「彼の獲物になりすますの。客を装って接触すれば、罠にかかる。」
その言葉は雷のように響いた。カイトは立ち上がり、机を強く叩いた。
「正気か!? 命を張るつもりか!」
しかしアイコは一歩も退かなかった。
「カイト、これしか方法はないの。私はやれる。」
彼は苛立ちに歩き回り、唇を噛む。
「……もし失敗したら? 俺が間に合わなかったら?」
アイコの瞳は揺るがない。
「信じて。あなたは隣にいる。すべて聞こえてる。私は一人じゃない。」
沈黙が流れる。心は叫んでいた――彼女を守れ、と。だが理性は告げる――彼女の案こそ突破口だ、と。
カイトは深く息を吐き、低く言った。
「……いいだろう。ただし、少しでも危険を感じたら俺が入る。」
アイコの唇にかすかな笑みが浮かぶ。
「約束よ。」
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翌日、作戦が始まった。
アイコは顧客を装い、田辺リョウイチが勤める会社を訪れた。シンプルで上品な服装、目立ちすぎない魅力を纏い、胸元には小型マイク。すべてはカイトの耳へと繋がっている。彼はビルの外に停めた車の中で耳を澄ませていた。
現れたリョウイチは、まさに証言通り。端正な顔立ち、完璧に整えられたスーツ、安心感を漂わせる笑み。
「中村様、お会いできて光栄です。当社にご興味を持っていただけるとは。」
「ええ。詳しく知りたくて。」アイコは柔らかく微笑んだ。
会話は滑らかに進んだ。リョウイチの声も仕草も、すべてが計算され尽くしていた。カイトは車中でハンドルを握り締め、アイコの笑い声に胸をざわつかせる。
「本当に素晴らしいお仕事をされていますね。」
「ありがとうございます。でも……別の場面でこそ、私の力は発揮されるんですよ。」
――その含みのある言葉に、カイトの心拍が跳ね上がる。
やがて、彼は狙い通りの一言を放った。
「今夜、ゆっくりと食事でもどうですか?」
短い沈黙。カイトの喉が鳴る。
「……喜んで。」アイコの声は自然だった。
だが、カイトの胸には鋭い痛みが走る。作戦だと分かっていても、彼女の返事は心を掻き乱した。
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その夜。アイコは自宅で準備を整えていた。外ではカイトが車に待機し、銃と通信機を何度も確認している。窓越しに、彼は灯る部屋の明かりを見上げた。
間もなく――田辺リョウイチが迎えに来る。
街のざわめきが遠く響き、車内を満たすのは緊張の沈黙だけだった。カイトは拳を握りしめた。
これは、嵐の前の静けさにすぎないのだ。




